夢ではないかと今でも思っている。
 私は病院のベッドで眠り続けているのではないか。目を覚ませば何もかもがなかったことになるのではないか。或いはそれすらも実際にはなく、この身体は今も自室の羽毛布団の中。母の準備した、固焼きの目玉焼き、星占いに一喜一憂する私を笑う父、食事が済めば、兄の部屋をノックして、調子の外れた自作の歌で起こす。鬱陶しがる寝起きの兄は、あの写真よりもずっと大人びて、何となく、うっすらと、私の知らない男のにおいがする。さいごは春でした。庭に咲いたあの花を、私が忘れられないように。
 何百何千と繰り返すうちに生じた、目に見えないくらいの愛すべき変化に、突然鋏が入ったのだとするならば、なぜそれが私たちでなければならなかったのだろうと、私は今でもおもうのだ。
 なぜ私たちでなければならなかったのだろう。なぜ私たちでなければならなかったのだろう。
 私はあの日常に戻ることができるなら、今この瞬間がすべて砂の上に描いた絵であってもいい。
 グランくんたちがわたしの見た夢であっても、良かったのだ。
 非情な女と罵られようと。








 明日この街を発つと言うのならば、彼らの騎空艇に忍び込むのは今夜しかない。
 そう言うと物騒に聞こえてしまうかもしれないが、別にぼくの目的のために、すぐさま彼を殺す意志はなかった。何せ、四天刃はまだ覚醒には至っていない。解放は最終段階に入っているようではあったけれど。ぼくの成すべきことは、ただの宣戦布告だ。その武器を無事に覚醒することができたなら、自分と戦ってほしいと伝える。その舞台を整えるためだけに、随分と回りくどい手段を用いてしまった気がする。
 昨日今日と彼女を騎空艇まで送り届けたときに観察したが、あれだけ巨大な艇を所有しているとは言え、団長は子供だ。いくら本人の腕が立とうと、穴は必ずどこかにあるだろう。忍び込むのは十八番だ。出来れば内情をもう少し探っておきたかったけれど、彼女はあの騎空士の話をほとんどしなかったから、その点に関しては期待外れだった。
 とは言え、彼らが所有する騎空艇を把握できたのだ。まあ及第点だろう。



「あの、ハンカチ洗っておきます」



 別れ際、彼女が小さな声で言ったけれど、ぼくはそれに首を振る。これがもしも、星屑の街に住むこどもたちがプレゼントしてくれたものだというのならば端から差し出さなかった。手渡した時点で、思い入れも何もないものなのだということは明白だろうに。そういうことにすらも、ぼくは指の端に出来たささくれを無理に引っ張られるような不快感を覚えるのだ。愚鈍な彼女は思いつきもしないだろうけれど。



「さしあげます」



 微笑んだぼくに彼女は困ったような目をして見せた。面倒だと思った。何よりも。



「え、でも……」

「どうしてもと言うなら、次に会ったときでいいですよ」

「え」

「いつかまたお会いするかもしれませんし」



 ぼくの言葉にぱっと目を見開く彼女の返事を待たず、「それでは」と会釈をして艇を離れた。何か言いかけたようだったけれど、聞こえないふりをしてその場を去る。
 これ以上ここに留まっていては、彼女の仲間の誰かに目をつけられたとしてもおかしくない。よろず屋から聞いていたとおり、あの少年はそれなりに有能な騎空士だ。彼女以外の彼の「仲間」は、そう簡単に隙を見せてはくれない。だから、あの時、人ごみに流されるだけで抗えもしなかった彼女に目をつけておけたのは幸運だった。
 ぼくは、強くあらなければならない。ぼくのために、姉のために、あの街に住まうこどもたちのために。そのために、あの四天刃を覚醒しようとしている彼をこの手で殺したい。最強はぼくだとこの世に知らしめたい。そうでなくては、ぼくの大切なものが全てこの手から零れ落ちてしまう。
 髪の先がちり、と音をたてたような気すらする。奪われるのは、許せない。ああ、そうだ許せないのだ。ぼくは、奪われることが、ぼく以外の人間が最強と言われることが許せない。だから、グランと言うあの少年を殺す。そのために彼女に近づいた。とぼけた面をした女から情報を抜きだすことなんて、無知なこどもを相手にするようなものだった。
 実際彼女は全くといっていいほど警戒心というものを持っていなかった。初対面同然のぼくの誘いにほいほいと着いてきて、誰が見たって怪しい路地を通ることも厭わない。鞄を盗られても呆然と突っ立っていただけ。挙句、大切なものが入っていたとかぬかしやがる。あの安堵したような笑顔。あれを思い出すだけで、ぼくは。
 ぼくは。
 すれ違った女性が、ぎょっとしたような目でぼくを見た。
 


「……ああ、だめだ」



 店の窓ガラスに映る己の顔が、酷く強張っていたことに気が付く。細く長い息を吐いてから、小さく首を振った。
 ぼくには家族がいる。たいせつな子どもたちだ。親がなく、頼る者もない。本来享受すべきものを何一つ持たずに生まれてきた彼らのその瞳が、愛されたことなんかただの一度もないのだと言った。ぼくはあの目を知っていた。十年も前のぼくたちも、あれと同じ目をしていたのだった。
 ぼくには同じ胎から産まれた姉がいて、姉にはぼくがいて、たったそれだけでもきっとぼくたちは幸運で、だから生きて来られた、守ってくれるひとがいなくても、汚れた手を拭ってくれるお互いがいたから。
 ぼくたちから何かを奪おうとする大人たちを殴って、殺して、逆に奪って生きてきた、そうすることでしか生きていけなかった、だから、ぼくは昔のぼくを守る。路傍で蹲る血だらけの子どもを、ものを盗んだところを見つかって殺されそうになっている子どもを、親に売られた子どもを、しあわせを知らぬ子どもを、そのすべてを。ぼくはぼくの家族にする。
 ぼくの家族を守るために、ぼくは戦わなくてはいけない。強くなるのだ。ぼくらを脅かす何者からも、なにひとつ奪われることがないように。
 だからぼくは彼を殺す。名の広く知れ渡った、伝説の武器を覚醒へと導いた騎空士を。
 そしたらぼくは今よりももっとずっと恐れられる。ぼくは何も奪われはしない。
 あの女は、きっと奪われる恐怖を知らないのだろうな。ぼくたちの焦がれたものを、すべてあの細い両腕で抱えているのだろう。そう思ったら、何だか笑えた。
 胸の痛みなんて、これまでの傷に比べれば、あってないようなものだった。







 

 甲板から眺める街並みが闇の中で輪郭を曖昧にしていく。よろず屋のあるあたりがあの辺だとするならば、人に流されて迷子になったのはきっとあのあたりで、カトルくんと初めて会ったのはきっとあそこだ。なんて考えながら、私はこの街での思い出を記憶に焼き付けていく。
 カトルくんとお茶を飲んだお店は、飲食店街だから陽が落ちた今でも煌々と灯りが灯されていて分かりやすい。今日散歩をした川はそこから随分南に向かったところで、居住区との境目になっていたらしい。川が美しかった。似たような建物が並ぶ、方向音痴にはやさしくない街だった。私たちは、明日この街を発つ。
 カトルくんから借りたハンカチを眺めながら、私は甲板の手すりに肘をつく。何の変哲もない薄い青のハンカチは丁寧な折り目が付いていて、気後れした。思ったほど自分がこの感情に折り合いを付けられていなかったことを自覚する。次に会う時まで返さなくてもいいと言われたことを、喜ぶべきなのか、否か。
 グランくんが、ビィくんやルリアちゃんを伴って甲板にやってきた。けれど彼らは少し離れた位置にいる私に気が付いた様子がなかったので、幸いにと気配を殺す。今は、誰かと話をする気にはなれなかった。ただ、一人で物思いにふけりたかった。別れることになる彼のことを、考えていたかった。
 だって私は、カトルくんのことを、最後まで何も理解できなかったのだ。
 美しい風貌をしたひとだった。切れ長の瞳をいつも同じ形に歪めて笑うひとだった。弧を描く唇のその角度も、首を傾げる仕草も、すべて型で抜いただけのように見えた。「へえ」と相槌を打つその双眸が、何かを見透かすように細められていた。穏やかな口調に、優しい声音、私にハンカチを差し出してくれたあの人が、悪い人だったとは思えない。そんなはずが、ない。



「本当にきれいな短剣ですよね」



 ルリアちゃんの声は、風に乗って私の元まで届く。グランくんたちは、少し前に手に入れた武器を眺めているらしかった。この街に寄ったのも、その武器に手を加えるためだったらしい。資金調達のために、いくつかの依頼も引き受けていたようだったけれど。
 依頼、と考えて、私は目線を動かす。飲食店街から伸びる細い路地は、ほとんど灯りがない。
 私のバッグを盗んだひったくり犯は、恐らくあの日、亡くなったのだろう。
 グランくんやビィくんの口ぶりから、それを推測するのは容易かった。ならば彼を殺したひとを、私は指摘することができるはずだ。だけど、どうしたってそれを認められない。あの時の悲鳴は私の聞き間違いではないと言い切れないと、脳内で誰かがこの背を摩る。そして、ならばもうそれでいいではないかと、自分自身が納得しようとしているのだ。
 だって、カトルくんは私にどこまでもやさしくしてくれたから。
 隣を歩いてくれたから。微笑んでくれたから。私の話を聞いてくれたから。グランくんたちにも言えなかった、家族の話を聞いて、彼は、仲が良いんですねと、言ってくれた。あの瞬間に私はもう彼の周囲に円を描いたのだ。特別と、砂に記したのだ。
 特別だ。彼はわたしの特別だ。価値あるひとだ。
 もしも彼の髪がもっと別の色をしていたら、或いは、私は、家族の話をしなかったのかもしれないけれど。
 瞬きをした瞬間、不意にフラッシュバックした映像に私は思わず口元を抑える。
 網膜に蘇る赤を藤の色で塗りつぶす。



「――いよいよ『覚醒』が近いようですね」



 そのときだった。
 グランサイファーの甲板の上、乗組員以外は誰も入り込むことのできないその場所に響いたのは、紛れもない、彼の声だった。
 私は振り返る。遠く、グランくんたちの目の前に、そのひとは確かにいる。


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