――奪われた。何もかもを奪われた。脚は正しく動かなかった。正月に会ったばかりの叔母が私に縋りついて泣く。「どうして」だなんて、そんなの、泣きたいのは私だ。私のはずだ。なのにどうして声が出ない。なぜこの手足は自由に動かせない。眼球だけを彷徨わせた。白髪交じりの叔母の頭に、私は母の頭蓋を思い出す。ちかりちかりと光が点滅する。車のヘッドライト、横腹に受けた衝撃、顔の上に落ちた兄の腕。喉の潰れた私。
 この心に浮かぶ感情の何もかもを殺して、私はいっそ白痴になりたい。――








 カトルくんの思惑というものを、私はそのときはじめて理解した。
 停泊した騎空艇の甲板に立つカトルくんは、自分が招かれざる者であると心得ているはずなのに、表情の一つ、指の一つをとっても、余裕があった。堂々としていた。例えここで囲まれても切り抜けられる自信が、きっと彼にはあったのだろう。



「十天衆の……カトルさん!?」



 ルリアちゃんが吐きだした言葉に、カトルくんは私に見せていたのと同じように、笑う。








 ――動かなくなるのならば、脚よりも喉よりも脳が良かった。心臓であってほしかった。私から奪ったものを残らず返して。それができないならばこの息の根を最後まで止めて。私だけが細い息を吐きだし続けることに一体なんの意味がある。
 葬儀は私の知らぬうちに終わっていた。叔母が家から持ってきてくれた六つ切りの写真は数年前兄の大学合格を祝って家族で撮ったものだった。これから毎年同じ時期に撮るのも素敵じゃない?と、母が言った言葉に当時の私は口を尖らせた。何故あそこまで頑なに拒否したのだろう。四人で写真を撮ったのは、あれが最後だ。――







 
 十天衆。ルリアちゃんが吐きだした聞きなれない単語を、口の中で反芻させる。誰かが食堂で話していたのを、耳にしたことがあるような気がする。だけど、正確には思い出せない。あの時も、今も、私は自分の身の回りのことを一つ一つ覚えていくことで精一杯だった。
 彼のことが分からなくて当然だ。だって彼は最初から、私に何も見せてはいなかったのだから。
 どうしてこの騎空艇に、と漏らしたビィくんに、彼は「案内をしていただいたんです」と微笑んでいる。私は利用されたのだ、グランくんの騎空艇に目星をつける、そのためだけに。今になってそう気が付いた。身体の先が冷たいのに、脳だけは酷く熱い。








 ――家族を失う事故なんて、世界中に溢れかえっている。ニュースでは毎日誰かが死んで、子供が親を、或いは親が子供を殺している。「うわ、こえー」なんて、他人事のようにぼやいた兄はもうこの世におらず、あの家ではもう星占いなんて流れない。興味がないふりをしながら、「いて座は?」なんて聞いてくる父は即死した。あの日私たちの乗る車に突っ込んできた信号無視の車を運転していた男は、酒を飲んでいたらしい。 ――








 カトルくんは滔々と話し続ける。二カ月前から、四天刃を手にしていたグランくんの動向を見守っていたこと。グランくんが持つあの武器は天星器と呼ばれていて、途轍もない力を秘めていること。「もしかして、すごく危険だから止めにきてくれたとか……?」ルリアちゃんの言葉に、彼はそれ自体には興味ないのだと首を振る。彼の瞳は、グランくんにしか向けられてはいない。
 一歩も動くことが出来なかった。まるで、バッグを奪われた日のようだった。思考はほとんど停止して、ただ砂の上から浮いた「特別」が彼のまわりを所在なく浮遊し続けている。どうかその二文字を折らないで、私の期待に応えて。だけど。



「名誉とかそういうのは興味ありません」



 この辺は治安がそんなに悪くはないと、私に話してくれたのと同じような声音で、彼は言った。



「ただ、ぼくの自己満足として、『天星器』と呼ばれる短剣とその使い手に勝ちたい」



 陽はとうに落ちた。騎空艇内から漏れる明かりの下で緩やかに口角をあげていたカトルくんは、私の知っている彼とはまるで違う。同じ声で、同じ口調で、けれどそこには確かに、怒りが見え隠れする。



「現代に蘇る『天星器』とその使い手を殺し、ぼく自身が真に最強であると確かめたいのです」



 知らず知らずのうちに握りしめたハンカチは、私の手の中でぐしゃぐしゃに潰れている。私に気が付いていないのか、視線の一つも向けないカトルくんのその顔は、ライトで白んで美しかった。その毛髪は変わらぬ色をしていた。
 奪われ続けるだけだったと、彼の目が言った。
 私のものとは違う、全てをねじ伏せる、力を持った目だった。
 私も力が欲しかった。







 
 ――奪われた。何もかもを奪われた。殺意だけで人が殺せるならば私はもうとっくにあいつと同じ穴の貉だ。この手足が自由に動かせるならば私はきっと果物ナイフを首に当てていた。「何か欲しいものはある?」叔母は毎日のように私の元を訪れる。母と同じ口の形をしているのに、声だけは全く似ていない。だから、良かった。幻を見なくて済んだ。ねえ叔母さん、私、花が見たいよ、動かせない手で、喋れない喉で、私は叔母にこの意志を伝えようと試みる。
 花屋で買う切り花じゃなくて、美しい花束ではなくて、うちのリビングから見えた、あの花が見たいのだと。
 私の知らないうちに、夏が終わろうとしていたらしい。だからもしもこの言葉が叔母に届いていたとしても、私の願いは叶わなかっただろう。
 花が見たいの。春に咲く花が見たい。庭に咲いていたあれが見たい。父と母と兄と最後に見たあの花が欲しい。
 あいつを殺したい。それができないのならば私が死にたい。本当のことを言うならば、あの春にかえりたい。それにくらべれば、なんて細やかで、かわいらしい願いだっただろう。だけど、それすらも叶わないのだ。
 ならばもういっそ、夢を見させてくれ。だってこの世界では、もう何も手に入らないじゃないか。――
 






 黙れよ、と低い声が響いた。カトルくんのものだった。迷惑だと言ったビィくんに向けて、彼は豹変してみせた。それまでの穏やかな微笑を消して、滑らかな抑揚の声音を殺した。



「逃げたらその時点で殺す。この騎空団の連中全員を殺す」



 絞り出すような、殺意の塊、それは彼がその薄い膜の下に隠し続けてきたものだったのだろう。
 ルリアちゃんとビィくんが明らかに狼狽して見せる。そんな二人をグランくんが腕を出して庇う。カトルくんは笑った。
 何の逡巡も、そこにはなかった。彼は本気だった。真っ直ぐにグランくんを見つめていた。震えも掠れもしない美しい声で、彼は「全員殺す」と言った。
 グランくんが逃げたら、彼は私を殺すらしい。



「――では、四天刃が覚醒したときに、またお目にかかりましょう」



 そう言いながら小さく会釈をして、彼はグラン君たちの元から去る。足音を響かせて、私の方まで歩いてきた彼は、私を見つめて微笑んだ。私がここにいることを知って、彼はグランくんと話をしていたのだ。握りしめて皺だらけになったハンカチを、彼は一瞥する。



「ああ、こんばんは」



 私の顔面が蒼白である理由を、カトルくんはどう捉えたのだろう。
 藤色の髪が目の前で揺れている。手を伸ばせば届く距離に彼はいる。あの春にかえりたい。いつかの願いがよみがえる。カトルくん。
 私はあなたになりたい。この手で何もかも奪い返せるほど、強いひとに。








 私は今自分の身の周りに起きていることを、もっというならば、この世界そのものを、現実だとは思っていない。
 知らない声に揺り起こされた。目を覚ました私を見下ろしていた少年と、空飛ぶトカゲ、悲鳴をあげて飛び起きた、私は知らない森の中で意識を失っていたらしい。
 あの瞬間から、私はこれが自分の身体でないことを知っている。だって私の喉は潰れていて、私の脚はリハビリなしに動くものではなかった。空飛ぶ巨大な船なんてありえない、魔法なんて昔兄がやっていたゲームの中でしか見たことがない。
 獣の耳をしたひと、角が生えたひと、小さな身体をしたひと、多種多様な種族が生きるこの世界は私の見る夢だ。夢の中にまで家族の写真を持ってくる私の執念は、泣けてくるほど恐ろしいけれど。
 事情も上手く話せずにいた私を受け入れてくれたグランくんには、感謝してもし足りない。私は彼の騎空艇に乗せてもらえることになった。世界中を旅する彼にくっついて、私は現実では動かせない足を自由に動かして、声の出ない喉で笑った。見知らぬ街を歩いた。話す言葉は理解できるのに、標識は読めなかった。顔見知りが増えた。どこにも父はいなかった。誰も母に似ていなかった。兄の声もしなかった。
 私の見る夢ならば、どこまでも私に優しくあるべきだ。なのにこの夢は甘くない。ビィくんは注意力の足りない私を叱るし、料理のセンスは現実同様欠片もない。私の望んだものがあるとするならば、自由になる身体くらいだ。
 優しくない夢は、けれどなかなか私を現実へ追いやりはしなかった。何度眠っても、目を覚ますのはグランサイファーの一室だ。私の存在を証明するように、部屋には小物が増えていく。街でルリアちゃんと一緒に買った木彫りの人形、シェロちゃんに安く譲ってもらった赤い財布に、コルワさんが作ってくれたワンピース、ボンボンのついたショルダーバッグ。「ちょはぁ、ちょい固めの目玉焼きがお好みっしょ?」なんてローアインさんが言うから、私は泣きたくなる。どちらが現実なのか分からなくなる。目を覚ましても誰もいないのならば、いっそもうこの世界に居続けたい。だってもう私はすべてを失った。
 そんな時に私は彼に出会った。
 どうして彼に惹かれたのか分からないと思ったことがある。その微笑か、穏やかな声音か、違うのだ、馬鹿だな私は、私ははじめから、それしか見ていなかった、彼の髪の色、あれが、あれこそが私の探していたものではないか、全てを諦めた私が欲しがったものではないか。
 最後に四人で見た春。戻ることが出来ないのならば切り取ってしまいたかった。
 藤の花。
 私は垂れ下がるあの薄い紫色の花弁が欲しかった。


 





 彼はきっと、ずっと私を軽蔑していたのだろう。細められた双眸の奥のその本心に、私はこのときはじめて触れた。



PREV - BACK - NEXT