グランサイファーを降りるとき、依頼書や手配書の類をごっそり持ち出した。書き置きは残さなかったけれど、代わりに食堂入り口のホワイトボードには艇を降りている旨を記しておいたから問題はないはずだ。一応、ローアインさんたちにぼくの姿は見られていたし、彼らならばグランさんにもさんにも、最低限話をしてくれるだろうと踏んだから。
 それでもさんは心配しているかもしれない。いや、どちらかというと怒っているってことも考えられる。あの人が怒っているところってあまり見た事がないけれど。上手く想像ができなくて、そっと目を伏せる。怒るよりも、悲しむタイプの人だよな、と、ぼくの中の彼女をなぞるように。
 ぼくはけれど合わせる顔がなかった。グランさんにも、さんにも、姉さんにも、星屑の街の子供たちにも。
 強くなると誓って街を離れた結果がこれだ。あのときのマフィアへの怒りやぼく自身の選択が間違っていたとは今でも思っていないけれど、最悪の結果をもたらしてしまったことにかわりない。そしてぼくは名誉を挽回する機会も与えられないまま、街を離れている。ぼくの直情的な行動が事態を悪化させる可能性がある。街の自治を任されている立場としてそう思われていること自体情けなく思うが、そう判断されても仕方ない行動を取ったのは事実だった。今姉さんと一緒に街を守っているのは、ウーノさんだ。彼ならばと思う反面、蓋をしたはずの激情が息を吹き返しそうになる。どうしてと。どうしてぼくは今あの場所にいられないのだと。
 グランサイファーを降りたのは、結局の所そこに起因する。自身の感情を持て余してしまうのだ。このままでは、誰かを傷つけそうで恐ろしかった。その誰かは、きっとさんだった。
 自分の不甲斐なさが許せなかった。グランさんの元にいればその強さの源を知ることができるのではないかと言いながら、その実ぼくは彼女の傍にいる大義名分が欲しかっただけだったのかもしれない。強くなることだけを追い求めるべきだった。星屑の街の皆のために、それだけを考えるべきだった。
 それでもあの純真無垢の傍にいると、ぼくの汚れが消えてなくなる気がしたのだ。そんなことがあって良いはずがないのに。
 短剣で、襲い来る魔物を次々と切り伏せていく。手の平に残る手応えと、返り血の生ぬるさに、自分がまだ生きていることを実感する。見上げた夜空には月がぽっかりと空に穴をあけるように浮かんでいて、それを眺めていると、星屑の街の夜、ぼくの隣でストールにくるまって笑っていたさんの笑顔を思い出す。ぼくになりたかったと口にした彼女のためにも、ぼくは強くありたい。マフィアごときに遅れを取る自分を殺したい。
 そうでなければ価値がないのだから。
 汚れた短剣の切っ先を指で拭き取る。手配書の最後の一枚に爪で印をつけても、この渇きは満たされない。








「こんなにたくさんジャムをもらっちゃって、良いんですか?」

「勿論よ。昨日ちゃんが作ってくれたものでしょう?」

「わ、私はいちごを摘んだだけですよ、こんなにいっぱい……何だか申し訳ないです」



 カヤノさんがお土産にと手渡してくれた紙袋の中を覗き込めば、中にびっしりとジャムの詰まった瓶があった。大小も形も蓋の色も様々な瓶はそれだけで胸が締め付けられるほど可愛い。きっちり蓋を閉めていても漏れる甘い香りに、顔が緩みそうになるのをぐっと堪えた。
 紙袋の持ち手が軋むくらいの重さに困惑する私に、カヤノさんは「重たいものね。ご迷惑?」と首を傾げるから、思わず大きく首を振る。



「まさか! ただ、昨晩あんなにお話を聞いて貰って、とっても良くしていただいて、その上お土産までいただくのが申し訳なくて……」

「あら、どうしてそんなことを言うの? 私、とっても楽しかったし、嬉しかったわ。そのお礼よ」

「た、たのしかった?」

「ええ、娘とお話しするのってこんな感じなのかしら。……あら? 年齢差を考えたら娘っていうより孫ね」

「孫……」



 晴天に恵まれた空からの日差しが、カヤノさんの髪をきらきらと輝かせていた。柔和な相貌は、まるで本当に血の繋がった相手に向けるみたいに慈しみに満ちている。
 カヤノさんは、昨晩私に向けて「縁」という言葉を使った。魂を根付かせること、多くの人と糸を結ぶこと、そういうイメージを持つことが大事だって。それが本当に正解なのかどうかっていうのは、私にも、きっとカヤノさんにも分からない。だけどそう説明されたとき、私は胸のあたりにつかえていた蟠りが小さくなった気がした。いつも必ず私についてまわっていた不安の種の上に、ありったけの土をかぶされたように思った。
 私にとって必要だったのは、背中を支えてくれる手だったのかもしれない。そのままで大丈夫と教えてくれる人。証明がほしいのではなかった。私の恐怖を、カヤノさんはその手で拭ってくれた。



「だから、良かったらまた来てくれるかしら。今度はちゃんの大切な人も連れて」



 紙袋を持っていた両手に重ねるように、カヤノさんの温度の高い手が添えられる。すぐに頷くことができなかったのは、口元が震えて、どうにもならなかったからだ。
 カヤノさんが、旦那さんと過ごしたおうち。たくさんのドライフラワー、日当たりの良い居間の、皮が少し傷んでいたソファ。穏やかな時間が流れる家の外に広がる野いちご畑、もうジャムを作るときくらいしか使わないのだという、大きな鍋。
 この空の世界に居続けるために「縁」が必要だっていうなら、私にとってはカヤノさんの存在もその一つだ。堪えきれなくて、目から涙が溢れた。娘とか、孫とか、そういうふうに言ってもらえることが嬉しかった。私が失ったものを、惜しげもなく与えてくれる人。



「絶対、絶対また来ます。カトルくんと一緒に」



 カトルくんの名前をぽろりと零してしまった私に、カヤノさんはその眦を細めた。



「ええ、ええ、待っていますよ」



 もうすぐ村から馬車が出る時間だ。
 港のある大きな街まで戻って、それからグランサイファーに帰ったとき、カトルくんは艇にいるだろうか。考えても詮無いことを思いながら、私は彼の後ろ姿を思い浮かべている。部屋に閉じこもって返事もしてもらえなかったあのときから幾らか時間が経って、何かが変わっているのだと思いたかった。良い方向へ。時間は全てを解決すると信じたかった。
 カトルくんも、私も、ありとあらゆるものが、前よりもずっと良くなっていると。何の確証もなく。