今際の際のその世界で、花を見た。
 一体どこから現れたのか。風の吹かないその空間で、手の平に収まるほどの大きさの花柄のない花が一つ、どこからともなく浚われてきたように空を舞っている。薄い色の花弁を持つそれはくるくると円を描きながら、やがてぼくの真横に音も立てずに落ちた。



「……花?」



 掠れた声が喉から漏れる。その空間にそれはまるで異質な存在であるように思えたのに、初めからそこにあったみたいに、平然と浮かんでいる。
 そのときぼくは、自分の腕が動かせることに気がついた。自分の目すらも拭えなかった指先が、今花に触れている。触れた途端それは、微かに光ってぼくを呼ぶ。



「カトルくん」



 さんの声が、ぼくを呼ぶのだ。 
 ゆるゆると溶けていく。この水に浮かんでいるだけのぼくは、いずれ全ての感覚を失って、この世界からも消えてしまうに違いないと思っていた。
 そう思っていたのに、おかしい。「カトルくん」と、ぼくは呼ばれている。何度も、何度もぼくを呼ぶ。語りかけるみたいに。目を閉じても、もう四天刃が見ている風景はぼくには見えない。気がつかないうちに、膝から下が動かせるようになっていた。ぼくを縛り付けていたものから、ぼくは解放され始めていたのかもしれなかった。
 空から降り注ぐ花がやまない。ぼくはそれをただ、動けるはずの手足を抱えて、呆然と見つめている。それは着水する度に、弾けるように音を作る。
 そのどれもが、これまでさんがぼくに向けてくれた声だったと気がついたとき、ぼくはどうしたら良いのかわからなくなってしまった。
 初めて出会ったとき。その二か月後に声をかけたとき。ころころと変わる表情に初めから惹かれていたくせに、ぼくの自尊心がそれを嫌悪に変換した。そっちの方が、ずっと楽だったから。自分の意思でグランサイファーを降りたあなたを迎えに行ったとき、あなたはこれと似たような色の花の前で立ち尽くしていた。
 あのとき振り向いたあなたの顔を、ぼくは今でも鮮明に覚えている。
 今度はあなたがぼくを迎えに来てくれるのか、さん。
 花はなおも降り注ぐ。嵐と呼ぶには優しすぎた。ぼくに与えられるのに、その優しさは決して相応しくなかった。
 







 グランくんが「外で丁度一緒になって」と何人かの子供たちと一緒にエッセルさんとカトルくんの家にやって来たのは、お昼過ぎのことだった。私はそのときシエテさんに一階から替えの包帯を取ってくるように頼まれていたところで、玄関の呼び鈴が鳴ったのに、この家の人ではないにもかかわらずにその扉を開けてしまったのだった。
 グランくんは数刻前まであれだけの激戦を繰り広げていたとは思えないほどこざっぱりした顔をしていた。「怪我、大丈夫だった?」とすぐさま尋ねれば、「平気だよ、心配してくれてありがとう」と返されて、ほっと息を吐く。



「カトルは?」

「二階でまだ寝てる。でもシエテさんの見立てでは今日とか、明日には起きるだろうって」



 それについては何となく半信半疑だけど、今は信じる他なかった。私の言葉に、グランくんはそっと微笑む。



「そっか、良かった」



 子供たちはもう階段を駆け上っていて、一階は静かなものだった。「四天刃もしまってきたよ。もう悪さはしないと良いんだけど」グランくんが声のトーンを下げるから、私もつられてコソコソ話でもするかのような声量になってしまう。



「倉庫の奥深くとかに?」

「いや、僕の部屋」

「えっ!」



 気をつけていたはずなのに呆気なく大きな声が出てしまった。慌てて口を塞ぐけれど、もう遅い。目を丸くする私に、グランくんは曖昧に笑いながら「目の届くところの方が良いかなって思って」と口にする。そっか、そういう考え方か、と感心して良いのか心配して良いのか分からなくて、私は一人神妙な顔で、彼を先導するように階段を上った。



「でも、何かあったらちゃんと言うんだよ」

「そうだね。躊躇無く僕を怒ってくれそうな人に前もって伝えておこうか」

「……例えば?」

「大勢いるよ」



 ぎ、ぎ、と足音がする度、私はあの日の夜を思い出してしまう。色とか、音とか匂いとか手触りとか、ありとあらゆるものが私の記憶に繋がっていて、そこには大抵カトルくんがいる。だから、きっとこれからもそうなのだと思う。
 カトルくんが起きたら、手をぎゅうと掴んで、色んなお話をする。色んなところに一緒に行く。まず、カヤノさんのところには絶対ついてきてもらうんだ。そしてカトルくんが食べ損ねた野いちごのジャムを、一から一緒に作るのだ。たくさんの糸を結ぶ。結婚、とかそういうのは、でもまだやっぱり言えないかな。いつかそういうことが言えるだけの勇気が持てたら言いたいけれど、それが「帰らないために」っていう理由がついてまわってしまうものだって気付かれたら、なんだか脅迫みたいになっちゃいそうだし。
 でも、私たちにはまだ時間があるはずだ。私は神様なんかいないって思っていたけど、カヤノさんが言っていた、「全てを失った私を可哀想に思ってくれた神様」の存在は、信じたいし、カトルくんにも信じてほしい。都合の良い神様ですね、って、カトルくんは笑うかもしれないけれど、そういう存在がいるのもきっと悪いものじゃない。



「あっ」



 階段を上りきったところで声をあげた。包帯を持ってくるのを忘れたことに気がついたのだ。グランくんに先に部屋に行って貰うように伝えて階段を駆け下りる。一階の、居間の棚にある救急箱。慌てすぎて落としてしまいそうになった。中から包帯を取り出そうとしたけれど、何だか色んな太さのものや、粘着のあるものないものと様々で、混乱する。さっきまであれだけカトルくんを見ていたはずなのに、どれが正しい物か分からないなんて情けない。とりあえず、それっぽいのを全部持って行ったほうが良いかもしれない。
 巻いてある包帯をいくつか抱えて階段を再び上る。そういえば、今日はもう夜中からずっと起きているからへろへろだ。足がもつれて転びそうになったけれど、まだ眠ってなんていられない。だって、その間にカトルくんが起きたら、やっぱり嫌だし。



「シエテさん、包帯ってどれ……」



 言いながらドアノブを捻るだけ捻って、あとは体当たりで開けてしまう。
 真昼の太陽はこの部屋に光を射し込んでいなかったのに、どうしてだろう。わたしはそこに、何か光のようなものを見たのだ。
 春の庭に咲いた藤の花。私が何よりも欲しかった人の、開いた瞳が、確かに私を捉えていた。



「え」



 たくさんの子供たちと、グランくん、エッセルさん、シエテさん、部屋の大きさのわりに随分な人口密度だ。空気がそこだけ、いやに澄んでいた。あなたがいるところは、いつもそうだ。カトルくんだけ。私の吸う息をきれいにしてくれる。
 手の中から包帯が転がって、放射状に転がる。口の端から嗚咽が漏れる。カトルくんではない誰かが私を呼ぶ。ほら、、って。耳がきんと甲高く鳴る。私の名前を呼んだのとは違う誰かに手を引かれて、カトルくんの前に連れて行かれる。その瞳の色を、私はいつぶりにこんなに真っ直ぐ見ることができたのか。せめて泣きたくなかった。笑って再会したかった。ぼろりと涙が零れたのを契機に、わあ、と声が漏れる。子供みたいに泣いてしまう。
 カトルくんの名前を呼ぶだけで何もできなくなってしまった私の手の甲を、カトルくんはそっと撫でてくれた。まるで朝方に私が彼にそうしたような、慎重な手つきだった。カトルくんの口が動く。乾いた、かさかさの唇が。



「……泣きすぎですよ、さん」



 掠れたその声は、泣いていた私の聞き間違えだったのかな。
 立っていられなくて蹲る。膝をついたときの床の冷たさも、ずっと我慢していたらしい子供たちが私につられて、一緒になって泣いてくれたのも、シーツの皺の一本一本も、私が零した涙の痕までも、何もかも、何もかもが輝いて、美しかった。
 私がいつもカトルくんの傍で感じていた、懐かしい美しさだった。