世界の色はこんなにも鮮やかだっただろうか。さんの姿を目にした瞬間、ぼくの視界に映る全てが彩られた気がした。
 うねるような色彩を持って、微細な粒子も含めた何もかもがぼくに、ぼくの持つ正当性を訴えかけてくる。ぼくは何も間違えていないのだと、ぼくの選択を賛美する。
 武器を手に持ち戦うこと。力にはより強い力で抵抗するしかないこと。さんだってそれを分かっている。全てを失った彼女は、復讐すらも許されなかった。自分の手で何も選べなかった。だからぼくになりたかったとかつての彼女は泣いたのだ。
 雫のようなものが視界にちらつくから、雨でも降っているのかと思えば、髪の先から歩く度滴る血だった。ぼくは汚れてしまった。今更だ。幼い頃からどれだけの人間の命を奪ってきたか、もうぼくは数えてなんかいないし、興味もない。綺麗事だけじゃ生きていけなかった。生きるためにそうしただけだ。恥じることではない。だけどこんな手でも、彼女はきっと握ってくれる。ぼくを肯定してくれる。だっていつもそうだっただろ。
 そう思っていたのだ。何の疑いもなく。
 息を吸ったら、ひゅ、と音がした。手を伸ばせば届く距離にさんはいる。何かがぼくたちの間を遮るように立ち塞がったけれど、関係ない。視界がゆっくりと明滅している。爪先に当たった石が、一体何だったかも思い出せなくて、色んなものが削ぎ落とされ、輪郭を失って曖昧になっていく。ぼくの背後、ぼくの手から弾き飛ばされた四天刃がぼくの背を値踏みするように眺めていることだけは、何故か手に取るように分かった。
 ぼくは強くなった。だけどもっと大きな力を手に入れる。更に強くなるのだ。強くなって、あなたの隣で胸を張って、笑う。全てが終わったら、そう思っていたけれど、ぼくは彼女を連れて行きたい。「さん」こんなぼくに愛を教えてくれた人。



「この力を持った今なら、ぼくはあなたを守れる」



 膜を隔てたその先で、ぼくはぼくの声を聞いている。



「ぼくと一緒に来て下さい」



 彼女に差し出した手の平は、そういえば、肉が剥き出しになっていたのだっけ。
 さんが息を飲んだ。胸の前でぎゅうと握られていたそれは、分かりやすく震えていた。見開かれた目は、一体どこを見ていたのだろう。目が合っている気がしないのだ、おかしいな。
 さんは、ぼくの視界の真ん中で、震えていた。あれ、と思うか思わないかのとき、不意に、ぺち、と肉の触れる音がしたのを、ぼくは聞いた。振り払うというには、あまりにも弱々しい力だった。



「ごめんなさい」



 しかしぼくの手を、彼女は初めて拒絶したのだった。



「………………は?」



 さんの唇は戦慄いていた。あの夜のように僅かに乾燥していて、ぼくはだけど、そう考えながら、あの夜ってなんだと、思うのだ。記憶が剥がれ落ちていくような感覚に、息が止まる。四天刃の影響であることは疑いようがない。
 さんは、ぼくのことを真っ直ぐ見つめていた。



「シスさんを、あんな風に傷つけて、そ、それが当たり前だって思ってるカトルくんとは、一緒には行けない」



 言葉を一つ一つ慎重に選びながら口にしていく。ぼくの背後、シスさんのいる方に目線を投げたさんの双眸が、苦しげに歪む。



「ごめんなさい。ごめんなさい。だけど、カトルくん、変だよ。そのやり方は、間違ってるよ、絶対」

「ぼくが、間違ってる?」

「こんなやり方じゃなくても良いじゃない、こんな、仲間を傷つけるようなやり方なんて」



 四天刃が手から離れていて良かった。もしもそうじゃなかったら、ぼくはどうしていたか分からない。
 さん相手だというのにそう考えてしまうのだから、ぼくはきっともう、本当にどうかしてしまったのだ。
 全身の血の気が引いていくような感覚に襲われる。ああ、拒絶されたのだ、彼女は今のぼくを否定しているのだ。それを目の当たりにして、ぼくは今酷く冷静になっている。



「カ、カトルくんは、もう、充分強いよ、私はずっとそう思ってるよ」

「本当にそうだったらこんなことにはなってないんですよ」



 被せるように吐き出されたぼくの言葉に、さんが目を見開いた。
 その一瞬だけ、ぼくはぼくに戻る。視界がクリアになって、彼女を守るように立っていたその影がグランさんだったことを思い出す。彼から隠しきれない殺気が漏れていたことに、どうしてかほっとした。足元の割れた石は、さっきまで墓石代わりにされていたものだ。ぼくらの周囲に散らばった花だって。これは、かつて彼女に似ていると思った、あの花だ。さっきさんが目線をやった、シスさんの倒れている方向からビィさんの気配がして、ぼくは、どうしてか笑いたくなる。
 ぼくは、ぼくの意思でもって呼吸をした。カルムの郷の湿った空気、木々の重なる陰鬱な島はあの男の出生地に相応しい。こうして正気に戻った今ですら、ぼくはだけど少しも後悔していないのだ。最強という称号のために仲間に武器を向けたこと。ここに来るまで、四天刃に操られていた部分もあったかもしれない、だけど、元々ぼくはこういう考えで生きていた。あなたにとっては「変」で、「間違っている」かもしれないけれど。
 ぼくを腑抜けにしたのはあなただ。かつてさんに向けて吐き出した言葉が不意に、実感を伴って脳裏を過ぎる。でも、そうだな、だったらぼくはきっと初めから。



「腑抜けになんかなるべきじゃなかった」



 さんはもう、瞬きの一つもしない。
 黒い睫毛で縁取られた大きな瞳が潤んでいた。目を一瞬でも閉じたらそれは呆気なく目の縁から溢れてしまう類のものだった。
 踵を返して、地面に転がった四天刃を拾う。翻ったマントは、血や汚泥を吸ってずっしりと重い。
 振り向いて、もう一度でもさんの姿を確認してしまったら、自分がどんな行動を取るか分からなかった。だから、ぼくは決して彼らを振り返らず、地面を蹴る。「カトルくん!」さんのぼくを呼ぶ声が聞こえたけれど、お別れだ。
 懐の四天刃が、下卑た声で笑っているのを、ぼくは森を駆け抜けながら、耳を塞ぐこともできずに聞いている。