騎空艇の駆動音ではなく、鳥の鳴く音が聞こえる。カーテンの合わせ目から漏れる光の筋を、まだ覚醒しきらない頭でぼんやりと眺める。
なんだかとてつもなく眠い。朝すっきりと目が覚めないということはそうそうないんだけど、今日はどうもその「そうそうない日」らしい。
コルワさんは、今日は依頼はないんだったっけ。私も今朝は仕込みの当番じゃなかったはずだ。もうちょっと眠っていたい気がするのは、何だか身体が重たいからだ。疲労でずっしりとした手足に、昨日自分が何をしていたかを思い起こそうと努力するけれど、いくら重ねても滑り落ちていくような思考ではなかなか答えに辿り着けなかった。だけど、抱き枕のように抱きしめた毛布の香りの馴染みのなさに、私は唐突に思い出してしまう。
はっと目を見開いたとき、隣のベッドで寝息を立てているルリアちゃんの長く青い髪と、ほっそりとした肢体が目に入った。見慣れない木目の壁、天板の微かにたわんだ飾り棚の上には、この街の子供たちが作ったのだろう小物が幾つも並んでいる。
身体を起こして木枠でできた窓のカーテンをそっと開ける。透き通るような晴天の下、少しくすんだ色の屋根が並ぶここは、カトルくんが育った星屑の街だった。
階段を降りて昨日の居間に向かえば、奥のキッチンに人の気配があった。グランくんとビィくんがベッド代わりにしていたと思われるソファは空っぽだ。もしかしたら二人は外に出ているのかもしれない。グランくんは良く早朝に武器の訓練をしているから。
ソファを横切って、キッチンへ向かう。卵の焼ける良い香りと、ぱちぱちという音に、胸が締め付けられるような思いになる。この家の雰囲気がそうさせるのだろうか。星占いも、お兄ちゃんのあくびも、お母さんの急かす声も、ここにはないのに。
「お、おはようございます……」
鼻の奥に生じた痛みを振り払うように、そうっとキッチンの中を覗き込みながら声をかける。案の定そこにはエッセルさんの後ろ姿があった。緩く編まれた長い髪は薄い桃色をしていて、キッチンの窓から差し込む光に、白んで見えた。カトルくんのものよりも少しだけボリュームのある耳はふわふわと柔軟に動く。それが背後の私側に角度を変えた後、エッセルさんはフライパンと菜箸を持ったまま、ゆっくりこちらに目線を寄越す。
「おはよう、」
エッセルさんの輪郭は光に溶けるように滲んでいたのに、その瞳は印象的な色を放っていた。見ていると取り込まれそうなほどの強さを彼女は持っている。カトルくんのように。
つい見惚れてしまってキッチンの入り口で立ち尽くしていた私に、エッセルさんは不思議そうに小首を傾げた。
「随分早いんだね。もう少しゆっくりしていても良いのに」
「あ、あの私、元々これくらいの時間に起きるんです。グランサイファーでも、食堂のお手伝いをしているので。……その、何か手伝えることはありますか?」
「そっか。……でも、お客さんなんだから、手伝いは大丈夫だよ。ついさっきカトルたちが家の裏で訓練をするって出て行ったから、も……」
言葉の途中で、だけどエッセルさんは考えるように視線を落とす。ほんの数秒の沈黙だったけれど、私にはそれが永遠のように感じられた。
火を止めて、菜箸をボウル型のお皿の上に置く。からんという音が、やけにはっきりと狭いキッチンに響いた。戸棚の中には大小様々な食器があって、私はそれを、どうしてか追い詰められたような気持ちになりながら眺めている。カトルくんの吐き出した「あなたはこれからもそういう顔をしていてください」が、こんなときなのにどうしてか蘇る。
カトルくんとそっくりの、涼しげな目で真っ直ぐ見つめられて、心臓が跳ねた。
「……やっぱり、少し話そうか」
エッセルさんの抑揚の薄い声音に、私はどうしようもなく緊張している。
つい先日、星屑の街の西側に住む子供たちが数名、意識を失った。
幸い発見が早く全員が一命を取り留めたけれど、譫妄や譫言といった症状から見て彼らが何らかの薬物を摂取したことは明白だった。姉さんは彼らから慎重に話を聞き出して、街の外のマフィアが関わっていることを知る。禁薬「ヘヴン」。マフィアの収入源となっている、依存性の高い薬だ。それが星屑の街に流れ込んでいるらしい。
最悪だ。ぼくが星屑の街を出ている間に、マフィアの連中が幅を利かせ、増長しようとしている。星屑の街を飲み込もうとしている。
運ばれた子供たちのうち一人は、未だ後遺症が残っているらしい。
ぼくに力がないせいで。
「苦虫を噛み潰したような顔だね」
弾き飛ばされた短剣の行く先を視界の端で追うぼくの耳元で、グランさんが囁くように呟いた。
グランさんが早朝の訓練を日課にしていることを知っていたから、ぼくは彼が家を出るその背に声をかけた。昨夜姉さんの話を聞いた後では上手く寝付けず、体調は万全とは言い難かったけれど「久しぶりに、どうですか? 」と尋ねたぼくに、彼は思案気に瞳を瞬かせてから、頷いてくれたのだった。
感情に任せて振るう刃が彼に通じないことなど端から分かりきっていたのに、ぼくは同じ轍を踏んでいる。単調な動きになりがちなせいで、攻撃が防がれる。目線で動きを誘導して裏をかいても読まれてしまう。冷静になれない頭では、グランさんには敵わない。
「……おかげさまで」
グランさんは、相変わらず強い。
短剣だけでなく他の武器も器用に扱ってみせるのだから、天賦の才と言わず何と言おう。「あなたは、相変わらず強いですね」と呟けば、思いのほか声が掠れてしまってみっともなく響いた。笑みを浮かべるグランさんに、違うな、と思う。ぼくとは違う。何もかもが。
彼とぼくの間にある差を目の当たりにする度、ぼくは焼け付くような感覚を覚えて、息ができなくなる。一度は忘れかけていた飢えが、ぼくを頭から飲み込むようで。ぼくは分厚い可塑性の膜の内側で、どうにもならず藻掻いている。
「おいおい、なっさけねぇなぁカトル。今日は一本もグランから取れねぇじゃねぇか」
「集中できない日って誰にでもあるよ、ね、カトル」
「……そうですね」
何もかも見透かすような瞳に、今はどうしても腹が立つ。
ぼくがグランサイファーに侵入した夜から長い月日が流れて、ぼくとグランさんの差は縮まるどころか広がる一方であるように思える。焦燥感に苛まれなかったはずがない。それでもここにいれば強くなれるのではないかと思っていた。星屑の街の皆のために。
だけどそのために傷つく子供たちがいるのなら、ぼくの選んだ道は正しくはなかった。
「そろそろ朝飯ができてるころじゃねえか? 戻ろうぜ、オイラ、腹ぺこになっちまった」
「そうだね。カトルも戻ろう」
二人の言葉に曖昧に頷く。得体の知れない大きな影が背後に迫っているような息苦しさを覚えている。
ビィさんが休んでいた木陰を作っていたその木の幹には、幼いぼくが突き立てたナイフの傷が、今もまだ深々と残っている。