馬車が街に着いたときには、もう陽が傾き始めていた。
 ずっと膝に乗せていたせいで温くなった鞄とジャムの入った紙袋を手に持って馬車から降りれば、赤から青にグラデーションがかった空が頭上に広がっていることに気がつく。濃い色の綿雲が太陽の光で陰影を作るのに、一瞬で目を奪われた。



「わ」



 綺麗なものを見ると、身体の中にある何かが流れていくのを感じる。木立の中にいるみたいな、ざあ、とした音が身体の奥から生まれる。目を凝らせば、白い星が二つ、淡く発光するように浮かんでいた。頬を撫でる温い風が心地よく、自分がどこにいるのかも一瞬分からなくなる。多くの人が行き交う街の中でまるで自分一人が切り抜かれたようだった。
 空に見とれながらも歩き出す。お昼に村を出てから何時間も座っていたからお尻と足が痛くて、そうしていると石畳の隙間にブーツの爪先を引っかけてつんのめってしまいかけた。足元をきちんと見て歩けば良いのに、俯いて歩くのが勿体ない。注意力はどうしても散漫になってしまう。
 カトルくんと一緒に見上げたかったな。そんなことまで考えてしまうのだ。
 街の中心街は人が多くて、人の話し声や気配で皮膚がひりひりと痛むようだ。それは、カヤノさんの住んでいたあの村が、あまりにも静かだったせいなのかもしれない。
 とっても良い村だった。時間の流れがゆっくりで、自然と共生しているようで、かといって人間同士の繋がりが希薄というわけでもない。今日の朝方、お隣に住んでいるという女性が野菜を持って家にやって来た。カヤノさんはお礼にとジャムの瓶を三つ手渡していた。カヤノさんはああして、あの村で、たくさんの糸を繋いでいるんだろう。実際私の目から見たカヤノさんは、この世界に酷く馴染んでいた。「そう」と言われなければ分からないくらいに。私は、どうだろう、まだ根無し草みたく見えるかな。ふわふわと宙に浮いて、頼りないかな。
 色んなものに惑わされることがないくらい、強くなりたい。カヤノさんみたいに、泰然としていたい。
 私の中での強さの象徴は、やっぱり彼をおいて他にないけれど。
 そう思った瞬間だった。



「鞄」



 背後から、たった一言そう声をかけられた。
 雑踏の中に人々の声は紛れているのに、その声だけはやけに鮮明だった。私の皮膚と皮膚との間を通り抜けて突き刺さるみたいに真っ直ぐ、私の耳に届いた。



「開いてますよ」



 弾かれたように振り向く。夕陽に染まる広場、港のある大きな街だから行き交う人も多い。花売りの少女、買い物帰りの老夫婦、仕事を探す傭兵。通りの奥にある飲食店の灯りが一つ、灯される。
 これだけ大勢の人で溢れているのに、だけど群衆の中から私を見つめていたのは、彼一人だった。
 フードを被っていても隠せないエルーンの耳。つり目がちの瞳は普段よりも表情に乏しいように見える。私が、彼のことを分からないとでも思ったのだろうか。思い出したようにその手でフードが払われた。私が身動ぎの一つもできずにいたのは、彼が誰だか分からなかったからではなくて、ただ信じられなかったからなのに。
 そこに現れた藤色の毛髪は、後ろで綺麗に編まれている。



「……カトルくん」



 白いマントはいつも見るそれよりもずっと汚れていた。普段よりもどこか草臥れて見えるのはそれが原因だったのかもしれない。



「…………買い出しにでも行っていたんですか?」



 私の頭のてっぺんからつま先までを、彼は目で測るようにして見つめる。そうしながら、とんとんと腰の辺りを指差された。そうだ、鞄が空いているって注意されたんだっけ。馬車の中で荷物を整理したときにうっかり閉め忘れていたことを思い出して、チャック部分のボンボンを引っ張った。その動作によって持っていた紙袋が傾いて、中でごろりと音を立てて瓶が動く。
 チャックを閉め終えるかどうかというとき、カトルくんが私の隣に立った。私の手元を覆うように彼の形をした影がある。その瞬間、空気に混じって、薄らと血の臭いがしたように思えた。だから本当は、心臓がどき、と跳ねた。



「持ちます」



 怪我をしているのか尋ねようとした瞬間、ジャムの入った紙袋を取られて、開きかけた唇は空気だけを吸ってしまう。手に食い込んでいた持ち手の感触がなくなって、思わずぎゅうと手の平を握った。何だかいつものカトルくんじゃないように思えたのだ。



「あ、の」



 そんな中途半端な声が唇から漏れてしまった。だけど、続く言葉がない。まるで部屋に閉じこもっていたことも、突然姿を消してしまったこともなかったみたいにしてそこにいるカトルくんに、なんて声をかければ良いのか、すぐには思いつかなかったのだ。
 紙袋の中に視線を落とすカトルくんは、私の動揺に素知らぬふりをしている。



「なんですかこれ。……ジャム?」

「は、はい、ジャムです。野いちごの」

「どうしてこんなにたくさんあるんです? ……しかもこれ、手作りでしょう」

「ええ、なんで分かるの?」

「市販品でここまで瓶の大きさが変わりますか? それに街の女の子たちも良く作っていましたし、見れば分かりますよ」

「そ、そうなんですか……」



 感心して頷く私よりも先に歩き出したカトルくんに遅れないようについていく。グランサイファーの停泊している港の方角に迷いなく進む彼に安堵に似た気持ちを抱いたのはなぜだろう。ちらりと彼を見上げる。私の歩幅に合わせて歩いてくれるカトルくんの横顔は、そのとき、私の息を呆気なく止める。
 陽の沈み始めた空の下、泣きたくなる。私はこんなときに何も聞けない。私、買い出しに行ってたんじゃないよ。カトルくんこそ、どこに行っていたんですか。見た感じだと、今戻ったところだったのかな。でも何も説明してくれないんですね。私は、ちょっと話したいことがあって。私の、というか、私たちの、と言って良いのかわからないけれど、これからのこと。魂とか、縁とか、そういった話、もしかしたらカトルくんは胡散臭いって言うかもしれないけれど。
 でも、私、さっきまで本当に、うきうきしてたんです。いつかまたこの馬車に乗って、今度はカトルくんと一緒にあの村に行くんだって、なんの疑いもなく思ってた。だけど、私の勘違いでなければ、今カトルくんは酷く傷ついている。疲れている。思い悩んでいる。
 未来の話なんか到底できないくらいに。
 あれだけ美しいと思った空に、今は押し潰されてしまいそうだ。
 グランサイファーに戻るまで、カトルくんはそれから一度も口を開けてはくれなかった。