夢というにはあまりにも鮮明だった。私は眠る度いつもあの場所に連れ戻されるような感覚になる。何者かの意思によって腕を引かれ、引きずられる。目の前には血に塗れたカトルくんが居て、私は彼を前に一切の身動ぎができず、呆然と立ち尽くしている。カトルくんが私に歩み寄って手を差し出すまでの光景はまるでスローモーションのようにコマ送りされていて、それが永遠のように長いのに、私はこれが夢だと分からない。そのときの温度も、感触も、粟立つような感覚も全てが実感を伴って私を襲う。差し出されたカトルくんの手を、私は夢の中でも払っている。彼はそして、泣き出しそうな、或いは何もかも分かっていると言わんばかりの諦念の込められたような、そんな目を私に向けている。
 目を覚ますとぐっしょり汗をかいていて、夢であったことに安堵するのと同じくらいかそれ以上の強さで絶望する。ああ、もうカトルくんはいないんだと。
 私はカトルくんを支えたいと思っていたのに。



「……許されようとは思っていないんです」



 吐き出した言葉に、エッセルさんは何も言わない。
 カトルくんの手を振り払ってしまったこと。私はあれが正しいと思った。だけど不安に駆られてしまう。あの時私が彼の手を取っていたら、彼は十天衆を倒すのをやめてくれたんだろうか。四天刃に意識を乗っ取られているとして、それから解放されたのだろうか。でも、考えれば考えるほど「そんなわけがない」と思う。だけど例えそうだったとしても一緒に行くべきだったんじゃないか。少なくともあのときあんな風に彼を傷つけずに済んだんじゃないか。思考は堂々巡りで、いつまでも解決しない。迷路の奥底に迷い込んでしまったまま、足を泥濘みに取られて沈んでいく。
 グランくんの武器に四天刃を弾かれた際彼が負った傷は生々しく、一見して深いことが分かった。なのに痛覚を既に断ったような顔で彼はその手を私に差し出すから、私の方が息が止まってしまいそうだった。「おいっ仮面マントの兄ちゃん、しっかりしろよぉ!」シスさんを助けに向かったビィくんの声の、その抑揚までもが耳に残っている。シスさんはもうぐったりとしていて、彼をそんな目に遭わせたのは間違いなくカトルくんであるはずなのに、死の淵にいる彼のことをちっとも意に介そうとしなかったカトルくんが、私は恐ろしくてたまらなかった。
 思い出すだけで手が震える。



「あのとき私は、誰を前にしているのか分からなかった。カトルくんが、カトルくんじゃないみたいで、怖かったんです。あの選択が間違っているとは、思ってない、けれど、本当はそう思いたくない、の間違いなのかもしれない。何が正しかったのかを、直視するのが怖い。取り返しの付かない間違いを犯してしまったとしたら、私は今度こそ耐えられない、そう思ったら、もうずっと、苦しくて」



 腿と腿の間に自分の両手を押し込んだ。そうでもしなければ、エッセルさんにこの震えを悟られてしまうと思った。
 苦しくて、苦しくて、息ができない。これまで誰にも、グランくんにすら打ち明けられなかった本心が、口にしてしまえばそれが本当になりそうで恐ろしくて、漏らすことのできなかった本音が、この人の前だと、溢れてしまう。表面張力だけでどうにか保っていたコップの中に、新しい水を注ぎ込まれたように、だけどそれは強制されたものではなく、明確な、私の意思によるものだ。「エッセルさん」縋り付くように吐き出す。



「カトルくんが、死んじゃったら、仲間の誰かを殺したりしたら、どうしよう」



 それは酷く惨めな、掠れた涙声だった。
 エッセルさんは、私のとりとめのない言葉を最後まで黙って聞いていた。相槌の一つも打たずに。だけど、私が全てを吐き出しきったその後、たっぷりの時間をとって、それから、沈黙に穴を刺すみたいな声で、「……ん」と息を吐くように呟いたのだった。一つ一つ、自分が確認して飲み込むみたいに、ゆっくりと。



「…………私はカトルの姉だけど、全くの一心同体ってわけじゃない。物の考え方も捉え方も、感じ方も、違う」



 顔を上げれば、エッセルさんは私を見つめている。私の懺悔はきっとその体すら成していなかったのに、まるで全てを理解しているみたいに、その目は優しい。



「だから、の気持ちを、本当の意味では楽にしてあげることはできないと思う、でも」



 エッセルさんは一度言葉を切った後、ふ、と短く息を吐いた。
 壁を取り払った広すぎる居間。棚に並べられた細々とした飾りは街の子供たちが作ったものだ。今日は生憎の曇り空だけど、壁がない分一つの空間に窓がたくさんあるこの家は、柔らかな日向の匂いがする。それが何だか、まるで外の世界から切り取られたみたいだった。一歩この家を出ると、空気は乾いていて、薄らと血や硝煙の匂いがする。子供たちしかいないこの街に、その匂いはあまりにも不釣り合いだった。
 この街で、エッセルさんとカトルくんは暮らしていた。私よりもよっぽど長い日々を、彼らは過ごしていた。



「でも私はが、カトルが間違えたとき、その手を振り払って諭してくれる人だったっていうことに、感謝してるよ。心から」



 カトルくんを形作る何もかもが好きだった。
 その涼しげな目元も、コンタにそっくりな大きな耳も、庭に咲いた花と同じ色をしていた髪も。あったかい手も、皆と居るときと二人で居るときで、態度が違うところなんかも。
 カトルくんの長い睫毛。面倒臭そうに吐かれるため息。そんな必要ないのに、嫉妬しいなところ。人前ではそんなことしないのに、二人きりだとくっつくのを好む人だった。一緒にいて、どきどきするばっかりだった。怒られることも多かったけど、喧嘩らしい喧嘩は、したことなかったな。そういうのも、本当はちょっとしてみたかったのなんて言ったら、きっとカトルくんは呆れたんだろうけど。
 ずっと一緒にいたかった。
 悲しいときは打ち明けてほしかったし、本当は、カヤノさんにも一緒に会いに行きたかった。村までの馬車はあっという間だったけど、カトルくんと一緒だったらきっともっと楽しかったよ。カヤノさんのお話、私からじゃなくて、カヤノさん本人の口から聞いてほしかった。私って、説明が上手くないし。大事な話だったから。あの話を聞けて、私は目の前がぱっと開いて、そこにいっぱいの光が射したように思えた。その光を一緒に見たかった。これからもずっと隣にいてくれると思っていたから。
 どうして全部過去の話みたいにしちゃうんだろう。
 だけどそういうのを私は全部直接、カトルくんに伝えなくちゃいけなかったのだ。



「絶対に死なせない。……あの子の目を覚まさせるから。そんなに自分を責めないで」



 あの日から一人でいても、グランくんと一緒にいても、泣けなかった。そういう気持ちになりはしても、乾いた眼球は頑として涙を作ろうとしなかった。だけど今私は、誰よりもカトルくんに近しい人の前で、声を殺して泣いている。
 私はカトルくんが差し出してくれたその手を、取らなかった。それは間違いではなかった。絶対に。そう言って私の背を包み込んでくれる存在の、何と優しく、温かなことか。
 一度向かいのソファから立ち上がったエッセルさんが、私の隣に腰を下ろす。目が合ったとき、抱きしめても良いかと尋ねられた気がした。涙で滲んだその視界では、それが本当にそういう意図を持っていたのかは分からないけれど。だけど小さく頷いた私を、エッセルさんはその両腕で包んでくれた。私よりもずっと高い体温は、カトルくんのそれと良く似ていた。