
そこに傷があるはずだと目を凝らしてみてようやく分かるくらいの、綻びとも言えない境目だ。コルワさんが直してくれたショルダーバッグを撫でながら、私は自室のベッドに腰掛ける。
まだこの街で受けた依頼がいくつか残っているらしいグランくんは、朝から何人かの団員に声をかけて騎空艇を降りて行った。食堂で朝ごはんを食べていた時に軽く手を振られたから、私はフォークを握っていない方の手で振りかえした。彼はそれだけで、何も言わなかった。彼と一緒に居たビィくんが「昨日の今日で、また変なところに行くんじゃねえぞ!」と、私に釘を刺して行ったけれど。
「……変なところ」
呟きながら、自ずと思い出されるのは、昨日ひったくりに遭ったあの路地だ。ベッドに仰向けに寝転がる。木目の曖昧な天井は、星に似た染みがある。
横になったまま、手さぐりで自分の腿のあたりにあるバッグの中身を探った。そこにある大きめの折り畳み財布は、グランくんたちと出会ってから買ったものだ。大仰なくらいしっかりした作りで、両手でやっと収まるほどの大きさの、赤い財布。お金と一緒に持ち歩きたいものがあると言ったら、よろず屋のシェロちゃんがこれを勧めてくれた。
中にあるものを確認する。小銭が少しと、一枚の写真。その写真は、天井にあるのと良く似た形の染みがあって、端の辺りが傷んでいる。椅子に座った私は今よりも幼い顔立ちで、見るからに機嫌が悪そうだ。その隣に立つ兄は固い表情をしているけれど、父と母の口元には穏やかな微笑が携えられていた。もう少し、笑っていればよかった。だけどこれが私に残された唯一のものだ。
だから、もしもあのときカトルくんが取り戻してくれていなかったらと思うと、ぞっとする。
ぞっとする、のだけれど。
同時にあのときのカトルくんの声が、微笑が、遠くで聞こえた悲鳴が、今でもこびりついて離れないのだ。彼はあのとき、あの角の先で一体何をしたのか、どうやって鞄を取り返してくれたのか。誰か、医者を。あの時の誰かの声は、一体何だったのか。
冷静に繋げれば、答えなんて自ずと見えてくるはずだ。言葉を濁したグランくんのあの双眸、ビィくんによるとあの路地で何かがあったらしい。答えなんて簡単だ。きっと私の導いた解答は、正しい。それでもそれを簡単に受け入れられないのは、カトルくんがそんなことをするような人に見えなかったからだ。
だって彼は優しい。
足を踏んでしまっても怒らなかった。鞄が開いていると教えてくれた。私のことを覚えていてくれた。お茶をごちそうしてくれた。私の大切なものを取り返してくれた。私の話を、ただ黙って聞いていてくれた。騎空艇まで送ってくれた。笑っていてくれた。
きれいな髪の色をしていたのだ。藤の色。今でも目に焼き付いている。私はあの髪が好きだ。
グランくんは、明日にはこの街を発つと言っていた。依頼も、用事も、全てが終わる予定だからと。私が彼に会える可能性が残されているとするならば、今日をおいて他にあるだろうか。
どれくらいそうしていただろう。やがて私は、ベッドから起きあがり、財布を鞄につめて部屋を出る。
廊下ですれ違ったラカムさんに、少し出かけてくると声をかけた。「一人で大丈夫か?」と心配そうに尋ねられたから、どうにか笑って、彼に頷いた。私はきっといつまでも、彼らに心配をかけてしまう。
今日も街は賑やかだった。
旅人に声をかける露天商、明るい笑い声、両親と両手を繋ぎ歩く小さな少女の後ろ姿。これだけ人が多いと、ぶつからないように歩くだけでも苦労する。これでカトルくんを見つけ出すことができるのだろうか。昨日の今日で、彼がこの街を発ったという可能性は低いだろうと見積もっても、確証はない。
肩から斜めにかけたバッグの胸元部分を掴む。会えなかったとしても、仕方がない。今度こそ散歩をすればいいだけの話だ。頭ではそう考えているはずなのに、身体は勝手に昨日のあの路地へと向かっていた。昨日は、ここにドラフの男性が立っていたはずだ。ビィくんの言葉を信じるならば彼こそが言葉巧みにこの路地へと誘導する役を果たしていたのだろう。だけど、今日はその姿はどこにも見当たらない。
路地の入口で立ち止まる。目線をやったその先は、その正体を知っているせいなのか、空気が淀んで見えた。一人で入る勇気なんか初めからなかった。だけど、私はほとんど前のめりになってしまっていたらしい。「行かない方がいいですよ」と声をかけられて、思わず身体が震えてしまった。
「あっ、いや、私は」
事情を知る街の人が注意してくれたのだと思った。そこは危険な道だと。けれど、振り向いた私は息を呑む。藤の髪、それだけで眩暈がした。鼻をついたその香りは幻か。目の奥でちかりと何かが光る。暗闇の中を、小さな灯りで照らされたような感覚だった。
目を見開いたまま固まる私に、彼は微笑を崩さない。
「またお会いしましたね」
カトルくんは、微かに首を傾げた。
「直したんですか? それ」
「あ、バッグですか? はい、仲間に直してもらえました」
「へぇ、それは良かったですね。……ところで、飾りも一つ増えてませんか?」
「あ、そうなんです、遊び心が追加されました」
「遊び心」
「らしいです」
歩きながら、会話が上手く続けられていることに安堵する。彼の方も心なしか昨日よりは口数が多い気がした。
時間があるなら散歩でもしませんか、と声をかけたのは、私だ。緊張で吐きそうだったし、本当は今でもちょっとお腹が痛い。ドキドキするとか、そう言った境地に達する以前の問題で、それでも取り繕って普段通りに振舞えるのは、最近身に着けたある種のスキルと言っていい。
しかし、私は彼を捜して一体何がしたかったのだろう。尋ねたかったのだろうか。あなたは昨日ひとを殺しましたか、と。けれどそんなことできるわけがない。大体、頷かれたらどうするのだ。泣くのか、詰るのか、私にそんなことをする権利があるとでも思っているのか。張り付けた笑みが、僅かに歪む。
整備された石の橋を渡る。覗き込んだ川は青く、淀みがない。水面が太陽の光を乱反射させるその煌めきに「きれい」と呟いたら、カトルくんはそのまま歩みを止めた。
「本当ですね」
そう頷くその横顔は、どこか幼さすら感じさせるから、どきりとしてしまう。エルーンであることを教える耳は頭上でぴんと立つ。切れ長の釣り目は涼しげで、鼻梁は美しい。薄い唇は、いつも穏やかな微笑の形に整えられていて、丁寧な言葉で、私に相槌を打ってくれる。そうやって彼を形成するひとつひとつを、頭の中で積んでいく。この中身のないブロックは、いつか意味を成すのか。
「あ、あそこの芝生、気持ちよさそう。堤防になってるんですね」
「行ってみますか?」
「ああ~、でも、今あそこに座ったらそのまま倒れ込んで寝ちゃうかもしれない」
「ふふ、寝られてしまったらさすがにぼくも困りますね」
堤防の上から川に向かって駆け下りる子供の姿が目にとまった。それだけで、不意に込みあげてくる何かがあることに気が付く。甲高い笑い声に、子を見つめる両親の暖かな眼差し。懐かしいと思う。反面、もうどうしようもないだろうと無機質な声がこの皮膚に爪を立てる。
どうしてだろう。今さら、何故ここで、こんな風に追いつめられているのだろう。泣いてはいけないと思えば思うほど、喉の奥が痛くなる。耳が鳴る。ちかりと光る。これは私の闇を照らす光ではない。ただの太陽の反射で、自然が作る美しい光で、ならば傷つく必要なんて一つもない。分かっているのに、抗えない。
空を仰いで、涙を呑みこむ。だから、上手く誤魔化せたと思っていたのに。
「どうぞ」
息をするような自然さで、カトルくんは私にハンカチを差し出した。
自分のバッグにも入っていた。だけど、私はそれを受け取る。指先が震える。涙なんかもう、とまっていたのだ。だって、私はもう、諦めていて、覚悟をしていて、そして、そんな私を受け入れてくれる仲間がいる。
だから足を折ってはいけない。そう決めていたから、強くあらねばと誓ったから、弱い自分は全て殺して生きてきた。そうでなくてはならないと思った。
受け取ったハンカチは行き場を失くしたまま、私はそれを両手で握りしめる。双眸は乾いた。なのにまだ、鼻の奥だけが擦ったように痛い。どうして、泣きたいとわかったんですか。それを吐きだすかわりに、私はただ一言、「明日の朝、この街を発つんです」と呟いた。
この街を発つのがつらいのだと、彼が勘違いするように。
カトルくんは僅かな、けれど確かに不自然な間をあけてから、「そうなんですか」と、毒にも薬にもならないような相槌を打つだけだった。
水面は尚も光を受けて輝いている。初めて無機物に焦がれた。私はあの水になりたい。