エッセルさんが居ない。
 暗闇の中こわごわ廊下に出てエッセルさんの姿を探すけれど、他の部屋のどこにも灯りがついていないのは明らかだった。一階だろうか。階段の軋む音を聞きながら、不吉にも聞こえるその音から耳を塞ぐように、エッセルさんの名前を呼ぶ。



「エッセルさん……?」



 まるで、家中の木材や細かな繊維が私の声だけを吸い取ってしまったみたい。聞きたくない音はぎぃぎぃといつまでも残るのに、私の細い声はあっという間になくなったし、エッセルさんの返事もないのだから。
 もつれそうになる足で慎重に階段を下りきってしまう頃、夜の闇にようやく目が慣れた。見様見真似で灯りを灯したけれど、だだっ広い部屋は寒々しさすら感じられるくらいに静かで、誰の気配もない。
 広い家に一人って、怖い。それも夜なんて。良い年をして何をと思われるかもしれないけれど、自分の家ならばいざ知らず、人の家で一人ぼっちとなるとどうにも心細いものだ。
 誰か、街の子供が熱でも出してしまったのだろうか。それだったらあり得るかも。子供に呼ばれて、家を飛び出して。今頃看病をしているとか。だけど、でももし本当にそうだったら、書き置きの一つでもしてから行くはずだ。少なくともエッセルさんならそうすると思う、どんなに急いでいたとしても。
 そうっと目をテーブルの上に滑らせてみたけれど、しかし手紙と思しきものは見当たらなかった。何だか、胸がざわざわした。私の中の第六感が働いて、もしかして、と思うのに、その事実をそうと認めることに関しては、どうしようもなく勇気が必要だったし、私はそれに必要な気概を持ち得ていないように思えた。
 シスさんがカトルくんに襲われてから、今日で何日が経ったっけ。
 玄関の扉をそっと開けて外に一歩出る。頬を撫でる冷たい風に、あの日の夜を思い出す。
 とても静かな夜だった。子供の泣き声も、マフィアとの攻防の音も、どこにもない。エッセルさんの姿がないか目を凝らしながら振り向いたその時、私の瞳にその赤は映った。見開いた眼球を刺す寒さに、正常に戻った涙腺が刺激されて、涙が滲む。
 真夜中だと言うのに、西の空が灼けていた。一瞬だった。音はなく、ただ何かがぶつかったような、閃光の色。消えようとする魂に対する祈りのようだった。



「カトルくん」



 呟いた直後、意識するよりも早く駆けだしていた。








 姉さん、なんで分かってくれないんだ。
 口にするぼくの声はところどころ震えて聞き取りづらく、酷くみっともない。
 姉さんは、そんなぼくを止めると言うけれど、土台無理な話だ。姉さんはぼくに銃を向けることを躊躇っている。狙いは定まらず、一つ一つの判断がいつもよりコンマ数秒遅い。四天刃を得たぼくの身体は常人を超えていて、姉さんの弾丸なんか掠りようがなかった。悲しいくらい、姉さんは弱かった。こんなに弱くて、一体どうやって大切なものを守れるのだろう。
 最早並ではない動体視力をもって姉さんの懐に潜り込み、その武器を四天刃で弾く。肉を切る確かな手応えがあった。飛び散る血液は草を濡らして、ぼくは姉さんの悲鳴を聞きながら、雨のように降り注ぐそれを見つめている。赤黒いそれは、いつもぼくたちの周囲を霧のように漂っていた。死臭の中に、ぼくたちは居た。ずっと。
 マフィアの抗争に巻き込まれて殺された、罪のない子の亡骸を抱えて歩いた。腹の傷を隠せばまだ生きているようにも見えた。死後硬直前の柔らかな指を持って頬に触れさせた。眉間を寄せてばかりいたぼくの顔の皺を伸ばそうと、いつも顔に触れてくる子だったから。息を吐けば呪い殺してしまいそうで、噛み切ってしまうほどに力強く唇を噛んで、耐えた。墓石の数を覚えている。ぼくはそうやってこの手から取りこぼすみたいに、何人もの弟妹を失って、失って、失って、そうして今ここに立っていた。
 ぼくはちゃんと覚えていなくてはならない。天に行った子供たちがぼくに残してくれたありとあらゆるものを。声も、感触も、髪の柔らかさも、匂いも、この皮膚に刻み付けて生きる。もう地獄を味わってなるものか。全ての子供たちが大人になるよう祈ることの一体何が悪いっていうんだ、なあ、姉さん、だからぼくは最強にならなくちゃいけなかった。
 ぼくを邪魔する全てのやつらを、全部全部、倒さなきゃいけなかったのだ。
 止めるなら、姉さんだって許さない。
 そのとき振り下ろした四天刃の先にいたものを、ぼくは分からないとは、言わない。








 振り下ろされる四天刃の切っ先を眺めていた。武器は弾かれて、手の甲は口でも開けるような傷を負っていた。私の視界は明滅し、もうどうやったってその場から動けない。だから、罰が当たったのだ、と思う。これは私の罰だった。断罪のための刃だった。
 カトルの背負った生々しい傷を知りながら、私はそれを忘れさせようとした。カトルの言う通り私は臆病で、もうこれ以上今自分の手の届く範囲にいる全ての子たちを失いたくなかったのだ。過去を背負いきれず、未来は見るに遠すぎた。私の選ぼうとしている道が、そもそもの根本的な解決になり得ないことも知っていたのに。
 四天刃に操られたカトルの瞳を見た。私を慕い、追いかけてきた頃の小さなカトルを思い返していた。美しい男の子だった。誰よりも、誰よりも。喉がひくりと動く。眼球が熱いのに、私はのように、上手く泣けない。だから、代わりにごめん、と思う。ごめん、ごめんカトル。あなたにばかり苦しく、難しい選択をさせてしまった。だから、私はこの罰を受け入れよう。
 カトルのその手に握られた四天刃が、私の頭上目掛けて振り下ろされた。ほとんど反射で顔を背けた、丁度そのときだった。



「はいはい、そこまでだよー」



 四天刃が、何かの照り返しを受けて鈍く輝いたのだった。戦いに慣れた私はそれをすぐに武器によるものだと気がつくのに、それが一体誰の物なのか、判断に遅れてしまう。その人は私とカトルの間にその身体を滑り込ませると、自らの武器で四天刃の攻撃を受け流した。瞬間、夜空を覆うような赤い光が強く瞬く。こんな私たちを見つけてくれた人。私はこの人の剣を知っている。
 シエテ。
 呼びかけるや否や、シエテは私の身体を抱きかかえると、カトルから距離を取るように後方へ飛んだ。夜の空気に、切られた傷がしみるように痛かった。「遅くなってごめん、エッセル」低く囁きながら、シエテは私を自分の背の方へ押しやる。「シエテ、カトルは……」そう言いかけた私に、シエテのマメだらけの手の平が向けられた。まるで全て分かっているとでも言わんばかりに、けれどその指先は優しかった。
 シエテの身体越しにカトルを見る。辛うじて意味の通じる言葉だけを吐き出し続けるカトルは、もう人の形を成しただけの、狂気そのものであるように思えた。