少し話そうか、と言う割に、エッセルさんは私の前にカップを置いた後、自分からは口を開こうとしなかった。
 朝食の支度は私がキッチンに顔を覗かせたときには本当に終わってしまっていたらしく、エプロンを脱いだエッセルさんは昨日と同じ椅子に座って、温かいお茶の入ったカップに緩く息を吹きかけている。昨日も出してもらったそのお茶は、優しい味がして口当たりが良い。一口飲んで、じんわりと身体が温まるのを感じながら小さく息を吐いた。



「……このお茶、とっても美味しいですよね」

「ん、ありがとう。子供たちが街の外から仕入れてきたものなんだ」

「子供たちが?」

「そう。そういうことを仕事にしている子も、結構多い」



 エッセルさんは言葉少なだったけれど、言わんとしていることは飲み込めた。昨日カトルくんと一緒に夜の街をお散歩したときに、この街のことを多少は知ることができたからだ。星屑の街に関して、輪郭だけだった知識に皮と肉がついて、それが今ようやく形になっている。
 この街では、子供が大人の代わりをする。何もそれは仕事の面だけではない。カトルくんやエッセルさんがそうしているように、彼らに年の近い年長者が自然とこの街に欠けている大人の役割を担っている。門番の子や、一人屋根の修理をしていた男の子、サーシャちゃんを畑に連れ出してくれた、ミリアちゃんのように。
 彼らは子供でいられる時期が、極端に短いのだ。
 どうしようもないことなのかもしれないし、無関係の私がそのことに心を痛めたり、変に賞賛したりするのは、ここにいる子たちにとっては侮辱にすらなり得るのかもしれない。所詮余所者だと言われたら、私には返す言葉もない。
 烏滸がましいと自分でも分かっている。それでも何か私にもできることはないだろうかと考えてしまうのだ。恋人であるカトルくんのためにというよりも、子供たちのために。
 カップに添えていた指先に自然と力が籠もる。「あの」と口にしかけた言葉は、しかしエッセルさんがカップをテーブルに置いた音にかき消された。



「……カトルは、どうかな。昨日は、迷惑をかけられてはいないって言ってたけど」

「えっ?」



 思いも寄らぬ問いかけに、目を瞬かせる。エッセルさんの瞳はいつも真っ直ぐで、私は彼女と向き合う度に、無意識に居住まいを正している。直前に口にしかけた言葉はそれだけで頭から飛んでしまった。



「あの子、ちょっと短気なところがあるし、一度心を許した相手には何でもはっきり言うから……が嫌な思いをしているなら、教えてほしい」

「そ、そんな、そんな。大丈夫です、だってカトルくん、すごく優しいんですよ! 私が風邪をひいたときは看病してくれましたし、カトルくんの方が疲れてるのに、私のお仕事手伝ってくれたりしますし……」



 慌てて口にしてしまったけれど、カトルくんの良いところって、実際いっぱいあるのだ。手があったかいところ、私の作ったクッキーを喜んでくれるところ、どんなときでも真っ直ぐ立っているところ、困ったみたいな笑顔が、きれいなところ。そういうのを全て口にしようとして、だけど、直前で物凄く恥ずかしくなった。赤の他人ならば兎も角、彼の身内であるエッセルさんにこんな話をしては、カトルくんだって気恥ずかしいかもしれないと思ってしまって。



「あとお食事に行くと、自分の分のデザートもくれるんです!」



 ぱっと思いついたことをそのまま口にした私に、エッセルさんは一瞬だけ目を丸くした後、浅く俯く。どうしたんだろうと彼女の表情を探るように窺えば、エッセルさんは、静かに笑っていたのだった。



「……ふ、デザート」



 その睫毛の微かな震えを見つめながら、私はぽかんと口を開けてしまう。
 肩を震わせて笑うエッセルさんの姿を、私は初めて見た。付き合いはまだ浅いけれど、それでも彼女は、カトルくんと比べればずっと感情表現が控えめな人だと思っていたから。
 いつの間にか握りしめていた拳を解いて腿の上に乗せて、じわじわと滲み出る羞恥に顔が熱くなるのを自覚する。笑ってもらえたことに、安堵と喜びもあったけれど。でも、本当にデザート、くれるんです。お土産も。これ以上太らないでほしいですけどって一言も添えて。そういうところは、エッセルさんの言う通り少し意地悪なのかもしれないけど。



「……ん、そう、だね。それは優しいかもしれないね」

「そ、そうなんです……だから本当にエッセルさんが心配するようなことなんて、何も」

「うん、そうみたいだね。良かった」



 両手で顔を隠したいのをぐっと堪えている私の名前を、エッセルさんは不意に呼んだ。「」って。エッセルさんの私を呼ぶ声は、少し低くて、穏やかで心地良い。子供たちが、エッセルさんを慕うのも分かる。この人はとても温かい。
 両手をテーブルの上に置いて、小さく首を傾げるその仕草がカトルくんにそっくりだった。拳一つ分開けた窓の隙間から風が吹いて、カーテンを膨らませる。緩やかなドレープが、エッセルさんの背の向こうで陰影を作る。



があの子の傍にいてくれて良かった」



 明滅する光が見えた。それはエッセルさん自身をも輝かせていた。きらきら、ぱちぱち、柔らかな瞬きは気泡が弾ける瞬間のようにも見えた。
 たったそれだけのことで、どうして私はこんなにも胸を打たれているのだろう。
 言葉にしたいことはたくさんあったはずなのに、震える喉は何の声も作ってはくれなかった。目を合わせていられなくて、とうとう視線を落とす。テーブルに描かれた消えない絵の一つ一つを前に、私はもう息もまともにできはしない。
 そのとき玄関の扉が開いて、カトルくんたちが帰ってきた。それがもう少し遅ければ、私はエッセルさんの前で本格的に泣きだしていたのかもしれなかった。