港のある街から数刻余り。さんは馬車に揺られながらも上機嫌だった。何がそんなに楽しいのかと目線を送れば、さんは「楽しいですよ」とぼくの心を読み取ったように返す。鼻歌までも歌い出しそうなその表情は、きらきらと輝いていた。
「カトルくんは? 楽しくない?」
街を出てから特に変化のない景色を眺めて久しいが、首を傾げられながら尋ねられると言葉に詰まってしまう。他に乗客がいなければ素直な心情を吐露しても良かったが、隅に座った商人が寝たふりをしているのは明らかだったから「普通です」と答える他なかった。
ぼくの返答にさんがめげる様子はない。コルワさんが新しく作ってくれたというワンピースの裾をいじりながら「楽しみだなあ。野いちごがね、すごいんですよ。たくさんあって、摘みきれないの」と微笑んでいる。もうその話は何回も聞いたとは言わず、ぼくは曖昧に頷いている。広々とした果樹園が流れていくのを馬車から眺めながら、長閑で良いところだなと思った。こんな風に彼女とまた過ごせるなんて思ってもみなかった、とも。
あの一件から数か月、ぼくの怪我はすっかり治っていた。頭目やグランさんは、なんだかんだ言って加減をしてくれたらしい。悔しい思いがないと言えば嘘になるが、それでもぼくを四天刃から解放してくれたことに関しては、感謝してもし足りなかった。目を覚ましたシスさんを始め、迷惑をかけた人たちにも謝罪して回って、唯一治りの悪かった利き腕も調子が戻り、ようやく落ち着いて騎空団の団員として仕事を再開しようと考え始めた頃、「お仕事に復帰する前に、私のお願いを聞いてもらえますか」とさんに声をかけられたのが、数日前のことだ。一緒に来てほしいところがあるのだと、やや緊張を孕んだ面持ちで、ぼくに内緒事を打ち明けるようにして彼女は口にした。
今日、だからぼくはこうしてさんと「カヤノさん」に会いに来ている。
その藁葺き屋根の家は、鋪装されていない小道を暫く歩いた先にあった。コナラの倒卵形をした葉が作る木漏れ日の中、さんはぼくの隣からぱっと走り出す。危なっかしいな、と注意しようと口を開きかけたそのとき、「カヤノさん!」とさんが呼んだから、ぼくは唇を半開きにさせたまま、彼女の身体の陰に隠れた白髪頭の女性を見た。
庭で何か作業をしていたらしいその人はぼくが彼女に追いついた頃、さんの身体からそっと顔だけを傾かせてこちらを見た。小柄で、柔和な面立ちの人だった。礼をするぼくに、彼女は綻ぶように笑った。
さんから話は聞いていたけれど、実際カヤノさんに会ってみると、なるほど彼女が信頼したくなるのも分かる気がした。二人は血が繋がった祖母と孫と言われてもおかしくないほど雰囲気が似ていて、さらに滲み出る親密さと気安さがあった。本当に会うのは二度目なんですよね、とぼくは首を傾げてしまいたくなる。
一人で暮らすには広い家だ。星屑の街のぼくたちの家のように細々とした物が多い。それだけ思い出や、重ねた日々があるということなのだろう。
照れながらもぼくのことを恋人だと紹介するさんに、カヤノさんは嬉しそうな笑みを浮かべる。そうと言われても分からないほど、彼女はこの世界に馴染んでいた。
「じゃああなたがカトルくんなのね」
「はい。さんがお世話になったと聞きました。お礼を言わせてください」
「そんな、お世話だなんて。とっても楽しかったのよ。夢にも見ちゃうくらい。だから、ちゃんがまた来てくれて嬉しいわ」
カヤノさんはさんと同じ世界から何十年も前にやって来たらしい。この地で結婚し、夫を看取ったのは五年前。写真立ての中の人が、彼女の夫で間違いないのだろう。体つきの割に、柔和な顔をしたドラフ族の老人だった。
さんはぼくが四天刃に操られる少し前、一人でここに来ている。元の世界に戻ることなく暮らし続けるカヤノさんの話を聞いた彼女は、多くの人と関わり縁を結び、魂を根付かせることが必要らしいのだとぼくに教えてくれた。抽象的というか、随分スピリチュアルな話だと思わないでもないが、要するに信頼のおける友人を何人も作れば良い、ということなのだろう。もしそれが事実ならば、何もぼくでなくても良いはずだと艇を降りる言い訳にしたのはまだ記憶に新しい。今となっては、そんなのごめんだけど。
それが事実として、その縁とやらは多いに越したことはないだろうし、その点で言えばあの騎空艇で過ごすさんに問題があるとは思えない。だけど、本当にそれだけで良いのだろうか。何か他に鍵となるものがある可能性は? ヒントになるものは目の前の生きた彼女以外ないけれど、カヤノさんだけ見るならば、例えばどこかに定住する必要があるとか。いや、だけど、だったらもっと多く、彼女らのような人がこの世界に残っていてもおかしくない。
さんとカヤノさんは時折ぼくに話を振りながら、野いちごのジャムがいかに騎空艇内で人気だったかという話をしている。「じゃあ今日も一緒に作りましょうか」そんな風に言って立ち上がるカヤノさんの左手の薬指には、年季の入った指輪があった。
ああ、そうか、指輪。
思いついたとき、何だか妙に腑に落ちるような感覚があった。魂、結びつける、縁、そういった単語からも連想され得るそれは、さんをぼくの傍に留めるのに一番相応しいものであるように思えた。例えそれがぼくの思い込みだったとしても。