
白痴美。
よろず屋の傍で、彼女を視界の端で見とめたときに頭に浮かんだ言葉がそれだった。
獣の耳や、はたまた角がその頭にあるわけでもなければ背丈はぼくとそう変わらない。種族や印象で差別をするのは愚かな大人のやることだから、彼女がいくら凡庸で、愚鈍な顔付きをしていたからと言って侮蔑の対象にすることはしないけれど、それにしたって、いくらなんでもぼんやりしすぎではないだろうか。彼女が肩から下げたバッグは口が半分ほど空いている。
恐らく武器もまともに持ったことがない、筋肉の薄い身体。馴染みの街であるためか、はたまた保護者が傍にいるのか、通行人や客でごった返す市街であってすら注意力が散漫。雑踏に飲み込まれて人波へ流されていくその少女を目で追わなかったのは、用事があって立ち寄ったよろず屋の先客が手にしていた武器の方に意識が向いたからだ。
ぼくとほとんど同年代、もしかしたら少し年下にすらも見える、空飛ぶ妙な生き物と青い髪の少女を連れた少年が、よろず屋に無警戒に見せていたあの黄金の武器。
動揺を悟られぬように、彼らが立ち去った後ぼくに気が付いたよろず屋に笑みを浮かべる。「取り置いてもらっていた薬をお願いします」取り繕いながら言ったその言葉にかぶさるように、背後で「おいっ! あいつ、またいなくなってるじゃねえか!」と空飛ぶ生き物が叫ぶ声が聞こえた。
「ほ、本当です! ここで待っていてくださいねって言ったのに……」
「仕方ないな……。まだそんなに遠くには行ってないはずだ。手分けして捜そう」
横目で彼らの姿を見るぼくに、薬を包むよろず屋は場にそぐわぬ朗らかな声で告げた。「彼らはこの界隈で有名な騎空士なんですよ」そう、腕が立つから、引き寄せるだけの何かを持っているから、やつらはあの武器を持つ。
「……へえ。そうなんですか」
ぼくの眼には、未だあの金色がこびりついている。
あれはおそらく、ぼくに価値をくれる。
参ってしまった。
グランくんたちと一緒によろず屋に行きたくて、絶対に迷子にならないことを約束に同行を許してもらえたというのに、蓋を開けてみれば私は今見知らぬ街で一人だ。この街のよろず屋は市場に隣接していて人通りが多いと聞いてはいたけれど、想定以上だった。田舎の出の私は人ごみを見るとわくわくしてしまう反面、圧倒的に慣れが足りない。気が付いたときには人の流れに押されて市場の外に出てきてしまっていた。
今頃ビィくんは怒っているだろうし、ルリアちゃんは必要以上に慌てているかもしれない。グランくんは……呆れているだろうか。私は彼らに迷惑ばかりかけている。
反省しながらも元来た道を戻ったは良いが、近道をしようと細い路地に入ったのが失敗だった。これはグランくんたちに出会うまで知らなかったことなのだけれど、どうやら私は方向音痴らしい。いや、そもそもどこの街も似たような建物を並べているのが悪いのだ。もっとこう、初心者にも分かりやすい街並みを作ってほしい。記憶に残りやすいオブジェを作るとか。建物の壁を区画ごとにグラデーションに色分けするとか。
日中だと言うのに光がほとんど入らないその路地は、人同士がすれ違えるかどうかというほどの狭さで、私は自分の家の傍にあった畑に沿うように流れていた小さな用水路を思い出す。幼い頃、そこを歩くのが好きだった。公道ではない、私有地の一角だったと今は思う。少しでも足を踏み外せば、小さな足は呆気なく指先ほどしかない水深の汚水に飲み込まれた。汚れた足で帰れば母にどやされ兄に笑われ父が怪我を心配する。そこでようやく私は脛を傷つけていたことに気が付いて、痛みに声をあげるのだ。
なつかしい。まるで遠い昔のことのようだ。
あの時のことを思い出して、自分のつま先を見ながら歩いていたせいだろう。私は正面から人が歩いてきていたことに気が付かなかった。その靴を踏んでしまった瞬間我に返る。やけに生々しい感触だった。小さな悲鳴のような音が聞こえて、咄嗟に足を引く。
「わ、ごめんなさい……!」
「いえ」
顔をあげた瞬間、思わず息を呑んだ。
頭のてっぺんについた獣の耳は、エルーン族のものだ。藤色の短い髪、切れ長の瞳、私よりも少し背が高いそのひとは、きっと年は私と大差ないだろう。彼は、少年と青年のあわいにいるような美しさを持っていた。綺麗だと思ったのだ。
グランくんの騎空艇には、いや、この世界には、男女を問わず、老若男女の別なく、はっとするほど美しいひとが多く存在する。それは彼らの生き方の問題なのかもしれない。胸を張って、前を見据えて生きる人は美しい。
日中でも、高い壁のせいで太陽の光が入らない路地は、それでも風土の影響か湿気はほとんど感じない。風の通り道になるのだろう。瞬間、一陣の風が吹き抜けた。コルワさんに仕立ててもらったワンピースの裾がはためく。彼の髪が強く、流れる。その双眸の色が濃く見える。
きれい。
口の中で呟いただけだったはずのその言葉は、もしかしたら、彼に届いていてしまっていたのかもしれない。
彼は一瞬、ほんの一瞬だけ目を見開いた。「は?」と聞こえたのは、きっと気のせいだ。だって瞬きをした後、彼はもう私から目線を逸らしている。
彼は私に小さな会釈をすると、身を捩らせて私の真横をすり抜ける。行ってしまう、そう思ったけれど、「あ」と短く呟いた彼は、私の肩をそっと叩いた。
「バッグ、開いてますよ」
「え」
「この辺は治安がそんなに悪くはありませんが、気を付けた方がいいです。スリに遭うかもしれないので」
「あ、え、嘘、あっ……あっ! 財布あった良かった!」
「それでは、ぼくはこれで」
エルーン族の美しい少年は、そう言うと今度こそ踵を返して路地を抜けていく。その後ろ姿をぼんやりと見送りながら、私はほとんど指先の感覚だけでバッグの口を閉めた。
きれいな人だった、物腰が柔らかくて、優しくて穏やかで。
この街の人なのだろうか。もう一回、偶然どこかで出会うことがあったりしないだろうか。彼の微笑を網膜に必死に焼き付けながら、私は再び歩き出す。路地を抜けたその先が、よろず屋のある通りではないことに気が付かないまま。
グランくんたちと合流を果たしたときには、既に陽が傾きはじめていた。
踏まれた足の先を親指で拭いながら、舌打ちする。
あの武器――「四天刃」の覚醒を目指しているであろう彼らには、また会うことになるだろう。
よろず屋は随分とあの騎空士に入れ込んでいるようであったし、そもそもあの外見でとんでもない食わせ物だ。ぼくが探りを入れても大した情報は掴ませてはくれないだろうことは想像に難くない。
伝説の武器、四天刃を掘り出し、封印を解こうとしているあの若い騎空士。ぼくは、あの天星器が彼ら、果ては世界に災厄をもたらすことがあっても、それに関しては興味がない。覚醒を止める気もない。最強の短剣使いとして名を馳せている以上、その持ち手として相応しいのは自分であると主張する気があるわけではない。名誉だっていらない。ただ、ぼくは実績がほしい。肩書きがほしい。まわりの大人どもがぼくを恐れるに足るだけの価値が欲しいのだ。
だからぼくは四天刃を持つあの男の命が欲しい。
そのためなら、なんだって利用する。
靴を拭った指先は、土で汚れている。
かつて迷子になってビィくんにめちゃくちゃ怒られたあの街に、私たちは再び立ち寄ることになった。実に二か月ぶりのことだった。
前回のことは私も反省しているから、きちんと時間と待ち合わせ場所を指定し、守ることを誓う。監視に誰かつけてやりたいくらいだぜ、とビィくんはぷりぷり怒っていたけれど、生憎手が空いている団員がいなかった。おかげで制限時間はあるものの、晴れて私は一人で街を散策できる、というわけだ。
と言っても、また同じ街に来たからと言ってあのエルーンの少年に会える確証はない。ただでさえ大きな街だし、あの市場は既知の通り人通りが多い。万が一人ごみの中で彼を見つけたところで、この前のように逆方向に流されてしまったら終わりだ。
自分でも、どうしてあんなに彼のことが気になるのか分からない。実際私は、彼の声も、正確な背丈も、もうほとんど覚えていないのだ。ただ、とても穏やかな風貌をしていたこと。私に微笑んでくれたこと。親切に鞄が開いていることを教えてくれたこと。それだけが鮮明に、色濃く残っている。あの美しい髪を、瞳を、間近で見たかっただけなのかもしれない。もう一度あの優しさに触れたかった。グランくんもルリアちゃんも、あの騎空艇に乗っている人はみんな優しいけれど、それでも私はあの人の浮かべる微笑をもう一度でいいからこの網膜に残したかった。あの記憶を焼き付けて、二度と消えることがないように。
グランくんたちと別れて、どうすべきかと賑わう市場の入口で唸っているところ、しかし私は声をかけられた。
「お久しぶりです」
元より考え事をし始めると極度に視野が狭くなる性質であったが、まさかここまで間抜けだとは思わなかった。肩を叩かれて、「ぼくのこと、覚えていますか?」と直接目を見て声をかけられるまで、私は彼の存在に気が付かなかったのだ。喉元まで出かかった悲鳴を、必死で飲み込む。
「二か月くらい前に、そこの路地でお会いしましたよね」
「あ、お、おぼ、覚えてます、その節はすみませんでした……!」
彼は私が頭を下げたことに、何のことか分からないと言わんばかりに首を傾げる。足を踏んでしまったこと、と付け加えようとした瞬間、けれど彼は視線を落として目を細めた。「今日はきちんと鞄を閉じていますね」もう、本当に何と返したらいいのか分からない。
この偶然に戸惑いを隠せなかった。それでもまた会えてうれしいと、口に出していいのだろうか。いや、良くない。だって私は彼のことを何一つ知らないし、あのときに運命的な何かが邂逅したわけでもない。何かを尋ねようと何度か口を開けたり閉じたりして、ようやく言葉を作る。「あの、あなたはこの街の方……?」「ではないです」穏やかに微笑まれ、私は再び言葉に詰まった。
「最近この空域にいることが多くて、この街をよく利用させていただいているんですよ」
「へぇ……」
私と一緒だ。その言葉が、喉の奥で引っかかる。
一緒だ、も何も、私はグランくんの飛空艇に乗せてもらって、彼の旅に同行させてもらっているだけに過ぎない。戦いができるわけでもないし、ローアインさんのようにお料理が上手なわけでもない、掃除だって苦手だ。ただ彼らの厚意で騎空艇に乗せてもらっているだけの私は、恐らく騎空士なのであろう彼と同等の顔で、一緒だなどと口にすることはできなかった。
だって私は何も知らないし、何もできない。知らない街では絶対に迷子になるし、ビィくんを苛立たせることだって多い。いつまでも、何に対しても慣れなくて、そのくせ一丁前にみんなの隣に立ちたがる。
「君は」
彼の言葉に、は、と顔をあげる。
じっと私の顔を見つめたエルーンの少年は、その切れ長の瞳を、そっと細めた。何を見ているのか、計り知れなかった。
「――少し、お話をしませんか?」
思いもよらない言葉に、私はそれまで自分が打ちのめされかけていたことを忘れる。彼が直前に吐きだした「君は」に、次の言葉が繋がりようがなかったことにすら気が付かず。
グランくんたちとの待ち合わせまで、あと二時間だ。