自分とそれ以外との間に、何かはっきりとした膜があるのを感じる。
 その膜はぼくという存在から離れて独立しているように思うのに、そこに何かが触れる度、ぼくは何かがあることを知覚する。僅かな殺気や呼吸音、人の気配に至るまで。その膜はぼくの外側の部分にせり出すように徐々に広がって、ぼくの感覚を冴え渡らせていく。



「シスさん……やはりこちらでしたか」



 シスさんは彼の故郷であるカルムの郷に居た。もう生きている人間は誰も居ない、無人の郷だ。広がった木々は太陽の光をほとんど通すことがない。一族の生き残りである彼が醸す空気にそっくりな、陰気な島。一族全体で暗殺者の育成を行っていた名残だろう。そこここに仕掛けられた罠は厄介なことこの上なかったが、それも今のぼくには障害になり得なかった。



「……カトルか」



 シスさんのその首が顔を隠す仮面ごと、ぼくの方へと向けられる。
 ぼくがどうしてここにいるか、きっと彼には分からないだろう。ソーンさんのような眼もなければ、情報源もない。もしもグランサイファーに居たままであればまた違っただろうが、運の悪い人だ。



「もうグランサイファーに戻っていたら、どうしようかと思いましたよ。ふふ、二度手間になってしまいますからね」



 考えるよりも先に口が言葉を紡いでいく。ぼくからぼくが剥離していくような感覚は未だ残っているのに、確かにそれは今のぼくが考えていることそのものなのだ。四天刃に飲み込まれようとしているのか、ぼくと四天刃との境界が曖昧になってそこからぐちゃぐちゃに溶けて混ざり合おうとしているのか、分からない。
 陰鬱な森の中、大小もまとまりの付かない無数の石が並ぶこの場所だけが開けていて、ぽっかりと穴が開いたように陽の光を受けていた。小さな花のついた野草が手向けられているが、これは墓石なのだろうか。今し方歩いてきた小道から、霧がゆっくりと這い上ってくる。ひんやりとした冷たい空気の中で、湿った草いきれがぼくの皮膚を撫でていく。
 墓参りでもしていたのか? 
 まあ、何でも良いか。



「数々の罠を潜り抜けてここまでたどり着くとは……まぁ、仮にも十天衆の名を冠する者なら当然か」

「ええ、この程度の罠、準備運動にもなりませんでした。この程度だから、簡単に滅びちゃったんですかね? カルム一族は……」



 ぼくの言葉に、シスさんは「安い挑発だ」と小さく息を吐く。
 前から気にくわなかった男だ。強力な力を持ちながら、それを持て余している。力を持つことに罪悪感すら抱いているのではないか? ぼくはそれが許せない。
 四天刃が笑う。そうだよなぁ。狡いよなぁ、妬ましいよなぁ。
 腹の底がちりちりと痛む。カトル、と名前を呼ばれた。お前の口からその響きが出ることすら、今は煩わしくてたまらない。



「……その剥き出しの殺気。何が目的だ?」



 ぼくに才能があれば、ぼくはこの渇きを知らないままでいたのだろうか。四天刃の柄に触れる。ひんやりとしたそれは、時折、脈打つように動く。四天刃の声は、ぼくの皮膚に穿たれた穴を埋めるように、ぼくを満たしていく。ぼくが欲しい答えをくれる。
 なぁ、テメェがこんな風になってまで欲しているものに価値がないと思っているこの男は、いっそ死ななきゃわからねぇんじゃねぇか?
 或いは、そうかもしれない。
 こんな男でも仲間だと思っているだろうさんは、もしかしたら悲しむかもしれないけれど。 
 でも、ぼくが最強であると証明するためには、多少の犠牲は仕方ないな。








 鬱蒼とした深い森がその島の大部分を占めていた。
 以前もグランくんたちはカルムの郷のあるこの島を訪れたことがあるらしい。危険がある島に停泊するときは艇から出ないよう言い聞かされているから、私はこの生い茂った緑の風景を薄ら覚えているかどうかというくらいだったのだけど。
 全空で随一の格闘術を誇る暗殺一家であるカルム一族が根城にしていた島なのだと、ビィくんは私に説明してくれた。シスさんだって曲がりなりにも十天衆なわけだからその実力は折り紙付きとは言え、まさか暗殺一家の生き残りという物騒な言葉が出てくるとは思わなかったからぎょっとした。
 私はシスさんとは、それほど深く関わってきたわけではない。彼はいつも仮面を被っていて、私たちから距離を置こうとしているように思えたから、見るからに困っているようなときくらいしか話しかけはしなかった。でもやっぱり仮面があるせいで、その「困っているようなとき」っていうのを判断することから、まず難しかったのだけど。



「こんなこと言ったらなんだけどよぅ、カトルやエッセルにしろ、シスにしろ、なんか、結構可哀想だよなぁ……」



 ビィくんの言葉に、簡単に同意して良いのかすら分からない。
 シスさんのことは当然として、私はカトルくんの生い立ちすらも良く知らない。彼があまり深く語ろうとはしないから、私から尋ねるのも気が引けたのだ。それでも長く一緒に居ると見えてくるものは確かにあって、私は彼を形作る様々な物事に触れる度、もの悲しさと彼への愛情が混ざり合って、身体の内側にある臓器がぐちゃぐちゃになるような感覚を覚える。
 ぎゅうと力強く目を瞑ったとき、不意に足がぐらりともつれた。



「わっ?」

、大丈夫?」

「う、うん、転びそうになっただけ……」



 陽の光が木々の葉で遮られるせいで、地面はあちこちが泥濘んでいた。足を取られてバランスを崩す私に、グランくんが私を気遣うように振り向く。足手纏いになっているのは明確だからこそ、悔しいし、情けなかった。こんなことで打ちのめされて、私はカトルくんを止められるのだろうか。



「……おかしいな」



 足を止めたグランくんが私の思考を断ち切るように呟いていなければ、私はもっと、思考の沼にはまっていたと思う。グランくんは私が追いつくのを待って、それから続けた。



「罠が全て破壊されている」

「え? 罠……?」

「……破壊された痕跡も真新しい」



 木の根や幹を一つ一つ確認しながら、グランくんは独りごちるように呟いてその眉根を寄せた。そこにかつて罠と呼ばれる類のものがあったのだろう。その口ぶりから言って、以前来たときとこの島の様子が異なっているらしいことは窺い知れてしまう。
 今は生きた人間のいないカルムの郷、シスさんがここにいるとは言え、彼が罠を破壊して進むとは思えない。カトルくんの存在が、脳裏を過ぎるというよりはありありと浮かぶ。



「……それって、カトルくんがこの島にいるかもしれないってこと?」



 口にした瞬間、身体中の血が音を立てて巡ったような気がした。
 木々の重なる深い森の奥、呼吸の度、湿った土が靴の裏から染みこんでいくのを、私は確かに感じている。