ぼくにとって大切なものは、一体何なのだろう。
星屑の街とそこに住まう家族か、それともさんや、ここで出会った人たちか。
十天衆のカトルとしてのぼくが双方を天秤に乗せて計ったとき傾くのは、恐らく前者だ。ぼくをぼくたらしめていた全て。ぼくが生きる理由そのものがそこにあるから。
それでもさんの存在は、何物にも代えがたいものだった。家族を失い、身寄りも無いままにこの世界にやって来た少女。グランさんに保護されていたとは言え、彼女は何もかもを彼に打ち明けることをしなかった。さんが自身の生い立ちを詳らかにしたのは、ぼくの存在があったからだと聞いている。
全てを失ったとは思えないほどの天真爛漫さを持っていた。この世界にやって来て手に入れたものが彼女にもたらしたのは、一度手放さざるを得なかった幸福だ。さんはいつだってきらきらと輝いて見えた。こんなぼくを好きだと言ってくれる人だった。どれだけ一緒に居ても飽きなかった。彼女といる日々は全てが色づいて新鮮だった。
どこまでも、どこまでも。
「さんは今日、誰かと会って来たんですよね?」
駆動音が地鳴りのように響いて、三つ隣にあった騎空艇が飛び立つ準備を始める。その機体からの音や風のせいで、ぼくの声は彼女にまで届かなかったとしてもおかしくなかったのに、さんはぱっと目を見開いてぼくを見ていた。
「……はい、そうです」
一方で彼女の声も、不思議なことに、地鳴りのような音を縫うようにしてぼくまで届く。視界の端の方で、今し方飛び立ったグランサイファーより一回り小さな機体が島からぐんぐん離れていくのが見えた。駆動音は遠のいて、やがて空の彼方に消えていく。
さんは、だけどそれから先も口を開こうとしなかった。
グランさんの反応、さんの挙動、そういう様々な要因から考えるに、彼女が今日会って来た人というのは、単なる知人とか、そういうわけではないのだろう。重大なことにかかわるような人。例えばさんの背景に関係するような。グランさんの部屋で話をしたとき、それは確信に変わっていた。さんがぼくに何も話そうとしないのは、恐らく彼女がぼくに遠慮しているからだ。
彼女にそうさせてしまったことが、ぼくは申し訳ない。
「…………ぼくに話してはくれないんですか?」
沈黙を破るように言ったとき、さんは弾かれたようにぼくの瞳を見つめた。
大きな目だ。この双眸が感情豊かに形を変えることを知っている。今は、戸惑いと逡巡。「あ、の、でも」歯切れ悪く口にする彼女に、思わず「悪い話でしたか」と首を傾げてしまう。街中で声をかけたとき、彼女の背中は酷く浮かれていたから、そんなはずはないと思っていたのだけど。
「いえ! 悪くない話です、ものすごく、良いお話でした」
「だったらぼくにも聞かせてください。無関係ではないでしょう?」
「むっ……関係、では、な……ない……」
さんの顔が一気に赤くなるのを見て、自然と笑みが込み上げた。彼女は、そうだ、いつもぼくの気持ちを柔らかくしてくれる。さっきまでどこか強張っていたさんの表情はいつの間にか普段の彼女のそれに戻っていて、ぼくはほっとする。「ほんとに、話して良いんですか?」震えた声すらも愛おしい。
筋肉のほとんどついていない細い身体、武器を持ったことのない手は人を傷つけることを知らない、ぼくとは何もかもが違う人。緩く頷いたぼくに、彼女はそれでも躊躇いがちにその唇を開いた。「……昨日からグランサイファーを出て、会いに行ってたんです。カヤノさんっていうおばあさんなんですけど」温い風をうけながら、さんは自分の髪を撫でるように押さえた。
「私と同じで、別の世界から来た人です。もう、何十年もずっとこの空にいるそうです」
「そんな人が?」
「シェロちゃんが紹介してくれたの。……そのシェロちゃんには、グランくんが協力をお願いしてくれたんだけど」
「……ああ、成る程」
カヤノさんというその人は、この世界に留まり続けるには「縁」が必要なのだと言ったらしい。この世界に魂を結びつけるため、多くの人と深く関わること。それが本当に正しいかどうかを見極める術はないけれど、それでもさんはその話が腑に落ちたのだと。
そのカヤノさん本人に会っていない以上、どうしても胡散臭いと思わなかったわけではないけれど、かつて元の世界に戻ることになるかもしれないという恐怖に怯えていたさんがこうして前向きになれたことは大きな進歩だと思った。良かったと、心から思えた。
だって「縁」だったら、彼女はもう多くの人と結んでいる。
グランさん、ビィさん、ルリアさん。彼女の衣服を作ってくれるコルワさんに、食堂で彼女の面倒を見てくれているローアインさんたち。最近はアンスリアさんとも一緒にいるところを良く見かける。倉庫の整理を手伝ってくれるというセルエルさん。ナルメアさんや、シャオさん。シスさんも、まあ、それなりに。
ずっとざわついていた心が凪いだような感覚だった。ぼくをこちら側に繋ぎ留めていたのは、彼女だった。
心残りだったのだ。あなただけが。
「良かった。良い方向に進んでいるんですね」
さんはぼくの言葉に一瞬目を丸くして、それから静かに頷いた。
この世に神様がいるとして。
いや、そんなものがいるんだったらこの世界はこんな不公平なものにはならなかったか。星屑の街の子供たちのような存在がある以上、ぼくはその存在を信じない。だけど、万が一、公平性に欠ける神がどこかでぼくたちを見ているというんだったら、一体どこまで悪趣味なんだと思う。このときでなければ良かった。それならぼくは何の欺瞞もなくこの言葉を口にできたはずだった。内側に閉じ込めた感情が揺らがなかったわけではない。
魔物を葬り去りながら考えていたこと、血飛沫を浴びるたびに脳裏を過ぎった人の影、乾いた星屑の街、夜空の下で柔らかく微笑んでいた。ぼくの手の平でほっぺたを押し潰されながら、ぼくの思いに応えてくれた人。あなたのことが心配だった。帰りたくない、ここにいたいと泣いたあなたを一人にはできないと思った。
好きだった。ぼくの本心をあなたはもう知らなくて良い。あなたにはあなたを思ってくれるたくさんの人がいるのだ。
だったらぼくがいなくても、あなたは真っ直ぐ歩けるか。
「私、でもカトルくんのお話も聞きたいんです。カトルくんの力に、少しでもなりたいから。だからまた明日、こうしてお話してくれませんか」
先ほどまであれだけ真っ直ぐ届いた彼女の声が不明瞭になる。
グランサイファーに戻った頃から、ぼくを呼ぶ声がする。それが鮮明な響きとなったのは甲板に出る直前のことだったけれど。それは今でもやまない。おい、テメェ、力が欲しくねぇかと、繰り返しぼくを呼んでいる。この鼓膜にべたりと張り付く声の正体が一体なんなのか、今のぼくにはまだ分からない。
だけど、ぼくはこの声に導かれるんだろうな。力をくれるというこの声に。
瞳を細めて彼女の頬に手を伸ばす。潤んだ瞳も、僅かに紅潮した頬も、その割に大して温度の高くないその皮膚も、手触りの良い髪も。何もかもが愛しかった。
顔を近づければ、さんはぎゅうと目を閉じる。唇に触れかけて、直前でやめた。その鼻に歯を立てる。「いっ?」肩をびくりと震わせたさんを最後に一度だけ抱きしめて、ぼくは嘘を吐いた。
「ええ。また明日、今度はぼくの話を聞いてくださいね」
もっと力が欲しい。星屑の街も、さんも、何もかもを守るために。
そのためだったら、ぼくを呼ぶこの声に、全てを明け渡すことになっても良い。
カトルくんと甲板で話をした翌日のことだった。武器庫から短剣が一つなくなった。
かつてグランくんが覚醒へと導いた天星器、四天刃。それを持って、カトルくんは今度こそその姿を消した。
食堂のホワイトボードには、あの日彼が書き残した「依頼のため外出」の文字が、今も消えずに残っている。