シスさんは今、昏々と眠っている。
 カトルくんの猛攻が凄まじかったことはその傷の数からも容易に推測できた。普通の人の肉体だったらまず耐えられなかっただろうと言ったのは、グランくんだ。すぐに治療ができたことに加え、類い稀な身体能力と鍛え抜かれた肢体を持った彼だったからこそ、どうにか一命を取り留めたのだと。
 あれから二日が経っていて、どことなく騒がしかった騎空艇内も、徐々に落ち着きを取り戻し始めている。これだけ大きな騎空団とは言え一人の仲間のために行き先を変更したりすることはままあることだけど、いつもよりもその空気が張り詰めてよそよそしく思えるのは、私が当事者の一人であるせいなのだろうか。
 ローアインさんは仕事終わりにホットココアを淹れてくれた。アンスリアさんは私の洗濯物を持っていってくれたし、ナルメアさんはぎゅうと抱きしめてくれた。同じ部屋のコルワさんは「話したくなったらいくらでも聞くから言ってね」と告げた後は普段通りに接してくれたけれど、でも、いつもよりも部屋を空ける時間が長かったかな。私が一人になれる時間を作ってくれているんだと思ったら、鼻の奥が痛くなった。泣いて良いと言われたみたいに思えたのに、私はどうしてか、カトルくんとカルムの郷で別れてから、ちっとも泣けない。
 振り払ってしまった。
 後悔の塵は私の中で少しずつ積もって、今ではもう胸のあたりまで堆積している。
 手の平を差し出されたあのとき、彼の手を取るべきだったのだろうか。だけど、あの時のカトルくんは、得体の知れない化物のように見えた。置いて行かれたことをあんなに悲しんでいたくせに、恐怖を覚えてしまったのだ。
 あれから上手く眠れない。なかなか中身の減らないココアの入ったマグカップを窓際に置いて、ベッドの上で膝を抱える。空を見上げたけれど、雲の覆った夜空は暗くて、真っ暗な闇の中に放り込まれたみたいで、怖くなった。
 グランサイファーは夜空を切るようにぐんぐん飛んでいるのに、私だけが一人、どこにも行けずに置いて行かれているみたいだ。









 はずっとぼんやりとしている。
 ショックだっただろう。カトルのあんな姿を見てしまったのだから。それでも普段通りの自分の仕事をこなしたり、まだ眠り続けているシスのお見舞いに向かうに、僕はあれからきちんと声をかけられていなかった。目を覚まさないシスのこと、これからのことに追われて、なかなかきちんとした時間を作れなかったのだ。
 ようやく彼女に声をかけられたのは、カルムの郷から戻ってきて三日目のことだった。そのときには既に騎空艇は次の目的地を定めていて、夕方には港に着くだろうとラカムは言っていた。丁度シスのところから戻って来たらしいと、操舵室から出た僕とで目が合って、咄嗟に彼女の名前を呼ぶ。







 は僕の顔をじっと見てから、困ったように口角を上げた。「グランくん」こんな風に笑ってほしいわけじゃないのにな。嫌になる。僕に力がないせいで、に悲しい思いをさせているという事実に、ほんの少しだけ打ちのめされてしまうのだ。
 に話がしたいのだと伝えれば、彼女はそのままの表情で緩く頷いた。僕たちはそうして、グランサイファーの通路を二人並んで歩いている。僕の部屋はここから少し遠くて、でもだからと言って、隣にいながら何も話をしないというのもおかしな話だったから、なるべく当たり障りない話をするよう心がけたかったのに、何を口にしてもそれは核心に触れる何かであるように思えて、困ってしまった。
 彼女の表情が暗いのも当たり前だ。最近あまり食事を摂れていないのだって、目の下にクマができているのだって、そんなのは見ていれば分かる。



「ごめん」



 口の端から漏れていたその言葉に、はぱっと目を見開いて僕を見つめた。
 きっと、僕は君を連れていくべきではなかった。少しでもカトルとシスの戦闘の場に居合わせる可能性があったなら、危険だからと言い聞かせて置いて行くべきだったのだ。カトルがあんな風に、あれほどまで変貌していたと知っていたら、間違いなくそうしたのに。
 も知っていることだろうけれど、元々カトルには二面性がある。戦闘直後は気性や言葉尻が荒くなることも多々あって、だけど、あんなカトルは僕も初めて見た。あれに比べたら、いつものカトルなんて可愛いものだ。
 シスの血を頭から被って、肉が割れて流血する手をに差し出したカトルは、僕のことなんかほとんど目に入っていないように見えた。を真っ直ぐ見つめて「一緒に来てください」と言った彼は、いっそ狂気じみてすらいたから。
 は、僕の謝罪に小さく首を振った。








「私はカトルくんの支えになりたいってずっと思ってたし、それは今もそうなんだけど、間違っているって分かっているのにそれを止めないっていうのは、違うと思う」



 グランくんに向かってそう口にしながら、その実私は本当に自身がそう考えているかについては懐疑的だった。まるで自分に言い聞かせるような口調じゃないか、と思う。そう思わなければ、後悔の念に苛まれて自分が立っていられなくなるからって。
 いつもは歩いていれば必ず誰かしらとすれ違う通路は、先を見ても誰の姿もなかった。グランサイファーは今飛行中で、私は私たちを乗せたこの艇が今どこに向かっているのかを知らない。いつもはそれが当たり前で、私はその日その日を、カトルくんや、たくさんの信頼できる団員さんたちと一緒に過ごしていた。その中からカトルくんという存在だけが大きくくりぬかれてしまったとき、自分の足場が酷く不安定であることを知った。
 だけど、私と同じくらいグランくんも傷ついているのだ。だから、怖くても、後悔していても、しんどくても、今彼に頼ってはいけないと思った。彼は責任を感じている。それが手に取るように分かるから、私はぐらぐらの足のまま、平気で立っているふりをする。



「だから、あれで良かったし、グランくんが謝る必要はどこにもないよ」



 そう口にしながら、思ってしまうのだ。こんな風に空っぽになるんだったら、私はあのとき、間違っていてもカトルくんの手を取るべきだったんじゃないかな。って。
 カトルくんが私に差し出した手の平は拇指球のあたりの肉がぱっくりと開いて、後から後から血が溢れていた。もしもあの手を取っていたら、もしも彼を受け入れていたら。そういう、もう叶わないもしも話で埋め尽くされても、だけどやっぱり、あのときのカトルくんの姿は私の網膜に鮮明に焼き付いて、私の足を地面に縫い止めてしまうのだ。
 眠ろうとすると、夢を見る。
 カトルくんは血まみれだった。その藤色の髪から滴った赤い血が、彼が呼吸をする度に皮膚を伝い、ぽたぽたと音を立てて地面に落ちていた。
 十天衆を象徴する白いマントは汚泥と返り血で汚れていて、それが翻る度に噎せ返るような血の臭いが辺りを充満する。夢の中でも、彼は私に手を差し出した。母親に縋る子供のようにも見えた。
 だけど現実では、このときの私は、カトルくんがどんな顔をしているのかも分からなかった。彼が傍にいるだけでいつもそこにあったきらきらの、光のような何か、弾けるというには淡い輪郭の閃光が、そのときの私には見えなかった。その事実が私を酷く追い詰めていた。
 私たちの足元に転がり割れた無数の墓石、踏みにじられたシロツメクサ、泥濘んだ地面の上、指の一本も動かせないシスさんと、そんな彼に見向きもしないカトルくんの、赤黒く変色した髪の色。彼の手の平から流れる血。
 目を閉じるとあのときの光景が一つ一つ、ありありと浮かんでしまって、苦しい。止めるつもりで行ったのに、結局何もできなかった。傷つけただけだったのかもしれない。その結果、カトルくんはきっと今も一人で、十天衆の誰かを傷つけている。ああ、後悔ばかりだ。そんな私の心の内の動揺を撫でるように、「」と私の名前を呼ぶグランくんの声は、優しい。



「もうすぐ目的地に着くんだ」



 私はあの泥の中で立ち止まって、蹲ったまま動けないのに、グランくんは先に進もうとしている。



「シエテに会おう」



 騎空艇の振動が足の裏から微かに伝わっていた。だから、私の足が震えていたように思ったのは、きっとそのせいだ。