
美しい藤の色の髪をしたエルーンの少年は、カトルと名乗った。
「カトル……さん?」
「呼び捨てで構いませんよ」
「えっと……じゃあ、カトルくんでもいいですか?」
「どうぞ」
「カトルくん」
小さく唇を動かして反芻する。カトルくんは慣れない発音に苦戦する私に気が付いているのだろうか。僅かに首を傾げるような仕草をしながら、「では、行きましょうか」と微笑んで見せた。
「あっちの方に美味しいお茶を出してくれるお店があるんです」
彼が指差したのは市場とは真逆の方向で、一度も足を踏み入れたことのなかった界隈だった。何となく雰囲気の良くない、強面のドラフ族の男性たちが目についたこともあって、多少の逡巡がなかったと言えば嘘になる。だけど私は結局、二つ返事で彼の後ろをついていった。そもそも断る選択肢なんて、はじめからなかったのだ。
大きな通りを、よろず屋のある方とは逆方向に向かう。路地を何本か入っただけなのに何となく、空気がじとりと湿って重い。苔混じりの石畳に、黒く汚れ、崩れかけた壁。路傍に俯いたまま座り込むひとの姿。市場のあるあの通りがこの街の表側だとしたら、きっとここは裏だ。怪しい露天商が並ぶその一角は、通行人が極端に少ない。
「雰囲気が悪くてすみません。こっちが近道なんです」
慄いている私を気遣ってか、カトルくんは振り返りもせずに朗らかな声で言った。こんなところにお茶を出してくれるお店なんてあるのだろうか、と僅かな不安が芽生えていたところだったから、彼の言葉に安堵する。きっとこの路地を抜ければ、またお店があるような大きな通りに出るに違いない。
グランくんに見つかったら、きっと懇々とお説教をされるだろう。知らない人について行っちゃだめだって言っただろう、と。だけどカトルくんはもう私にとって知らない人というカテゴリに分類される人物ではなかった。会うのは二度目だし、名前だって教えてもらったのだから。
それに……と考えこんでいた、それは相変わらず私の悪癖だった。脳内の思考に集中して、目の前のことが疎かになってしまうのだ。
ぐ、と肩を掴まれたような感覚があって、「うえ」と間抜けな声を出す。つんのめったところで気が付いた。肩を掴まれたのではなくて、ショルダーバッグの肩紐を引かれたのだ。さっきまで胸のあたりにあった皮紐の感覚や鞄の重さは、気がついたときには既にない。
「あれっ?」
反射的に振り向くと、見知らぬ男性が肩紐の部分が無残に切られた私の鞄と思しきものを片手に走り去っていくのが視界に映った。
「あっ……」
一瞬何が起きたか分からず、思考が止まる。ひったくりだ。瞬時にそう判断できなかったのは、私が田舎者で、未だに平和ボケしているせいだろう。
けれど被害に遭ったことを理解して咄嗟に走り出せるほど私は機敏でも、腕に自信があるわけでもなかった。ただ腹の底がすっと冷える。あの鞄の中にはお財布があった。いや、厳密に言えばお財布自体はこの際、どうだっていい。グランくんたちの簡単なお仕事を手伝っていただいたお給金は、事故だと思えば諦められる。勿論それだって本当は諦めたくないけど、でも、だけどあそこに入っていたのはお金だけじゃない。
大切なものがあったのだ。なのに、足が動かない。あの男性は右手に持っていたナイフで私の鞄の肩紐だけを切っていった。私が戦えない、愚鈍な女であると言っても、私はその動きにすら気が付かなかったのだ。走って、追いかけて、それで武器を持った相手にどう鞄を取り返せばいいのか。お金はあげるから、それだけは返してだなんて言って話が通じるのか。
男性が角を曲がる。私の手から離れていく。待って。声が、掠れる。どこかで、小さなため息が聞こえた。咄嗟に伸ばした手のその先で、私は藤色の髪が揺れるのを見た。
「え」
男性が走り去っていった方向に、何かが消える。遠くでどよめきと、低い悲鳴が聞こえた。カトルくんが追いかけてくれたのだ、そう気が付いても、私は一歩も動けない。
それからどれくらいの時間が経っただろう。数秒だったのかもしれない、いや、私の狂った感覚は、きっと正しくはないはずだ。
けれど、戻ってきた彼の手には確かに私の鞄があった。あの日と違ってきちんと閉じられたチャック。コルワさんが「遊び心も大事よ」なんて言いながらつけてくれた、二つのボンボンまでそのままの私の鞄を、彼は持っていた。
千切れた肩紐をまとめて掴んだそのひとは、息一つ乱れることのないまま、ただ、静かに、淡々とも思える口調で言う。
「取り戻してきました」
初めて会ったときと、寸分すらも変わらないその笑顔で。
「次は、気を付けてくださいね」
彼の背後、あの角を曲がった先では、まだざわめきが続いている。誰か、医者を。血が止まらない。そんな叫び声に私は気が付いていたのに。
カトルくんは微笑んだまま、私に鞄を差し出し続けている。合皮の表面、白く柔らかな糸で作られたボンボン、そのどこにも、血液と思しきものが付着していることはなかった。あの悲鳴は幻聴だったのだろうか。では、今も続く声は。カトルくんを見つめたまま、手を伸ばす。中身のあまりない財布やハンカチくらいしか入っていないはずの鞄が、どうして今はこんなに重く感じるのだろう。
「ありがとう、ございます」
すかすかの、乾いた声が漏れた。カトルくんは微笑を携えたまま、小さく首を傾げるような仕草を見せるだけだった。