ジャムは明日の朝食のメニューに出してもらえることになった。
 味見をしたトモイさんが「うまっ!」と目を丸くしてくれたから、つい得意げな顔をしてしまう。生クリームを添えてスコーンと一緒に食べたらきっと美味しいだろうと、いつもに比べたら人の少ない食堂で盛り上がる。この島で過ごす最後の夜だから、ほとんどの団員さんは外にご飯を食べに行ったらしい。ローアインさんたちも、日中はデザートに使うフルーツを仕入れに行っていたのだと教えてくれた。
 ローアインさんたちとそういう他愛もない話をしている中、このまま夕飯を食べていくか聞かれたけれど、街で食べてきちゃいましたと嘘を吐いた。お話をする分には楽しいし、長い時間馬車に乗っていた疲労感も特別なかったはずなのに、何故か全くと言って良いほどお腹が空かなかった。お昼に食べたパンが、まだ胃の中に残っているような気分だ。こういう感覚は珍しい。
 とは言え体調が悪いわけではなかったから「後片付け、手伝います」と言って袖を捲った私に、ローアインさんたちは首を振った。



「長旅で疲れたっしょ、今日は休んだ方が良い的な?」

「それな。ちゃけば、片付けくらい俺たちだけでジューブンっしょ」

「つかっち、さりげ顔色悪くね?」

「え、そうですか……?」



 慌てて頬に手を当てるけど、鏡もなければ自分の顔色なんて分かるはずがない。



「あ~、言われてみれば、たかし」

「無理してまた食堂メン全滅の危機に陥ったら笑えね~かんな」

「部屋戻って寝とけって。明日っからぁ、また手伝いよろ!」

「は、はい、じゃあ、お言葉に甘えて……」



 ローアインさんたちの言葉に背を押され、私は結局食堂を後にすることになる。扉を閉めるとき、「おやすみなさい」とお辞儀をしたら、三人から大きく手を振られた。その笑顔があんまりにも明るいから、胸の奥がじんわりと温かくなる。いつも陽気で、人当たりが良い彼らには、色んなところで救われている。
 こういうのも、カヤノさんの言う「魂の糸」なのかな。
 通路を歩きながら、騎空艇の外に目をやる。街中で見た彩雲は、陽がすっかり落ちた今、もうどこにもない。
 カトルくんはまだ、グランくんとお話をしているのかな。そりゃあそうだよね。だって、まだあれから大して時間も経ってないし。
 カトルくんは一応私ともお話をしてくれるって約束してくれたけれど、それがいつになるかは分からない。一度部屋に戻って、とりあえず、鞄を置いてこようか。コルワさんにも顔を見せたいし。そのまま部屋にいたら、そのうちカトルくんが迎えに来てくれるかもしれない。だけどそういうことを考えていたら、無性に落ち着かない気持ちになってしまった。私はカトルくんに上手く話ができるのかな。星屑の街のことで思い悩んでいる彼に、自分の話なんて、それこそ自分勝手が過ぎる。
 いや、大体私は最初から自分本位だ。この状況で彼に自分のために時間を割いてほしいと、そもそも言うべきではなかった。もう少し星屑の街のことが落ち着いて、カトルくん自身に余裕があるときでなければ、私の話なんかすべきでない。だって、グランサイファーに戻るまでのカトルくんは、まるでどこかに心を置いてきてしまったみたいに見えたから。
 カトルくんに話をするのは何も、今すぐじゃなくたって良い。今の私がやるべきことは、苦しんでいるだろうカトルくんの力になることだ。
 でも、私なんかが力になれるのかなあ。
 ため息を吐きかけたそのときだった。これから向かおうとしていた通路の奥に、見覚えのある人影を見つけたのは。



「あ」



 私よりもよっぽど顔色を悪くしていたカトルくんは、グランくんの部屋で彼と一体何を話したのか。想像することもできないけれど、私と目が合ったカトルくんは、何か躊躇するように、一瞬だけ目線を逸らした。








 騎空団を束ねる彼にとって、一方と他方に同じだけの熱量をかけること自体は恐らく造作もないことなのだろう。己を雁字搦めにする問題と向き合いながら、それ以外のことにも心を割く余裕を持つこと。それが出来るなら苦労はない。ぼくはあなたほど器用ではないし、それが故に余裕もない。
 グランさんはさんのことを終始気遣っていた。彼女に話をするように。そして、彼女の話も聞くようにと。そういうことを言うだけ言って、ぼくを解放した。
 芽生えた苛立ちを真上から潰して平らにするイメージで押し殺す。短剣を握って、襲い来る魔物を殺して回ったぼくの手は、洗えど、洗えど、薄汚れて見える。グランさんがぼくと同類には思えないのは、その清廉さのせいか。
 彼とさんが並んでいると、ぼくはどうしようもない劣等感に苛まれる。
 ぼくが全てを懸けてでも守りたい人と、ぼくがどうしても勝てない人。その二人があまりにも美しいもののように思えてしまうから。



「あ」



 とうに部屋に戻っているものと思ったが、さんは食堂から帰ってくるところだったらしい。ジャムの入った紙袋がなくなっていること以外は、さっき別れたときと全く同じ姿で、彼女は通路の先にいた。
 声をかけようとしたとき、言葉が喉の奥で引っかかったのは何故だろう。一瞬目線を外して、それでもどうにか取り繕って笑顔を浮かべる。「さん」みっともないほど、掠れた声で名前を呼んで。



「……ちょうど良かった。食堂からの帰りですか?」

「はい。カトルくんは、お話は……?」

「済みました」



 実のある話はなかったけれど。とは言わない。
 ぼくがそれ以上話す気がないことを察したのか、さんはぼくの傍に立つと、ぎこちなく笑った。



「……さっきのジャム、明日の朝食に出してくれるそうです。カトルくんも食べてね」

「野いちごのジャム、でしたっけ。ええ、楽しみにしておきます」

「…………」



 浮かべた微笑に、さんも応えるように微笑む。だけど、それに続く言葉がない。
 誰が通りかかってもおかしくない通路で立ち話を続ける気はなかったから、「甲板にでも行きましょうか」と口にした。彼女の部屋にはコルワさんがいるだろうし、かといって今ぼくの部屋に連れて行く気にはなれない。さんは小さく頷くと、ぼくの少し後ろを黙って歩いた。甲板へと続く階段に、今、人の気配はない。
 話をしたいと言ったのは彼女の方なのに、こんな風に黙ってしまうということは、さん自身もぼくに対してどう話を切り出すべきか迷っているのだろう。
 星屑の街での夜を、不意に思い出す。この島ほど年中温暖な気候をしているわけではないあの街は、夜空がやけに澄んで見えた。ぼくと比べて寒がりのさんはストールをぐるぐるに巻いて、それでも楽しそうだった。あの頬が緩む瞬間が好きだった。跳ねるような歩き方をする人だった。ずっとあんな風に笑っていてほしかった。
 だけど、今はどうだ。目線は緩く足元に落ちていて、口元だけをおざなりに笑みの形に保っている。ぼくは彼女になんて顔をさせているんだろう。気遣わせて、言葉を選ばせて、その背中を丸くさせている。



のことも気にかけてあげてほしいんだ」



 その言葉は今もぼくの首を絞めている。
 あなただったら、それができるんでしょうね、グランさん。十天衆と同等、或いはそれ以上に曲者揃いの団員を束ね上げ、自らの進むべき道をその力で選び取っている。あなたには誰もがついていく。生まれながらのカリスマ性と、それを遺憾なく発揮できるだけの能力と人柄がある。
 才能というのは、残酷だ。
 彼が努力を一切していないとは、勿論言わない。だけど、だからこそ追いつけないのだ。ぼくが同じだけの訓練をしても、彼は二倍三倍の速さで先へ進んでいく。その背をぼくはずっと追いかけている。藻掻き、喘ぎながら。
 ぼくは最強でなくてはならないのに、彼には敵わない。彼と行動を共にすればその強さの理由が分かるのではないかと思った。現実はぼくとの才の差を徹底的に思い知らされただけだった。むしろ、ぼくは弱くなったのかもしれないとすら思う。それを認めることがぼくは何よりも怖いけれど。
 甲板に出て、ぼくたちは街の灯りが見える位置で立ち止まった。グランサイファーは、間もなくこの島を発つことになっている。艇の手すりに触れて、宵の空を見上げるさんの華奢な後ろ姿を、ぼくは言葉もなく見つめていた。
 目に焼き付けて、この記憶にこびりつけるように。
 おい。おい。テメェ。聞こえてるんだろ。知らない声が耳の奥から滲み出るように聞こえたのに、ぼくはこのとき、いや、実を言うと、もっと前から気がついていたのだった。