この季節は、昼と比べれば空気が冷たい。何かを思い出したように一度家の中に戻ったカトルくんを待っていたけれど、程なくして彼が戻って来たときその手には女性物と思われる大判のストールがあって、あ、と思うよりも先に肩にかけられる。「うわあ、あったかい」と思わず口にすれば、カトルくんはちょっと困ったようにも見える顔で笑った。エッセルさんのものを借りてきたのかな、首に巻けば、先の石鹸のような香りがふんわりと残っているような気がした。
 しんと静まりかえった星屑の街は家々から点々と灯りが漏れるだけで、今まで訪れた他の街のような賑やかさはない。少し歩いた先の家から、甲高い笑い声と、眠る時間だと叱るような声が聞こえた。この星屑の街では子供同士が身を寄せ合って生きているのだと、その声で改めて実感する。子供のいる家庭ならどこにでもあるようなやりとりであっても、星屑の街においては叱る側の人間もまた子供なのだった。



「年長者と年少者で構成されたグループがいくつかあって、そのグループ毎に一つの家に住んでいるんです」

「喧嘩……とかにはならないんですか?」

「そうですね。何か困ったことや揉め事があれば、逐一ぼくか姉さんに相談する決まりで」



 ぽつぽつと語りかけるカトルくんの声音は、二人分の足音に埋もれてしまうほどに柔らかい。相槌を打ちながら彼の話を聞く。元々ここはただの貧民街だったこと。自分たちの命を守るために色んなものを犠牲にしているうちに、随分と生きやすくなったこと。似たような境遇の子供たち見捨てておけなかったこと。その口調は淡々としていて、余計な感情をわざと削ぎ落としているようにも思えた。だけどそれを指摘することは、私にはできなかった。
 昼に私がつんのめってビィくんに笑われた階段の上で、カトルくんは足を止める。



「……今日はありがとうございました。子供たちと遊んでもらって。特にサーシャがまとわりついて、申し訳なかったです」

「え、いや、そんな、絵本を一緒に読んだだけで。それに、サーシャちゃん、とっても素直で良い子だし」



 むしろ、知らないお話がいっぱい読めて楽しかったです。そんな風に続ければ、カトルくんは小さく笑った。



「皆、喜んでいました」



 そう言いながら、カトルくんは私と繋いだ手を握り直す。指と指とを絡められて思わず目を見開いてしまった。夜道で良かった。こんなことで今更照れているなんて知られたら、きっと笑われてしまう。
 だけど、続けられたカトルくんの声は低く掠れていた。



「この街の子供たちは、彼らと同年代の子供ならば本来しなくても良いはずの苦労や辛い思いをしていますから」



 階段の上と言っても、街を見下ろすには至らない高さのものだった。星明かりに照らされるばかりで街灯のほとんどない街は、虫の鳴く音すらも鮮明に耳に届く。



「本当なら関わる必要もない汚いものにまで、触れなくてはならないときがある」

「私なんかと遊ぶことで喜んでもらえるなら、私、明日も子供たちと遊びます」



 思いつきを口にしてしまった瞬間、直前のカトルくんの言葉と全く噛み合っていなかったことに気がついたけれど、カトルくんは僅かに目を見開くだけだった。
 薄い闇の中で、その面立ちが鮮明に網膜に焼き付いたのは、この暗さに目が慣れてしまったせいだろう。だったらカトルくんは、もっと私の顔が良く見えているに違いない。時間差で襲ってくる羞恥心に顔が熱くなるのを自覚して目線を落とした。無意識に作っていた握りこぶしをゆるゆると解く私の隣で、だけど、彼は笑った。



「…………あなたのその分け隔て無いところ、ぼくは好きですよ」

「へ? すっ?」



 カトルくんの顔を見上げる。長い睫毛が瞬きと同時に揺らいで、そこに光の粒があるみたいに見えた。雨露を乗せた夏の葉。カトルくんはそういうイメージがある。だからこうして私はいつまでも惹かれている。吸い寄せられている。
 あまり目線の高さが変わらないカトルくんは、私の思いに応えるみたいにじっと私を見つめていた。繋がれていない方の手が頬に触れる。あ、キスされる、直感で思う。今、唇が乾燥しているのに。だけど拒絶する気なんか、最初からない。
 睫毛が触れ合う距離に近づいて、心臓が酷い音を立てていて、それは全部カトルくんに伝わっているのかもしれなくて。こんなときなのに、カトルくんの肩の向こうにある夜空がきれいだと思った。小さな星が数え切れないほど瞬いていた。それは俯いて歩いているだけじゃ見えなかったもので、私は、わ、と思う。黒く塗りたくられたような雲一つない夜空に燦然と光り輝くあの夥しい数の星々が、今にも落ちてきそうな錯覚を覚えた。髪をかけていたせいで露わになっていた耳が、きんと痛む。
 星がきれいだよ、カトルくん、そう言いかけた私の唇を、彼は塞ぐ。私のものと負けず劣らずカサついていた。触れるだけの、本当に細やかなキスだった。
 離れていく熱にそっと目を開ける。
 すごくきれい、そう、星が。そう言いたくてもカトルくんの顔を見てしまえば顔が熱くて、喉に力が入らない。ふ、と笑ったカトルくんは、だけど私をバカにするような意図はちっともなかったのだろう。頬を挟み込まれる。視界が僅かに歪む。だけど、本当にそれだけのせいだったんだろうか。「あなたは」吐き出された声が、いつまでもこびりついている。私を形成するための核を守る壁の一部になる。



「あなたはこれからもそういう顔をしていてください、さん」



 今日一日、私がいつもと違う心境でいたことを見抜いての言葉だったって言うんだったら、私はきっと一生彼には敵わない。
 







 さんを客室に送り届けてからストールの礼を言うため再び階段を降りれば、姉さんは奥にあるキッチンで食器を片付けていたところだった。物に比べて狭いから、ここはいつ見てもごちゃついている。居間の方でグランさんたちがまだお茶を飲んでいたのを思い出して、声のトーンを抑えて「さっきはありがとう」と口にすれば、驚く素振り一つせず「ん、おかえりカトル」と抑揚の乏しい声音で返された。



「ストール、助かった。元のところに片付けておいたから」

「……が寒くなかったなら良かった。子供たちもそうだけど、私たちエルーンが特別寒くなくても、ヒューマンはそうじゃないってときは多いものね」



 さんについて人と話すこと自体珍しいことでもないけれど、その相手が姉さんというのは未だ慣れない。拭いきれない気恥ずかしさに小さく咳払いをして誤魔化した。
 グランさんたちと一緒にやって来たのだから当然と言えば当然だけど、一緒にいるにもかかわらずさんとはまともに話ができていなかったから、ああして付き合ってもらえて良かった。子供たちと遊んでくれたことに対するお礼は、やっぱり二人のときに伝えたかったから。
 本当にそれだけか? と胸の奥で誰かが囁いたのに、目を逸らす。
 膝の上に子供を座らせて絵本を読むさんは、随分と子供の扱いに慣れているように見えた。彼女に弟妹がいたとは聞いたことはないから、老若男女、様々な種族が集まるグランサイファーの一員として過ごした時間が長いせいだろうか。
 さんの絵本を読む声は、柔らかくて、優しい。手を繋がれて、日向に連れて行ってもらえるような気持ちになる。膝の上にいたサーシャもそうだったのかもしれない。ぼくたちの末っ子は、さんに抱かれたまま眠りについてしまったから。
 さんは天真爛漫で朗らかで、人を疑うことをしない。変なところで度胸があって、人見知りもしない。彼女の姿を見ていると、硬くなった芯の部分にぬるま湯をかけられて、外側から解されていくような気持ちになる。今だってそうだ。
 だからぼくは腑抜けてしまっていたのだ。



「……あのね、カトル、私も話があるんだ」



 普段よりも低く囁くような声で、姉さんはぽつりと漏らす。
 その瞳の奥にある鈍い光は、あの子が持っているものとまるで違う。