「こんにちは」



 その家には呼び鈴のようなものが無かった。迷ったけれど、玄関先で声を張り上げる。 扉の奥の方から「はぁい」と間延びした声が聞こえて、思わず背筋を伸ばす私の前に、やがて重厚な扉からひょっこりと顔を出したのは、二重の、優しげな瞳が印象的な初老の女性だった。
 きちんと心の準備はしてきたはずなのに、この人が「そう」なんだと思うと落ち着かない。多分、これは高揚だ。白髪頭の、小さな女性。多分、街中ですれ違っても彼女が別の世界からやって来たなんて分からない。



「あら、あらあらあら。もしかしてあなたが」

「あの、初めまして。シェロちゃん……シェロカルテさん、から紹介していただいて」

「ええ、ええ、聞いていますよ。どうぞ、あがってくださいな。散らかってるけれど」



 促されて「おじゃまします」とお辞儀をする。こぢんまりとした、素朴なおうちだった。細々とした飾りや置物の類が多かったけれど、雑然としている印象は何故か覚えない。甘い、果物を煮詰めたような匂いがして、私はそれをジャムか何かの香りだと推測する。ドライフラワーがあちこちに飾ってあって、つい見入ってしまう私に「趣味なの」と出迎えてくれた女性は笑った。趣味ってことは、手作りなのかな。褪せたような色味の花は、部屋にすっかり馴染んで可愛らしい。
 おばあさんは「カヤノさん」と言うらしい。こちらの世界ではあまり馴染みのない響きだ。だけど私にとってはどこか懐かしい。たったそれだけで、私はどきどきして、落ち着かない気持ちになってしまった。あまりじろじろ見ては失礼だと分かっているのに、この家の中に何か私と彼女の繋がりがないかを探してしまう。
 外からの光が燦々と降り注ぐ、大きな窓がある部屋だった。準備しておいた手土産を渡し、年季の入ったソファに促されるまま座れば、テーブルを挟んで向こう側に腰を下ろしたカヤノさんはにっこりと笑う。皺だらけの顔は柔らかくて、それだけで抱いていた緊張がゆるゆると解けていくのが分かる。



「シェロちゃんから話は聞いていたわあ。まさか、こんなに可愛らしいお嬢さんだなんて。ちゃん、だったかしら?」

「は、はい。といいます。突然押しかけてしまってすみません」

「良いのよお。私なんかに会いたいって言ってもらえて、とっても嬉しいわ。だからそんなに緊張しないで。あなたのおばあちゃんだと思って接してちょうだいね」



 優しい言葉に胸がいっぱいになってしまった。なんて、なんて素敵な人なんだろう。穏やかで、温かくて、初めて会ったのに私はすっかりカヤノさんが好きになってしまう。頭の片隅で「単純ですね」と声がしたのに、そっと目を閉じる。ええ、そう、単純なんです、でもそれは生まれ持ってのものなので、どうしようもない。
 テーブルの上の繊細な作りのティーカップに、カヤノさんは紅茶を淹れてくれる。馬車の中でイメージトレーニングはしてきたはずだったのに、「召し上がれ」と微笑むカヤノさんの柔和な瞳を前にしたら、全部吹っ飛んでしまった。カトルくんがもしも隣にいてくれたら、私の代わりに全部喋ってくれたんだろうな。私が質問したいことまで全部、丁寧な口調で。
 だけどカトルくんはここには居ないから、私が一人で頑張らなくちゃいけない。ここまできたら二人の問題だって、以前カトルくんはそういう風に言ってくれたけれど、それでも。膝の上で重ねていた手に力を込めて、一度強く目を閉じる。



「その、なんて言ったら良いのか分からないんですけど、お聞きしたいことがあって」

「ええ、ええ、なんでもどうぞ。ドライフラワーの作り方? それとも、ジャムかしら?」



 ああ、それも気になるな。そう思ったら気が抜けて、笑ってしまった。本当のおばあちゃんは私が小学生のときと、生まれる前に亡くなってしまっていたけれど、だからこそ胸がいっぱいになるのだ。
 そういえば、カヤノさんにご家族はいないのだろうか。一人で暮らすには些か広いように思える一軒家に、そんな疑問を抱くけれど、開いた唇は「ドライフラワーもジャムも作ってみたいんですけど、それとはちょっと違くって」と、言葉を紡いでいく。



「……カヤノさんは、別の世界からここに来たって聞きました」



 少し窪みがちの小さな瞳がゆっくりと瞬いたのを、私は確かに見た。



「私も、そうなんです、それで、お話を聞きたくて」



 ティーカップを持ったカヤノさんは私の言葉に固まってしまった。だから、私はそのとき、何か間違えてしまっただろうかと心配したのだ。つい食い気味に言葉を重ね続けてしまったけれど、一つ質問をしたとき、カヤノさんが答えてくれるまで待つべきだった、きっと。
 それからカヤノさんが、「あらあら、そうなの」とどこか間延びした声でゆっくり頷くまで、結構な時間を要したように思う。知らない間に手の平に汗をかいていて、私はそれを、太股のあたりでそっと拭う。



「……シェロちゃんからの紹介だもの。そうよねえ。でも、久しぶり。あんまりにも久しぶりすぎて、自分がそうだってことも忘れちゃってたわ」



 カヤノさんの言葉は、私のような人間が彼女の元を訪れることが初めてではないということを示唆していた。それだけで落ち着かない気持ちになる。その人たちも、縋るようにカヤノさんの元にやって来たのかなって、想像してしまうのだ。
 湯気を立てるカップにふうふうと息を吹きかけて、それからカヤノさんはゆっくりと味わうように紅茶を口に含んだ。こくりとその細い喉が動くのを、私はじっと見届ける。窓から差し込む光の筋に、空気中の塵が光の粒のように舞っているのが、彼女をどこか幻想的に見せていた。



「そうねえ。確かに私も、むかぁし、ここじゃない世界にいたわねえ……」



 遠い何かを思い起こすように、カヤノさんのその瞳が空を見上げた。彼女が空の世界にやって来て、何十年。そう聞いている。多分、カヤノさんは元の世界でよりも、こちらに居る日々の方が長い。
 それなりの時間をかけて、カヤノさんはティーカップをテーブルに置いた。私のものよりも小さな手は、皹や皺が目立って、私のそれとは全然違う。それだけの年月があったんだと思うと、私は感動してしまうのだ。私の望み、願い、恐怖に打ち克つ方法を、カヤノさんは知っている。「でも」とカヤノさんが口を開いたとき、私は無意識に呼吸を止めていた。



「でも、ごめんなさいね。私、元の世界に帰る方法は知らないの。それで、こんなおばあちゃんになっちゃったわ」

「えっ……」

「いつも、お役に立てないの。折角こんなところまで来て貰ったのに、ごめんなさいねえ」



 申し訳なさそうに眉を寄せるカヤノさんに「違うんです!」とつい声を大きくしてしまった。ほとんど身を乗り出しかけていた私を見て、カヤノさんは再びその瞳を丸くする。



「私、帰りたくないんです、ここにいたいんです」

「…………」

「どうしたらカヤノさんみたいに、何十年もこっちの世界にいられるんですか? 過ごし方? とかあるんですか? そういうのを聞きたくて、それで」

「……ふふ」



 おかしなことを言ったつもりはないのに、笑われてしまった。くすくすと口に手を当てて笑うカヤノさんは少女みたいに可愛らしいけれど、私はぽかんと口を開けてしまう。
 ひとしきり笑ったカヤノさんは、小さく首を傾げて「ごめんなさいねえ」とその双眸を細めた。勘違いしちゃったわ、と続けられた言葉に、私はどうしようもなく、希望めいたものを感じてしまうのだ。「帰りたくないのね」改めて尋ねられ、その瞳を見て強く頷く。



「そうねえ、それだったら、こんな年寄りでもお役に立てるかもしれないわ」



 カヤノさんのゆったりした声は、どこまでも穏やかで優しい。