カヤノさんのおうちの裏側には背の高い草に囲まれた、緩やかな傾斜の小道があった。裏口から外に出たカヤノさんは「足元に気をつけてね」と言いながら、迷いのない足取りでその先へと進んでいく。カヤノさんに渡されたバケツを手に持ちながら、慎重にその背を追いかけた。土間から一歩外に踏み出すと、むせるような草いきれの香りに包まれる。頬を撫でる風は、星屑の街のものと違って生ぬるい。
 林と言うにはまばらな木々の中にいると、神経が芯から澄んでいくような感覚になる。木の根っこに足を引っかけないように、目線を落としているのが勿体ないくらいだった。土の感触も、青々とした草のにおいも、空を飛ぶグランサイファーにいては感じられないものだ。幼い頃に戻ったようで感慨深くなる私に、思い出したような口調で、カヤノさんは口にする。



「この島は、四季があんまりないのよね。いつまでも春と夏を行き来しているみたいで。毎日暖かくて、こんなおばあちゃんでも住みやすいわ」

「私も春と夏、好きです。でも、秋と冬がないのも何だか寂しいですね」

「そうなのよ。あのしんとした一面の雪原を、もう一度見たいなって思ってしまうの。雪が降ったら降ったで、隙間風もすごいあんなおうちじゃ暮らしていけないけれどね」



 ないものねだりよねえ。そんな風にカヤノさんが呟くのを、曖昧に頷きながら聞いている。カヤノさんの言う雪景色を、思い浮かべてみながら。
 カヤノさんについて道なりに歩いて行くと、突然木々が途切れて視界が開けた。瞬間、「わ」と声をあげてしまう。緑色の大きな葉っぱを持つ植物が広く群生していた。赤い小さな花が咲いているのかと思ったけれど、よく見るとそれは全て小さな実だ。小高い丘になっていたそこは一面が野いちご畑になっていたのだ。
 バケツを持たされた意味がようやく分かって、浮き足立つ。



「摘んじゃいましょう。バケツいっぱいになったら上出来よ」



 悪戯っぽく笑うカヤノさんは、私を振り向いてそう言った。








 バケツいっぱいになるまで摘んでしまったら、この辺り一面の野いちごがなくなっちゃうんじゃないかと思ったけれど、そんなことは全然なかった。取り切ろうと思ったらバケツが五つも六つも必要だったと思う。
 どれくらい夢中になっていたのかは定かではないけれど、いちごはあっという間に集まった。ずっとしゃがみこんでいて痺れてしまった足を伸ばしながら、野いちごでいっぱいになったバケツを持つ。ずっしりとした重さに達成感を覚えて、嬉しくなる。



「持てる? 重くないかしら」

「大丈夫です! こう見えて、重たいものは良く持つんです。騎空艇では食堂のお手伝いもしているので」

「あら、頼もしいわねえ。そうよね、ちゃんは騎空士さんですものねえ」

「わ、私はそんな、皆みたいに戦ったりとかしているわけじゃないので、騎空士というほどのものでは」

「それでも私からしてみたら、騎空艇に乗ってあちこちを旅しているあなたは、立派な騎空士さんよ」



 カヤノさんの言葉は、身体の深くにまで染みこんでいくような柔らかさがある。じんわりと熱が籠もっていく感覚にどうしてか照れくさくなって、頬が熱くなった。
 緩やかな下り坂になっている帰り道は、村の家々が良く見えた。長閑で良い場所だ。思い切り息を吸えば、清々しさでいっぱいになる。
 野いちごは家に戻って一つ一つ丁寧に洗った。手に触れる流水は冷たくて気持ちいい。長い茎のくっついているものは慎重に取る。ジャムを作るのだと、カヤノさんは野いちご畑で教えてくれた。保存が利く野いちごのジャム。まだ前のものが残っているから、今回は少しで良いわねとカヤノさんは言ったけど、バケツいっぱいの野いちごは「少し」なのかな、と未知の分野に新鮮な興味を持ちながら考える。
 カヤノさんのおうちのキッチンは広くて、大きなテーブルが中央に置いてある。両手で抱えなければならないほどの鍋でお湯を沸かすカヤノさんは、小さな声で鼻歌を歌っていたけれど、私にはそれが何の歌なのか分からなかった。
 キッチンの窓から差し込む陽の光は傾き始めている。どのみち帰りの馬車は明日にしか来ないから、今日はこの村でどこか宿を探すつもりでいたけれど、カヤノさんは「うちに泊まっていきなさいな」と笑ったのだ。私の事情を聞くなら、時間はたっぷりあった方が良いからと。そういうわけにはいかないと一度断った私に、だったらその分お手伝いをしてもらえるかしら、とカヤノさんは言って、それで一緒にいちごを摘んだのだった。



「泊まってくれるなら嬉しいわ。うちはもう、一緒に暮らす家族もいないから」



 もう。その一言が、私の中に降り積もるように残っている。いつまでも溶けない雪のような白さを持って。
 鍋の前で木べらを持つカヤノさんの後ろ姿は、眩しいくらいに懐かしいもののように見えた。野いちごと砂糖の甘い香りが、二人で居るには少し広すぎるキッチンに広がっていく。ぐつぐつと煮立つ音を、ちょっとだけ目を閉じて聞いていた。お母さんの料理を作るときのそれに重ねている自分に気がついて、鼻の奥が痛くなった。








 月がぽっかりと夜空に浮かぶ頃、カヤノさんと一緒に食事を作って、二人で向かい合って食べた。素朴であったかくて、優しい家庭の味がした。お皿を片付けて食後のお茶を飲んでいるときに、「じゃあ、そろそろお話をしましょうか」と姿勢を正してくれたカヤノさんに、私は言葉を選びながら身の上話をしたのだった。あまり明るい話ではないんですよと前置いて。



「私、四人家族だったんです」

「まあ、お父様と、お母様と?」

「兄がいました。特別仲は良くなかったと思うし、嫌なこともたくさん目についたけれど、昔はいっぱい遊んだな。私が泣いてたら、なんにも言わずに同じ部屋にいてくれたり」

「まあ、素敵なお兄様ね」

「だけど、私以外、事故で」



 私の吐き出した言葉に、カヤノさんはその瞳を歪ませた。
 突然の事故だった。車の横腹に激突された衝撃で私以外の三人が即死したこと。現実の私も大怪我を負って、下半身が動かせなくなっていたこと。事故を起こした犯人に対する恨みだけを深くして、そうしてどうにもならなくなったとき、あれだけ焦がれた健康な身体を持ってこの世界で目を覚ましたこと。そういうのをなるべく、恨み辛みを削ぎ落として、淡々と口にしたつもりだったのに、最後に吐き出した「だから、帰ったって、何もないんです」は、酷く震えていた。
 ぽつりぽつりと呟いた私に、カヤノさんの瞳は優しい。テーブル越しに私の手をぎゅうと握って、「こんなことを言っても何の救いにもならないのかもしれないけれど」と前置き、静かに言葉を重ねてくれる。皺だらけの乾いた手が、掬い上げるように私の手を持ち上げる。



「向こうでたくさんのものを失ったあなたを、神様が可哀想に思ってくださったのかもしれないわね」



 カヤノさんのしわしわの手は、皮膚が硬くて、だけど泣けるくらいに温かい。
 救いにならないなんて、そんなわけがなかった。大抵の日本人と同じように無神論者である私は、都合の良いときにしか神様の存在について考えることをしない。だけど、カヤノさんの言葉に縋りたくなる。本当にそうだったらどんなに良いか、って。
 一人深い底へ落ちていくだけだった私に、神様が幸せになるためのチャンスをくれたんじゃないかって。
 カヤノさんは小さな声で続ける。耳をそばだてて居なければ聞き漏らしてしまいそうなくらいの囁きが、皮膚の隙間に染みこむように落ちていく。



「何か自分を見つめ直すための試練だったり、魂の休息が必要な人だったり、贖罪のためであったり、或いはちゃんのように、それ自体が救済だったり、この世界に紛れ込む人たちは皆、そういう何かがあって、選ばれているんだと私は思うの」



 喉に引っかかっていた異物が、すとんと落ちるような感覚があった。知らないうちに、息が止まっていたらしい。「カヤノさんは」尋ねて良いものか迷って、「カヤノさんは、何があって、選ばれたんですか」結局口にしてしまったその掠れた問いかけに、カヤノさんは何を思ったのか。



「私? そうねえ……」



 カヤノさんは空っぽになった紅茶のカップを膝に乗せて、目線をそうっと落とした。



「ここでの日々が幸せすぎて、もう覚えてないわ」



 とても幸せな日々でした。だけどどこか懺悔をするような口調だった。昔話でもするように紡いでいく。酷く優しい声だった。
 この世界にやって来て、恋をしたのと。
 知らない世界で途方に暮れていた彼女を救ってくれた女性の弟さんだった。寡黙な人で、だけどいつも私を気にかけてくれたの。種族の違いなんて気にならなかった。一緒にいられて幸せだった。遠い何かに思いを馳せるような声が、微かに震えていた。



「その人は……?」

「亡くなったわ。五年も前の話ね」



 その目線が、部屋の隅に立てかけてある写真立てに向けられた。今よりも少し若いカヤノさんの隣に立つのは、彼女の背丈の二倍はありそうなドラフの老人だった。
 カヤノさんの指には鈍い光を放つ指輪がある。言葉に詰まった私に、だけどカヤノさんは緩く首を振った。「添い遂げられて幸せだった。何も後悔はないの」そう微笑むカヤノさんを前にして、私が泣いて良いはずがない。



「厳密には、私はあなたの問いかけへの正しい答えを持っていないのかもしれない。私と同じことを実践しても、それが確実な方法かどうかなんてわからないわ。私はあなたをここに連れてきた神様じゃないから。だけど、私はね、ちゃん」



 カヤノさんの言葉が、私の中に落ちていく。



「あなたが幸せであること。正しいと思える道を歩くこと。たくさんの縁を結ぶこと。あなたを連れてきた神様に、ここにいることがあなたの幸せだと証明することが、正解なんじゃないかと思うわ」

「……証明する」

「魂の糸のようなものを結ぶこと。あなたという存在を、この世界に認めて貰うこと」

「む、難しいです」



 証明とか、認めてもらうとか、魂とか糸とか、そういう馴染みのない言葉に思考が停止しかける。そんな私に、カヤノさんは笑った。



「難しく考えないで良いの。一緒に居て楽しい、幸せだ、ここにいられて良かったって思える相手を、一人でも良いから作ること。きっとそれが一番よ」



 そのとき私の脳裏に過ぎった人の存在に、視界が大きく弾けたようだった。外はもうすっかり暗いのに、何か大きな光が瞬いたように、目の奥がちかちかとしている。
 身体の端から熱を持つ。薄い紫色の髪をした男の子。私を許してくれた人。私の好きな人。あの人とずっと一緒にいたいと思っているから、私は今ここにいる。
 私の表情の変化で、もしかしたらカヤノさんは私が思い浮かべた人の存在に気がついたのかもしれない。企み事をするようにその目を細めて、カヤノさんは笑った。



「もうそういう人がいるんだったら、いっそ結婚っていう形を作ってしまうのが、一番分かりやすいかもしれないわねえ」

「けっ?」

「魂を根付かせてしまうイメージを持つこと。そのためには、この世界の人と添い遂げることが正しい方法だと思わない?」

「そ、そんな、わ、私にはまだ早いです」

「早くたって良いじゃない。私が若い頃はね、あなたくらいのときには皆結婚してたんだから」



 ぶわ、と頬に熱が籠もる。思わず顔を隠すように両手を添えれば、カヤノさんは慈しむような笑みを深くした。
 照れくさくてどうしようもないのに、その反面、カトルくんに会いたい、と考えてしまう。星屑の街から戻って以来、声すらも聞いていないカトルくんに、私は会いたい。声が聞きたい、触りたい、色んなお話をして、一緒にご飯を食べて、隣を歩いて。
 私のことを救ってもらったように、烏滸がましいのかもしれないけれど、私が苦しんでいるカトルくんを支えてあげたいって思ってしまうのだ。今だけじゃなくて、これから先も、ずっと。
 そんな風に考えていると伝えたら、カトルくんは笑ってくれるかな。
 でも、結婚なんて。背中を丸めて小さくなって唸る私の前で、カヤノさんはころころと笑っていた。