記憶喪失らしいと、森で出会った少女は言った。不明瞭な発音の短い音をいくつか吐きだしたのちの、震えるか細い声で。
 島の名前に首を傾げ、騎空艇を見て狼狽し、実際にグランサイファーが空を飛んだときはほとんど腰を抜かしてルリアに支えられ、書物の類は一切読めず、魔物を見ては卒倒し、コルワの耳に触れては感極まったように震える彼女の表情は、いつも新鮮な驚きに満ちていた。なるほどは自称したとおり、自分の名前を覚えているだけで、他は一切の記憶を持っていないらしい。
 ほとんど僕と年の変わらないように見える彼女には、きっと家族だっているだろう。ご両親も心配しているだろうし、何か思い出したことがあれば言ってほしいと口にした僕に、しかしは困ったように口を噤んだ。追い出されるかもしれないと思ったのだろうかと気づいて、「そういうわけではないんだ」と慌てて言葉を付け足す。
 僕としては、例え彼女が非戦闘員であろうと、彼女曰く「何の役にも立たない存在」であろうと、全く関係がなかった。グランサイファーは部屋が有り余っているし、女の子が一人増えたところで食糧不足に陥るような経済難ではない。僕自身、記憶喪失で全く頼りにするあてがない彼女を放っておけるような人間ではなかった。ただ、騎空団として活動する僕たちに付き合う以上、もしかしたら危険な目に遭うこともあるかもしれない。それだけを了承してもらえるだろうか、そう尋ねた僕に、は小さく頷いた。それが今から、半年ほど前のことになる。
 彼女はこの半年の間で、随分と逞しくなった。
 戦えるようになったということではない。少しずつ、周囲のものを吸収していく力、にはそれがあった。読めなかった字を唸りながら解読し、種族の見分け方を覚えた(驚くべきことに、彼女はそんなことすらも忘れてしまっていたのだ)。ローアインの料理の下拵えを手伝い、簡単な依頼の事務的な作業を学び、貯めた給金で財布を買った。赤い、しっかりとした作りのものだった。彼女はそこに大切なものをいれておくのだと目を細めた。僕もビィも、きっとルリアも、それが一体何なのかを知らない。
 いい子なのだ。笑顔を絶やさず、向学心があって、偏見を持たない。僕は彼女のことが、人として好きだ。
 とは言え、彼女に関して困っていることが一つだけある。記憶喪失のせいなのか、はたまた彼女が元来持つ性質のせいなのか、僕は何となく後者ではないかと踏んでいるのだけれど、はどうも警戒心というものが薄い。興味をそそられるものがあればふらふらと離れて行ってしまうし、おかげで迷子になったことだって一度や二度では利かない。迷子札でもつけておいた方がいいんじゃねえのか?なんていうビィの嫌味とも取れる発言に、彼女は何が面白いのか、声をあげて笑った。
 だけど、僕はそんな彼女も好きだったのだ。困ってはいたけれど、それでも自由に生きているように見える彼女が好きだった。差別の一切をせず、何もかもを受け入れ知識として蓄え、否定することをしない、そんな彼女は、今のこの世の中では随分と珍しい存在に思えた。
 だから、彼女に付け入られる隙があって、そこを狙われたということを彼女が気にしているというのならば、僕は彼女に謝らなくてはいけない。



「……少しは落ち着いた?」



 グランサイファーの僕の自室で、は僕の淹れたお茶の入ったカップに手を添えたまま、目線をぼんやりとテーブルの上に落としている。
 ビィには悪いけれど、あいつはいらないことを言って彼女を追いつめかねないから、席を外してもらった。飾らないところはビィの美点ではあるけれど、今必要なものとは言い難い。
 には何か、誰にも打ち明けることのない秘密のようなものがあって、彼女はそれをいつも両腕で抱えて腹に抱いて守っていたのだけれど、今になって、それが僅かに露出しているように思う。その皮を剥いだのは、僕ではなく、あの十天衆の彼なのだろうけれど。だからこそ、慎重にならなければいけない。
 今思えば、がバッグを奪われたとき、それを取り戻した人物こそが彼だったのだろう。そして、犯人を殺したのも。あの時、彼女が自分が関わった人間が死んでしまったことにショックを受ける可能性を考慮して言葉を濁したのを、今更になって後悔する。問い詰めておくべきだった。そして、もう関わらせないでおくべきだった。そうすれば、少なくとも彼女を傷つけずに済んだ。



「美味しいお茶らしいよ。ローアインが見つけてきたんだ」

「……うん。いただきます」



 が久しぶりに発した声に、ほっとする。
 十天衆のカトルと名乗る少年がわざわざグランサイファーに乗り込んで僕に宣戦布告をしたのは、今から一時間ほど前のことだった。天星器である四天刃の所有者を殺して名を広めたいと言う彼の主張は理解し難いものがあったし、正直厄介事は御免だ。けれど、逃げたら仲間も殺す、と言われてしまえば仕方がないだろう。頷いた僕に、彼は立ち去るかと思った。彼が腕の立つ人物であろうとは言え、一応は敵地の真ん中だ。だと言うのに、悠々と彼は僕たちの前を横切って、甲板の奥に居た彼女に声をかけたのだ。



「え、なんだあいつら、知り合いか?」



 今しがた脅されたばかりのビィの声が震えていたのも無理はない。風下の二人の会話はここからでは聞き取れなかったけれど、カトルに何かを言われたが、呆然と彼を見つめていたその横顔だけは、やけに印象深かった。
 僕の予想が正しければ、この騎空艇の情報を彼に漏らしたのはだ。勿論意図的なものではない。警戒心の薄く、人を疑うことを知らないお人好しの彼女に、カトルが目をつけたのだ。だから、は言葉を失っている。傷つけられたような瞳をしている。
 何も言葉を発することのない彼女に、カトルは満足したのだろう。薄い微笑を携えたまま、彼は今度こそ騎空艇を降りて行った。甲板の手すりに足をかけ、騎空艇の壁を伝い、軽い身のこなしで停船場の地面に足を着く。ビィとルリアが口を開けてその後ろ姿を見送るのを横目に、僕はを見つめた。
 力なく両手をぶら下げただけのその姿は、取り残された子供同然に見えた。



「……」



 促されるままにカップのお茶に口をつけたは、感情を押し殺しているようにも、端から何も感じていないようにも思える。ただ、小さな声で「ほんとうだ、おいしい」と、呟いた。つられて口をつけたそれは、どことなくベリーのような風味がした。伏せられた睫毛は、乾いている。「……あの」と切り出したのは、彼女の方だった。



「ごめんなさい。……その、私のせいで、カトルくんの侵入を許してしまって……」

「いや。もしもが声をかけられていなかったとしても、きっと彼は僕の後を尾行するくらいはしたはずだ」



 だから、気にしないで。
 そう僕が口にした瞬間だった。
 カップから唇を離した彼女は、大粒の涙を零した。一度決壊した涙腺は、なかなか元には戻らないらしい。手の甲で拭っても拭っても落ちるその涙を、彼女はテーブルに置いた薄い青い色のハンカチで拭おうとは決してしなかった。



「あ。あれ、ごめ、あれ?」



 僕は、彼女の泣いている姿を、この時初めて見た。
 は感情表現の豊かな女の子だった。コルワの仕立てたワンピースを着てはしゃぎ、子供向けの絵本を読むことすらままならないと床を転がり、迷子になっては怒るビィに土下座せんばかりの勢いで謝罪する。彼女はいつも大きな口をあけて笑って、あまり速いとは言えない足で駆け、珍妙な料理を作り上げてはローアインにフォローされていた。いつだって泣かなかった。そんな彼女が、今、しゃくりあげて泣いている。
 明朗快活で、いい意味で鈍感で、何者をも受け入れる足りえているのは、その記憶に障害を持っているからだ。僕はそう思っていた。
 だけど、は突然大きく首を振った。何かを思い切った様子だった。「ごめん」と、彼女は言う。騙していてごめんなさいと、今から酷いことを言うけど、どうか許してほしいと。
 その濡れた手を掴んであげたかった。大丈夫だと言ってあげたかった。だけど、はきっと僕の言葉を必要とはしていない。



「――記憶喪失だなんて嘘なの」



 心の傷が目に見えていたならば、きっと手の施しようのない状態だったのだろう。



「私はこの世界で生まれた人間じゃない」「事故に遭ったの」「みんな死んでしまった」「心配してくれる家族なんて最初からもうどこにもいなくて」「私ももう身体が自由に動かせなくなった」「話すこともできなくて」「欲しいものなんて一つも手に入らなかった」「なにもかも奪われた」「あれが地獄だ」



 僕は彼女の言葉の羅列を、脳の中で並べて、整えて、噛み砕いていく。
 異世界と呼ばれるところから、何らかの事象により引きずり込まれる人と、僕は会ったことがある。一度だけでなく、何度か。だから、彼女の言わんとしていることは分かったし、比較的受け入れることは簡単にできたのだ。



「だから」



 だけど、とぎれとぎれに紡がれる言葉の最後に、紛らわすように呟かれた声が。



「だからわたしカトルくんになりたかった」



 絞り出すように吐き出されたその言葉が、僕には理解できなかった。








 翌日、は姿を消した。
 赤い財布と、コルワが作ったワンピースに、ボンボンのついたショルダーバッグ、ルリアと買った揃いの人形。その全てを持って、彼女は僕たちの前からいなくなった。



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