グランは街の外から滲んでくる殺気のぶつかり合いを感じ取って、目を覚ましていたらしい。眠っているビィとルリアをウーノに任せ、丁度家を飛び出してきたところを私と出くわしたのだった。
グランは私の怪我に目を止めるや否や、すぐに治療をした方が良いと言ってくれたけれど、そんな時間はないと首を振る。早く行かなければシエテが危ないのだ。私の怪我の治療に使える時間なんて、微塵もない。
シエテは私の前では余裕を見せていたけれど、グランを呼ぶよう頼むくらいだ。四天刃に操られたカトルと彼とでは、最初から分が悪いと見ていたのだろう。
カトルは四天刃に意識を乗っ取られている。その全てが蝕まれて取り返しがつかなくなるのも、きっと時間の問題だ。四天刃を彼の手から離さなくてはいけない。だけど、それもどうすれば良いのか。シエテの技だったら動きを封じることができるかもしれないけれど、そうするにはまずカトルを弱らせないといけない。
もうグランに頼るしか道はなかった。
私じゃシエテも、カトルも助けられないんだ。そう私が口にしたときのグランの双眸は、色んな感情を煮詰めたような色をしていて、どうしてか私の方が息ができなくなりそうだった。「わかった、でも止血だけはして」と口にすると、グランはすぐに走り出す。
聞き覚えのある少女の「あ」という短い声が耳に届いたのは、ほとんどその瞬間だった。私が目線を送るよりも先に、グランがその子の名前を呼ぶ。「」と。
言葉が出なかった。私のベッドで眠っているはずのが、ほとんど無防備な姿でそこに立っていたのだから。走って来たのか、上気した頬。髪は乱れて、息が切れていた。私たちを前にほっとしたようにその表情を緩ませるに、グランが踵を返して駆け寄る。
「どうしたの、こんなところで」
「グ、グランくん、エッセルさん……っ、カトルくん、は……?」
言いながらも、その瞳は西の空へと向けられている。察しているのだ、何かが起きているということを。
時間はない、それが今の私のほとんどを占めていたから、私は彼女を連れて行く以外の選択肢を持っていなかった。彼女の方も、何か虫の知らせのようなものを感じたのは間違いない。だから、こんな夜更けにもかかわらず家を飛び出してきた。
勿論戻ってほしかったし、彼女は安全なところにいるべきだった。本当のことを言うなら、朝まで眠っていてほしかったのだ。だけど彼女は案外頑固なところがあって、柔軟なように見えて、譲れないものに関しては頑として譲らない、そういう芯のようなものがある。だからこそ、この子はカトルの手を振り払えたのだと、私は思っている。
私は神様を信用していないけれど、もしもこんな慈悲のない世界にそういう存在がいるっていうんだったら、がここにいることは間違いなく神に与えられた「さだめ」のようなものだったのだろう。
連れていくべきかどうか逡巡しているように見えたグランが口を開くよりも先に、「今からカトルのところに行く」と言った。は私を、目を丸くして見つめている。
「も一緒に来て」
差し出した手の平は、傷ついた甲からの血で濡れていた。
「エッセルさん」
何かを思い起こしているかのように、彼女はじっと私の手を見つめている。のその目は私ではなく、遠いどこかを見つめている。恐らくカトルのことを、思い出している。
「……行きます、連れていってください」
やがては街の静寂を破るように、私の手を取ってくれた。痛みが駆け抜けたけれど、顔に出さずに耐えた。
ぎゅうと噛みしめられた唇は、気を抜けば震えてしまうのだろう。が今のあの子を見てどう感じるか、私には分からない。動揺するかもしれないし、後悔するかもしれない。だけど、今あの子の傍に必要なのは、きっとだ。
握り返した手は、ひんやりとしていた。私たちとは違う、命を奪ったことのない、幼子のまま大人になったような手だった。
私の胸騒ぎは当たっていて、エッセルさんによると、今カトルくんは街の外の草原でシエテさんと戦っているらしい。
グランくんは場所を聞くや否や、私たちを置いて走り去った。時は一刻を争うらしい。むしろ私の足の遅さにエッセルさんを付き合わせることが申し訳なくて、それを謝罪と共に口にすれば、エッセルさんはふるふると首を振る。それから、ちょっと迷ったように「は」と切り出した。夜空の下に溶けてしまうくらいの、か細い声で。
「は、カトルがどんな風になっていても、平気?」
エッセルさんの言葉に、カルムの郷でのカトルくんのことを思い出す。
シスさんの血を頭からかぶっていたカトルくんは、真っ直ぐ私を見ていた。私はあのとき、彼に対して恐怖心の一切が無かったとは嘘でも言えない。だから、その質問に答えるのは難しかった。すぐに頷ければ、一番格好がついたと思うけれど。
言葉を探しながら目線を彷徨わせる。覚悟をしろということなのかな、と考えながら。
「私にとってのカトルくんは、かけがえのない人なので」
最初は髪の色に惹かれたなんて、おかしな話なのかもしれない。だけど、知れば知るほど好きになった。鞄を取り返してもらえたこと、一緒に懐かしい味のするお茶を飲んだこと。ハンカチを貸してもらえて嬉しかった。だから、本当は私のことなんかどうだって良かったんだって知ったとき、深い深い谷の底に突き落とされたような気分だった。
断罪するときの一切の躊躇のなさが好きだった。私が望み、手に入れられなかったもの。あなたになりたかった。あなたになりたかった。
四天刃に乗っ取られたとしても、その心の柔らかな部分も、全てひっくるめてカトルくんなのだから、私は全てを受け入れる。
「私は戦えないけれど、カトルくんの名前をたくさん呼んで、戻ってきてって、言います」
だって、まだまだカトルくんとしたいこととか、食べたいものとか、一緒に見たいものが、たくさん、たくさんあるんです。それにあの人がいなければ、きっと私の糸は繋がらない。
何も知らないだろうエッセルさんにそこまで言うのは憚られたのもあったし、何だか気恥ずかしかったから、その言葉は心の中だけに留めておいた。
「エッセルさんだって、諦めないでしょう?」
そう尋ねたときの、エッセルさんの一瞬戸惑ったような瞳も、唇も、いつまでも私の中に残り続けている。燦然と。
「…………ん、諦めない」
泣き出す一歩手前のような顔で、エッセルさんは笑った。とても美しい人だった。
「カトルは、私の自慢の弟」
戦いの音は、すぐそこまで迫っていた。私の手の平には、さっきエッセルさんの手を握りしめたときについた彼女の血が、乾かずに残っている。