この訪問自体突然決まったことだったから連絡も入れられなかったと口にしたカトルくんは、エッセルさんの前ではまたいつもと雰囲気が違うように見えたけれど、どうだろう。私の目が、彼をそういうふうに捉えようとしているだけなのかもしれない。
エッセルさんは想定外の来訪にも特別動じた様子もなく、私たちを出迎えてくれた。エッセルさんと前回初めて会ってからそう月日が流れていたわけではなかったけれど、カトルくんのお姉さんだと思うとどうしても緊張してしまう。
「エッセルさん、あの、ご無沙汰しています」
「ん、もいらっしゃい。カトルが迷惑かけてない?」
「い、いえ! 全然! 私の方が迷惑をかける側なので……」
「……ふふ、そうなんだ」
浅春のさなかに一人佇むような人だ。エッセルさんの微笑は、水たまりにできた薄い氷を思い起こさせる。「どうぞ」と案内され、どきどきしながらエッセルさんの真横を通ると、仄かな石鹸の匂いがした。
「団長さんに突然街を案内してほしいと頼まれたんだ」
「別に気にしないよ。驚きはしたけど」
「ごめんねカトル。頼みを聞いてくれてありがとう。エッセルも」
「ありがとうございまーす!」
グランくんに続けてお礼を言うルリアちゃんに毒気を抜かれたような表情を浮かべたカトルくんは、それから小さくため息を吐いた。
エッセルさんとカトルくんの家は星屑の街の中心の、なだらかな坂の上にあったけれど、特別他の家より大きいわけではない。ただ一階の壁がほとんど取り壊されていて、居間にあたる部分はやけに広々としていた。いつでも子供たちと食事を摂れることができるように、らしい。「結構広いじゃねえか!」と屈託無く口にするビィくんに、エッセルさんはやや後悔しているような口調で呟いた。
「ん。でも、冬は寒いんだ」
「それでも夏は空気の通りが良くて快適じゃないか」
肩を竦めてみせるカトルくんは、どこか呆れているようにも見える。このやりとりは、もしかしたらもう彼らの間で幾度となく繰り返されているものなのかもしれない。そう思うと微笑ましかった。
「ねぇカトル、あそぼう?」
カトルくんの帰りを喜ぶ幼いエルーンの子供が彼に纏わり付いても、カトルくんは無下に扱ったりはしないけれど、空気を読んだのだろう。幾分大人びた女の子が「ねえサーシャ、畑に一緒に行こう。お手伝いしてくれる?」と小さな子を上手く誘いだした。
「ありがとう、ミリア。じゃあ、ミリアとサーシャが畑から戻ってきたら遊ぼうか」
二人に優しく声をかけるカトルくんは、やっぱり私の良く知る彼と違うように見えた。それでも、テーブル越しにカトルくんと目が合ったとき、彼はちょっと眉を寄せて「なんですか」とでも言いたげな、いつもの温度の瞳で見つめ返してくれるから、どんな顔をしたら良いのか分からなくなるのだ。
目線のやり場に困って、そっと視線を落とした。手作りと思しき一枚板のダイニングテーブルは大きくて、ところどころに落書きがしてある。猫とか、鳥とか、リボンとか。それが可愛くて指先でなぞった。私も小さいとき、木製のテーブルに油性ペンで落書きしたっけ。トマトに顔を描いて、身体を足して、つなぎのズボンを穿かせた。お兄ちゃんにセンスがないって笑われたけれど、お父さんは発想が良いって褒めてくれたのだ。
柱の傷も、本棚に並んだ背表紙がボロボロになった絵本も、どこか懐かしい空気のにおいも、何もかもが郷愁を誘う。そういう薄れかけていた記憶を呼び起こさせるような、素朴な雰囲気のある家だった。
ここにある全てがカトルくんを形成するものだ。
カトルくんとエッセルさん、それからグランくんにルリアちゃん、ビィくんと、私だけが囲むには広すぎるテーブルの上に、何か得体の知れない巨大な穴が穿たれているような気になったけれど、きっと気のせいだ。だってこの部屋は、こんなにも温かい。
「さん、ちょっと良いですか?」
エッセルさんとカトルくんの家の二階には一つだけ客間があって、私とルリアちゃんはそこに泊まらせてもらうことになった。カトルくんに廊下から声をかけられたのは、部屋に案内されてからそう時間も経っていなかったときだ。眠るにはまだ早い時間だからとルリアちゃんとベッドに座っておしゃべりをしていたから、控えめなノック音の後に名前を呼ばれて驚いた。それまでお夕飯が美味しかったね、明日畑も見せてもらえたら良いね、なんて暢気な会話をしていたからこそ、余計に。
カトルくんははじめ自分の部屋にあるベッドをグランくんに使わせて、カトルくん自身は一階のソファで眠るつもりだったようだ。けれどそれをグランくんは良しとせず、結局グランくんとビィくんが下のソファを使うことになっていた。
「カトルさん、さんに何かお話でもあるんですかね? 私のことは気にせず、どうぞ行ってきてください」
「……うん、じゃあ、ちょっとだけ。ありがとうルリアちゃん」
屈託無く笑うルリアちゃんにお礼を言いながら立ち上がる。良く見ると継ぎ接ぎの施されたベッドシーツには私の体重分の窪みが消えずに残っていて、まるで今こうして歩いている自分の方が、本体から抜け出た何かであるように思えた。どきどきしている。他の皆と違って長期の依頼に出ることのない私はグランサイファー以外の場所で夜を迎えるということがあの一時的な退団時期をおいて他になくて、見慣れない床板を視界に入れるだけでどこか落ち着かない気持ちになっていた。カトルくんとエッセルさんのおうちだから、っていうのが、一番大きな理由であるように思えていたけれど。
部屋の扉を開ける。自然と息ができなくなる。室内よりも幾分か暗い廊下に立っていたカトルくんは、私よりも先に中に居るルリアちゃんに「すみませんルリアさん。さんをお借りします」と断ってから、私の手首を軽く引いた。
わ、と声が漏れそうになる。ぎゅ、と微かに力の込められた指先から熱が伝わって、それが身体の端っこにまでぐんぐん伝わっていくみたいに思えた。引きずられるように部屋を出る。きちんと扉を閉めることができなかったけれど、慣性にでも従うみたいに、私の背の方でかちゃりと音がした。
わ、わ、わ。
あっという間に頬に熱が籠もっていく。だけどその温もりはいつもと変わらず優しくて、知らないうちに強張っていた筋肉がゆるゆると解けていくみたいで、心地良い。
「夜風にでも当たりませんか。今日はあまり、二人でお話もしてませんし」
「は、はい、お散歩、好きです」
「知ってます」
カトルくんに続いて階段を降りるとき、彼は私の手首からぱっとその手を離した。一階にはグランくんやビィくん、もしかしたらエッセルさんもまだいるかもしれなくて、だからだろうかなんて、芽生えた寂しさを、理由をつけて埋めようとしたけれど、違った。カトルくんはすぐに私の手を繋ぎ直してくれたのだった。俗に言う恋人繋ぎとかではなかったけれど、それでも卒倒しそうになった。
私が両端を持って勝手に張り詰めさせていた糸をたゆませるように、カトルくんは私の手の甲を撫でてくれる。顔をあげてカトルくんの後ろ頭を見れば、不器用な私には到底できそうにない結い上げられた髪があった。頭のてっぺんで揺れる耳は相変わらずコンタのそれに良く似ているのに、今はそこに手を伸ばすよりも、ずっとこうして手を繋いでいたいと思ってしまう。
グランくんたちもエッセルさんも、まだ先ほどの居間で話し込んでいた。気恥ずかしさから手を離そうとしたけれど、ぎゅ、と力を込められて拒まれる。
「姉さん、少しさんと外に行って来る」
「え? ……そう、わかった。気をつけてね」
「いってらっしゃい、カトル、」
「い、いってきます」
「夜道ですっ転ぶなよなぁ!」
さすがに大丈夫だよ、とビィくんに反論したけれど、「昼間に街中の階段で足引っかけてたのは誰だよ」と呆れられては、返す言葉もなかった。
グランくんたちの向かいに座ったエッセルさんは、穏やかな微笑を浮かべたままだった。