騎空艇はごうんごうんと音をたてて空を飛んでいる。
 いつもだったら私の精神をなだらかにしてくれるグランサイファーの駆動音も、今の緊張感を取り除くには足りない。厨房で下ごしらえのお手伝いをしていても、お皿を洗っていても、それでも私の脳の周りには膜のような何かが張ってあるようだった。



ちゃん、戻って来てからずっと心ここにあらずって感じね」



 そんな風にコルワさんに言われたけれど、愛想笑いも難しい。
 私たちが星屑の街から戻ってから、二日と半日が経っていた。
 予定より一日遅れての出立になったのには、事情がある。カトルくんがマフィアのアジトを襲撃したその翌日、星屑の街の西地区で数名の子供が襲われたのだ。目撃者である少年の証言から、相手はマフィアの一味であることが判明する。街の外れで薪を拾っていたところ、突然見知らぬ男たちに襲われたのだと。
 彼らは一命を取り留めたとは言え、重傷を負っていた。血の気の失せた顔で喘ぐような呼吸を繰り返すだけの少年を前にしたカトルくんの怒りは、凄まじかった。彼の背中から溢れた憤怒にはどす黒い色がついていて、それだけで空気はびりびりと振動した。私はどうしたら良いのか分からず、狼狽えることしかできなかった。
 そのまま再びアジトまで単身乗り込もうとした彼を止めたのは、やっぱりグランくんで。
 私はあのときのカトルくんの表情を、きっと一生忘れられない。
 怒りと憎悪とが混ざってどうにもならなくなった瞳。それをカトルくんは、真っ直ぐグランくんに向けていた。



「…………またあなたですか」



 そう呟いた彼の声は、今にも千切れて消えてしまいそうなほどにか細かったのだ。
 グランサイファーに戻ってから、私はカトルくんと一度も顔を合わせていない。元々長期の休暇が与えられていて、今のところ依頼に支障はないらしいけれど、それでもほとんど部屋から出てこないことが心配でたまらなかった。だって、食堂にも現れないのだ。
 ローアインさんから「だったらシーメー、美味い持ってってやりゃ良いっしょ!」と声をかけてもらったことを受けて、彼が作る特製の食事を私は一日に三度彼の部屋の前まで持って行った。部屋は鍵をかけられていたから、仕方なしにノックをして声をかけてから部屋の前に置いていたけれど、カトルくんは扉を開けてはくれなかった。
 悲しくて、悲しくて、手をつけられた形跡の無い食事を持ち帰るとき、初めて声を殺して泣いた。二日と半日分溜め込んだ悲しみが、私の頬をめいっぱい殴っていくのだった。口の中をぎゅうと噛みしめて、だけど、血の味すらもしない。私は臆病者だ。こんな方法ですら自分を傷つけられない。







 そんなとき、不意に背後から声をかけられて、はっと顔をあげた。どうしよう、と思う。トレイを持った手では、滲んだ視界を拭うこともできなかったのだ。艇内の長い廊下に誰もいなかったから、気を抜いていた。
 私の名前を呼んだその人は、いつまで経っても振り返らない私の手元をそっと覗き込む。



「カトルはまだ、部屋かな」



 それでようやく、私はその人がグランくんだということを知る。



「……グランくん」



 彼の前であるということに限って言うなら、私は泣いていて良かったのかもしれない。涙が盾になって、私の狼狽を伝えることはなかったんじゃないかと思うから。
 私はグランくんがカトルくんを力でねじ伏せてしまったあのときから、彼にどんな顔をしたら良いのか分からずにいたのだ。
 グランくんは私の目を見て、その手を目に近づけようとして、それからちょっとだけ躊躇い、私の涙を拭うかわりにトレイを持ってくれた。バレていないだろうか、私がグランくんの目を真っ直ぐ見れていないこと。「あのさ」グランくんは、躊躇いがちに切り出してみせる。彼が持つトレイの上で、冷めたおかずがじっと佇むようにしてそこにある。



「こんなときだけど、に話があるんだ」



 服の袖で涙を拭いながら、私はグランくんの、掠れた声を聞いている。騎空艇は、彼の声を押しつぶすようにごうんごうんと音をたてている。星屑の街から、私たちはそうして少しずつ遠のいていく。








 グランさんだけのせいにする気は微塵もない。
 マフィアを殺す寸前だったあのとき、ぼくの武器を叩き落とした彼の瞳に、一瞬でも逡巡を覚えたぼくが悪かった。彼の真っ直ぐな正しさを飲み下した。それは決して短くはない期間、彼の騎空艇に乗って、彼と一緒に旅をしたことでできあがった、見えない縛りから来る選択だったのかもしれない。
 だけどそんなもの、躊躇せずに断ち切るべきだったな。
 即座に切るにはあまりにも尊いものだったのだと過去のぼくに言ったら、愛に触れたことのない目をしたその子供はぼくを馬鹿にするだろうけれど。
 だって実際、あのときぼくがあの場にいたマフィアを残らず殺していれば、少なくとも、あの子たちは傷つかずに済んだのだから。



「……カトルくん、ご飯置いておくね、ちょっとでも良いから、食べてね」



 控えめなノックの後に、微かに震えるさんの声がある。ぼくはそれを、灯りもつけない部屋で聞いている。ベッドに横になって、片膝を立てて、煩わしい上着を脱ぎ、顔面に両手の平を押し当てて。
 さんが食事を置いて行ってくれるのは何度目だろう。正確には数えていないから、分からない。光の全てを遮って、こうしてただただ打ちひしがれている間、時間はゆるゆると、溶けるように過ぎていく。指の隙間から薄ら見える天井の染み。ぼくの後悔を嘲笑う幻聴。遠ざかるさんの足音に、だけど呼び止める声も出ない。
 こんなにも自分に力がないなんて思わなかった。
 マフィアの報復を受けた子供たちが家に運び込まれた朝、姉さんはまだ動けない子供がいると聞いて家を飛び出した。ぼくたちに応急処置を頼み、それから、グランさんにぼくを見張っているよう余計な言付けまで残して。
 幼い子が浮かべる苦悶の表情、細い肩が呼吸の度に上下する。あまりの痛々しさに胸が締め付けられた。息を吸うために開いた唇は、そのときとうとうぼくの本音を零してしまった。クソ、クソクソクソ、あのゴミ虫共が。取り繕えなかったぼくの本心。空気を振動させる罵詈雑言に、床に膝をついて子供を勇気づけていたさんははっきりとした動揺を見せた。
 許せなかったのだ。ぼくたちから何もかもを奪おうとする存在が。
 仇を取ってやると、ぼくはそう口にして立ち上がった。ぼくは間違えていた。マフィアに命乞いをされて、グランさんに止められて、躊躇ってしまった。あの時殺しておけば良かった。だけど、今からでも遅くはない。



「どこに行くの?」



 一人家を出た直後に背後から呼び止められたときのぼくの顔は、酷いものだったと思う。あの臆病なエッセルの頼みを、グランさんは聞いてしまう。



「…………またあなたですか」



 あの時呟いた声は掠れて、酷くみっともなかった。
 邪魔立てをするなら容赦はしないと告げたぼくの前に立ち塞がったグランを、切り伏せられる力があれば良かった。彼もまた一歩も引く気がないらしい。冷静になれとその目が言う。煩わしくてたまらなかった。何の関係もない余所者が口出しするな。「そこをどいてください」腰の短剣に手を触れた瞬間彼は瞳を細める。動く気はないと、その目が言う。



「いいから……そこをどけ!」



 マメだらけの手で短剣を握りしめたその瞬間、鋭い痛みが走った。だけどこんなことで躊躇ってられるか、立ち止まれるか、ぼくは、これ以上大切なものを失うのはごめんだ。
 どれだけ短剣を振っても、その切っ先はグランの薄皮を切るくらいで、肝心なところには届かない。踏み込みが浅いのか、ぼくが遅すぎるのか、経験の差なんて言わせない。どうして、どうして、どうして、思考の先にある「才能」の文字に、ぼくがどれだけ殴られたか。
 視界の端で、家から飛び出してきたさんがぼくの名前を必死で呼んでいるのは分かっていた。グランの心配をしないのは、ぼくよりも彼の方が強いからか? そんな詮無いことを考えてしまう。
 ぼくは、だけど、彼女が好きだった。血縁関係の有無に関してのみ言及するならば、この世界において、さんはここにいる子供たちと同じように天涯孤独の身だ。だからぼくが守りたかった、彼女が望むならこの世界での家族になっても良かった、だけどそんなの、きっとぼくのエゴだ。
 グランの操る剣がぼくの武器を弾く。ぼくたちは繰り返す。鍛錬を重ねた。世界中を旅した。どんな魔物だって倒せるほど強くなった。死線をいくつも潜り抜けた。守るべきものが増えた。その分強くなれると信じていた。
 なのにじゃあどうしてぼくはこうも弱いままなんだ。
 ぼくの首筋に剣を突きつけた年下の天才は、鋭い眼光のままにぼくを見つめていた。呼吸が止まる。潰れたマメが空気に触れて、鈍く痛んでいる。敵わないんだよ、いつも、もうずっと前から。悔しくて、腹が立って、いっそ笑える。
 吐き出した呼吸は今でも震えている。薄暗い部屋、ちかちかと点滅する光の中に佇む一人の少女。ぼくを羨ましいと言った。だけど、違う、ぼくは強くないよ、きみはひどい勘違いをしているのだ、今も。
 あれほどに強くなりたかった。
 そうすればぼくはきっと全てを守れた。