慣れない場所で一人待たされる時間というのは、異常に長く感じられるものだった。自分の呼吸音と、壁掛け時計の秒針の音だけが、壁を取り払われた広い居間に微かに響いている。
 とうに冷めたお茶を飲み干しても、身体の奥がからからに乾いているような気がした。テオくんの治療をした後、彼らを送ってくると言って出て行ったエッセルさんも、カトルくんたちも、未だ帰ってくる気配はない。
 こうして一人でいると、色んなことを考えてしまう。この星屑の街にやって来てから今に至るまでに起きたことを。まだ街の門を通ってから一日も経っていないというのに、その間、私たちの前に積み上がった壁の何と高いことか。



「……芳しくない」



 少し前に呟いたのと全く同じ言葉を吐き出している自分に、自嘲気味な笑みを浮かべてしまいそうになった。あの時と全く別の悩みなのに、同じような所感を抱いてしまうことにやるせない気持ちになる。
 誤魔化すように目線だけを動かした。棚の上に並ぶ細かな飾り物、木の実でできた首飾り、ソファにかけられた大判の布はパッチワークが施されていて、そうしていると、ここがスラム街の真ん中だなんて思えない。
 大人に捨てられた、子供たちだけが暮らす街。表層を撫でるように語るカトルくんの表情にはいつも薄い膜があって、そこに触れようとすると緩やかな電流が流れるような感覚があった。触れてくれるなと彼はその眦で拒絶する。だから、気付かないふりをしていた。彼がそういう風な目をしてみせることに、ではなく、そこに膜があること自体に。そういう風に距離を保っていたから、彼が街を案内してくれると言ったことが、嬉しかった、許されたように思えて。
 私は臆病だったから。
 そのとき、玄関の方から扉の開く音がして、はっと顔をあげる。カトルくんの名前が口をついて出そうになったのは、彼のことばかりが頭を占めていたせいだ。だけど、そこに彼はいない。



「ごめん、。一人にさせちゃったね」



 気遣うようにそう口にしてくれたエッセルさんに、私は今、自分自身がどんな顔をしているのかも分からなかった。
 







 許せるかよ、と思うのだ。
 薬をばらまいて星屑の街を根から腐らせようとしたマフィアを、ぼくを殺せばもっと手っ取り早く済むとぬかしたクソ野郎を、どうやって許してやることができるのか、誰かこの怒りの鎮め方があるなら教えてくれよ、殺す以外に一体何があるって言うんだよ。
 地べたに這いつくばって命乞いをするマフィアの男を見下ろしながら、とうの昔に切れた糸を大義名分のように掲げ、思いつく限りの罵詈雑言を並べる。ビィさんが、ルリアさんが、動揺し、ぼくに怯えているのがわかる。だけどそれが何だって言うんだ。ああ、死ね、死ね死ね死ねよ殺してやる、お前たちはそれだけのことをしたのだ。子供たちから未来を奪った。何の罪も無い幼い命を弄んだ。星屑の街を潰す、そんな目的のためだけに。
 だったらお前も奪われる覚悟はできているよな。悲鳴をあげるその首切り落として全員その棚の上に並べてやる。腐った眼球は全て潰して、耳も削ぐ。舌だけは残してやるから、そうして地獄で詫びやがれ。
 いつかぼくもそっちに行ってやるから。
 先の魔物にしたように短剣を振り上げたその瞬間、しかしぼくの手から武器は叩き落とされていた。がらんがらんと音を立てて、足元で短剣が回転する様を視界の端で見る。そんなことをできるのは、一人しかいない。
 ああ、疎ましい。
 腹の底に芽生えた感情をそのままに、彼を見た。



「…………止めるなんて、一体どういうつもりですか? グランさん」



 どす黒い感情を抱え生きてきたぼくと、彼はまるで対極にいる存在だった。








 テオくんたちは、年長の子供のところに預けてきたらしい。数日は気をつけて見ておいてほしいと頼んだから、もう無茶なことはしないと思うんだけど、アメリアも一緒にいるから大丈夫かな、あの子は年の割にしっかりしているから。エッセルさんはそう話してくれた。



「カトルは、にこういう話をすることはないとは思うけど、私はも知っておくべきだと思うんだ」



 不意に切り出されたその言葉に、エッセルさんの顔をまじまじと見つめる。
 知っておくべきこと。「私たちと切り離してはいけないことだと思うから」そう続けるエッセルさんの双眸は、どこまでも真っ直ぐだ。痛いくらいに。
 膝の上で手の平を握りしめ彼女をじっと見つめ返せば、エッセルさんは私に聞く意思があると判断したのだろう。低い、静かな声音で、一つ一つ話して聞かせてくれた。星屑の街は常にマフィアに狙われていること。特にここ最近はカトルくんの不在を狙って、内部から街を腐らせようとしているマフィアがいること。そのための手段として使われているのが「ヘヴン」という薬で、子供たちが犠牲になっていること。テオくんも、その餌食になる寸前だったらしい。目を見開く私に、エッセルさんの顔はどこまでも険しい。
 それでカトルくんはさっき、あんな風に血相を変えていたのだ。魔物に襲われていた子供を助けることができたのに、どうして切羽詰まったような顔をしているのだろうと思っていたけれど。「カトルはマフィアのアジトに向かったんだろうね」続けられたその言葉に、思わず息を飲む。



「……アジトって……」

「星屑の街を狙うマフィアは幾つかあるけれど、『ヘヴン』を流しているマフィアは分かってる。昨晩カトルにも教えておいたから、もしかしたらそこに向かったんじゃないかな」

「だ、大丈夫、なんですか? カトルくん、助けに行かなくて」

「単身での襲撃で失敗したことはないから、そこは心配しなくて良いと思う。……それより問題なのは、報復の方。どうなるかは、私にも読めない」



 淡々と話すエッセルさんに、思考の整理が追いつかない。マフィア、アジト、麻薬、報復。元の世界に居た頃の私だったらフィクションの話でしか聞かない言葉ばかりで、いくら心を落ち着かせようとしても、冷静になれない。
 エッセルさんとは今朝二人でこうして向かい合って話をしたばかりだったのに、それが遠い昔のことのように思えた。あの時は、なんてのんびりしていたんだろう。この街を覆う暗雲に気がつかず、星屑の街が普通の街として成立しているように思っていた。
 だけど、やっぱりそんなはずがないのだ。子供はどうしたって守られるべき存在で、なのにその手が足りない。外側からの悪意に、彼らはどうしても晒されてしまう。



「カトルは街をもっと大きくしようと考えている。先手を取ってマフィアを殲滅して、外側のスラム街も吸収してしまえば、子供たちを脅かすものは何もないって、信じてる」



 エッセルさんの言葉に、私は緩く唇を噛む。
 それは、方法の一つとしては正しいように思えた。悪は、だって、のさばらせてはおけない。放っておけば奪われる可能性があるなら、そういう選択肢だって選び取る必要がある。なくしてしまってからでは遅いと身をもって知っているからこそ。
 でも、とエッセルさんは続ける。



「そのためには子供たちも武器を持たなくちゃいけない。抗争が始まってしまえば、この街だってきっと無傷ではない。私たち二人だけの問題だったら、カトルの言う事も分かるんだ。でも、私はそうやって街を拡大する前に、今いる子供たちの心のケアをすべきなんじゃないかって思ってる……こうなってしまった以上、もうどうにもならないのかもしれないけど」



 あの子たちを傷つけてまで掴み取る平和に、意味はあるのかな。続けられたエッセルさんの言葉は、これまで聞いた彼女のどんな声よりも、掠れて、弱々しい。
 窓から部屋に真っ直ぐ伸びる光の筋は、エッセルさんの長い髪をきらきらと輝かせているのに、この部屋にはどうしても、陰鬱な影が丸く浮かび上がっているようで、息をするのも億劫だった。どうにかそれを打ち砕こうとしても、私はエッセルさんを慰める言葉を、一つも持ってはいなかった。