路地を抜けると、すぐに飲食店の立ち並ぶ賑やかな通りに出た。
 行き交う人の笑い声や、腰のあたりを駆け抜けていく子供のあどけない声に安堵する。たった一本道が違うだけでこんなにも雰囲気が変わるものなのかと、自分が今抜けてきた道を何の気なしに振り向いてみて、ぞっとした。前回迷子になった時に通った道よりも幅の広いはずのその路地に、通行人の一切が、不自然なほどに目を向けていなかったのだ。
 昼間だというのに、自分が今歩いてきた道が、じとりとぬめった闇が口を開けているだけの穴に見える。そこだけまるで、街から切り取られたような異質さを孕んでいた。自分があんな目に遭ったせいなのか、今の私はそれが何なのかを察することが出来る。人々が目を逸らす道。それが示唆することを、理解できないほど愚かではない。



「少しこのあたりで待っていてくれませんか」



 頷くのを躊躇いそうになったのは、先ほどの出来事が鮮烈であったせいだ。けれど、この通りは先ほどの路地と違って通行人が多い。デートをしているらしい、私とそう年の変わらない男女が横切っていくのを視界に入れながら、小さく頷いた。指先が、酷く冷たい気がした。
 空いているベンチに腰を下ろす。膝の上に置いたバッグを視界に入れておきたくなくて、目の前を歩く様々な種族のひとたちをぼんやりと眺めていると、何故か胸の奥がずんと重たくなってしまった。
 恐ろしい目に遭うことなんて、これが初めてではない。グランくんに声をかけてもらうまで私は途方に暮れていたし、ほとんど思考も働いていなかった。何が正しいのか考えることをやめた。それはとても楽なことだった。
 薄く線の入った爪を撫でながら、背もたれに寄りかかる。ばらばらの速度で流れていくひとの頭を、薄目で眺める。
 ここには私を知っているひとは誰もいない。
 それは幸せなことだろうか。



「お待たせしました」



 不意に声をかけられて、反射的に息を呑んだ。
 両手に大きめのカップを持ったカトルくんは、そのうちの一つを私に差し出しながら「好みがわからなかったので、女性が好きそうなものをお勧めしてもらいました。お口に合うといいのですが」と型抜きでもしたような、しかし美しい微笑を浮かべる。



「好き嫌いはないです、あの」

「良かった。熱いので、気を付けて」



 想定以上に渡されたカップの中身がたっぷりと入っていたせいで、受け取る際にうっかり零してしまいそうになった。鼻を抜けるような果実の匂いに、紅茶の類か何かだろうかと、脳内で考える。



「あの、ありがとうございます。お金……」

「気にしないでください。誘ったのはぼくの方なので」

「でも」

「ぼくがあの道を通ったせいで、バッグも壊れてしまいましたし。こんなものであなたの気は済まないかもしれませんが」

「そんな、私は、全然。カトルくんのおかげで無事に戻ってきましたし……。本当に助かりました」



 改めてお礼を言いながら頭を下げた私に、カトルくんは少しだけ困ったような顔で首を振った。子供がちょうど一人分くらい座ることの出来そうなほどの間隔をあけて、彼は私の右隣に座る。そのまま彼は自分のカップに口をつけたので、私も「いただきます」と呟いてから一口だけ飲んだ。
 少しだけ癖のある、ベリーのような風味のするお茶だ。目の前が、ちかりと光る。殴られたような気にすらなる。誤魔化すために、空を仰いだ。浮かびかけた涙は、それだけで上手く目の中に戻ってくれた。



「お口に合いましたか?」

「おいしいです」

「…………本当に?」



 尋ね返されて、思わずカトルくんの顔を見つめる。どうしてそんなことを聞くのだろう。そう思っていたら、彼は目を細めたまま、「何だか悲しそうな顔をしていたものですから」と、小さな声で、呟くように吐き出した。
 悲しそうな。
 言われた言葉が、じわじわと脳に染み込んでいく。無理に瞳の中に押し込んだ涙が戻ってくるような感覚はない。だから、彼の言う「悲しい」を、私は上手く消化できなかった。なんと答えたらいいのかが分からず、けれど彼が答えを待っている様子だけを察して、慌てて口を開く。息を吐いて、また吸って、躊躇って、それからようやく口にできたのは、「似たようなものを、昔、飲んだことがあって」と言う、今水分を摂っていたとは思えないほどに乾いた、からからの言葉だった。



「昔?」

「はい、いや、昔、ではないです。ちょっと前まで、良く飲んでたものに似ていて」

「へえ。この辺りではここでしか飲めないものだと思っていましたが」

「そうですね、ここじゃなくて、ずっと、遠くです。懐かしくて、びっくりしちゃって」

「……へえ」



 そのときのカトルくんの声音を、私はなんと形容すべきだろう。
 行儀よく背筋を伸ばした彼は、僅かに口角を上げていた。初めて出会ったときから、彼はこんな風に笑っていた。楽しい、とはちがう。嬉しいとか、そう言う気分や感情の高揚によるものではない。
 私は、そういうひとの感情の機微を読み取ることに、長けている方だと思っていた。だけど、違うのだ。私がそう思い込めていたのは、自分の周囲が分かりやすいひとたちばかりだったから。思ったことをそのまま口にするビィくんや、表情に出やすいルリアちゃん、グランくんだって、きちんと言いたいことを溜め込まずに言ってくれる。優しいひとばかりだった。カトルくんが優しいひとではないと言いたいわけではない。ただ、ただそれでも、私には彼が遠く感じる。
 そう感じてしまうということは、もしかして何か、私が彼の気に障るようなことを言ってしまったのかもしれない。お話をしませんか、なんて言われて浮かれてしまったからこそ、無自覚に。そう思うと、途端に申し訳なく、居たたまれなくなった。
 会話が途切れる。その数秒の空白が、やけに居心地の悪いものに思えてしまう。視界の端に、バッグが見える。不意に脳裏に浮かぶのは、財布の中に入れておいた大切なものの存在だ。会話の取っ掛かりに利用するつもりではなかったけれど、結果的にそうなってしまったことを、私は今よりずっと後で、後悔する。



「家族の、大切なものが入ってて」

「はい?」



 カトルくんが笑顔を浮かべることすら忘れてしまうほど、私の切り出し方は下手だった。



「あ、すみません、あの、このバッグの、中にあって」

「ああ、そうでしたか」

「はい、だから、その、本当に助かりました」



 数年前の、兄のお祝いごとを記念して撮られた家族写真、当時は反抗期真っ盛りで、わざわざ身なりを整えて、きちんとしたポーズで、家族で並んで写真を撮ることが恥ずかしくて、面倒でたまらなかった。写真の中の今より幾分幼い私は、だから少し表情が硬い。だけど、今はこれがあってよかったと思う。
 カトルくんは、微笑を浮かべたままだ。



「このお茶も、家族で飲んでたものと似てるんです。父や兄は文句を言ってましたが、母が好きで……。父なんて、『こんな甘いものを飲むから脂肪がつくんだ』なんて言いながら自分のお腹抓むし、それはお酒のせいでしょ、なんて思ってましたけど。……そうそう、最初はこれにお砂糖をいっぱい入れてたんです。でも父が脂肪脂肪って言うから、途中からは甘さを個人で加減できるように、お砂糖はお好みで」

「仲が良かったんですね」

「そう、ですね。ちょっと前まで反抗期で、迷惑もかけちゃいましたけど……でも、買い物とか旅行に行ったり、人並みに、幸せな家庭でした」

「へえ」



 穏やかな笑みを浮かべたまま、カトルくんは私の膝の上のバッグを見つめる。空気が重くなるのが嫌で、つい喋り続けてしまったが、呆れられてはいないだろうか。今更になって心配になったけれど、カトルくんは相槌を続けてくれた。
 どれくらいそうして話していただろう。髪よりも色の濃い宝石のような瞳は、やがて私の双眸へと向けられる。胸が鳴った。美しい面立ちをしていた。



「そろそろ陽が暮れそうですね」



 中身の半分ほど残ったカップは既に私の冷えた指先を温めるには至らない。私はカトルくんが首を傾げる仕草を見せる度に流れる、その細い藤の髪を眺めていた。陽が煌めいて反射する。グランくんたちとの、約束の時間。なんてあっという間だったんだろう。「行きましょうか」立ち上がったカトルくんは、私に手を差し出した。



「騎空艇まで送ります。また迷ったりしないように」



 何を考えているのか読めない人だけれど、私はそれでも、彼のその美しい色をした髪が好きだ。
 壊れたバッグと飲みかけのカップを持った両手では彼の手のひらを取ることができなかった。顔が熱くなる。慌てて立ちあがった私は、膝からバッグを落としてしまった。
 そんなことに気を取られた私は、彼が恐らく、あえて残したその不自然な言動に違和感を覚えることもない。いや、この時の動揺がなかったとして、果たして私は気付くことができただろうか。
 私がこの街の人間ではなく、騎空艇に乗って生活する団員の一人であること。以前このあたりで迷子になったこと。私が彼に話していない以上、本来ならばこれらの事実を彼が知る術はなかったはずだ。
 気が付くべきだった。警戒して然るべきだった。グランくんの騎空艇の前まで送ってもらった私は、カトルくんに向かって何度も頭を下げる。彼が私ではなく、私の背後にある艇を観察していることも知らずに。



「では、また」



 嘘でも、「また」と言ってくれたことが嬉しい。胸がふわふわして、少しだけ泣きそうになる。
 騎空艇のことは愚か、彼が私の名前を最後まで呼ばなかったこと、いや、名前を尋ねることすらなかったことに私が気が付かなかったのは、そのせいだ。


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