砂糖を煮詰めてできた部屋だった。
天蓋付きのお姫様みたいなベッド。クローゼットの中には私の趣味とはちょっとずれたワンピースが並んでいる。猫足のコンソールデスクにはくったりとしたキャラメル色の皮の通学リュックが放られていて、早く定位置に片付けなくちゃと思うのに、でも、もういいのかもとも思う。もういいのかも。だって、もう随分長い間、あの人はこの部屋には来ていない。
家には私以外、誰もいなかった。そのときだけ、私は自由だった。お兄ちゃんには一つも自由なんかなかったのに。
ベッドの上で、バレリーナのように回る。もう誰も見ていないから。片足でくるんと弧を描いて、シーツに爪先を取られ、バランスを崩し、足をついてはまた回った。飴細工みたいに、視界に映る私の部屋は、風景に滲んで溶けていく。ばかなくらいがかわいいのよ。与えられたその言葉で着飾っていたのに、今の私には何もない。
ベッドから転がり落ちたクマのぬいぐるみはもらいものでした。差し出されたとき、あの人がしているように大袈裟に喜んでみせたけど、本当は私うさぎが好きだった。お土産のガラスでできたオルゴール。シャンパンゴールドのリボン。うつくしく、見た目を整えてできた、砂糖菓子の部屋。
けれど部屋の隅にたまった埃は、日に日に体積を増している。それを時々、指でつまんで捨てている。綿みたいに柔らかいそれは、価値のない塵あくた。見よう見まねの下手くそなピルエットが、ドレッサーの鏡に映っている。
私ももうゴミ箱の中。
地面の揺れで目が覚めた。
じんわりとした疲労が残る身体を起こして目を擦る。床に足を下ろした瞬間に感じた冷たい感触に、反射的に毛足の長いラグを探して、我に返った。ああ、そうだ、ここは東京団地じゃない。だってもう、あのベッドは遠い記憶の底だ。
無意識に息を吐いたその時、ベッドのフレームがはっきりと軋んだ。遠くから聞こえたのは、何かが崩れるような音だ。床は不安定に揺れて、デスクに置いていた昨日の水風船の中身が薄く透けたゴムの内側で跳ねていた。
――なんだろう。
まだ朝のアナウンスは鳴っていなかった。時計を見ると、いつもより少し早い時間に目が覚めたらしい。じゃあ、さっきの音はなに?
何か変だ。
嫌な予感は輪郭のぼやけていた意識を形作るのに充分だった。地面は再び大きく揺れて、私をせき立てる。ベッドから飛び降りて、身支度もそこそこに、部屋の扉を押し開ける。土埃を含んだ空気が頬を撫でる。光を取り込みすぎた目が、上手く機能しない――。
そこに侵校生がいるなんて、一体誰が想像しただろう?
白んだ空を背景に立っていたクマの侵校生に、息が止まる。夢の続きを疑うけれど、ドアノブの感触ははっきりと冷たい。
紫色のなめらかなフォルムをした身体が、ゆっくりとこちらを向く。鋭い爪に怖気が走る。
悲鳴になる前の、声とはいえない音が喉から漏れた。自分でもびっくりするくらい甲高い、つんざくような声。今の私には、我駆力刀がない。
――なんでこんなところに侵校生が?
警報は? 何で校舎の中にいるの。みんなは。防衛室は? 口内が乾く。身じろぎ一つできないまま、距離を詰められる。目の前に振りかざされた三本の爪を、私は眼球の中央に据えている。
――あ、しぬかも。
それが振り下ろされる寸前、咄嗟に目を閉じて、頭を腕で覆った。胃がめくれあがって、そのまま全部吐き出してしまいたくなるほどの恐怖だった。なのに覚悟していたはずの痛みは、いつまでもやってこないのだ。
恐る恐る、腕の隙間から様子を窺おうとしたときのことだった。
「きょっきょっきょ!」
聞き慣れた、独特な笑い声が私の耳に羽毛のような軽さで届いたのは。
青く染めたツインテールに、肉付きの薄い身体を包む学生鎧。逆光で、それが光っている。
「、びびりまくりでマジウケるんだが」
――飴宮さんだ。
侵校生はバランスを崩し、私の目の前に音を立てて倒れた。その背に突き立てられた銀色の包丁が朝陽を受けてきらめいていた。固結びになっていた緊張が解けて、「ひょわ……」と口の端から声にならない声を漏らし、侵校生の黒い体液で汚れた地面に膝をついてしまう。そんな私に、飴宮さんは「怠美、の命の恩人じゃんねー?」と、その口の端を楽しげにつり上げていた。
騒ぎに気がついたみんなが部屋から飛び出して来たのは、その後のことだ。
「おいおいおい、一体何がどうなってやがる!」
「警報、鳴ってないよね? なんで敵がいるの……!?」
青ざめる希ちゃんに、飴宮さんは「しらーん」と言いながら侵校生から包丁を引き抜く。その様子からさっと目をそらした川奈さんの顔は、青を通り越してもはや白い。
砂煙の上がる校庭からは、轟音が鳴り響いていた。――既に戦闘が始まっているのだ。
「拓海クン達だ……!」
蒼月くんの指さしたフェンスの向こう側に、彼らはいた。
澄野くんとくららちゃん、丸子くん、過子ちゃんのたった四人で、バリアの生成装置に突撃する侵校生を押さえ込んでいるのだ。
砂煙が酷いのは、地面に空いた無数の穴のせいだろう。荒く掘り起こされたそこからは、わらわらと侵校生が湧いている。巨大な虫の巣穴のようなそれに身震いする私の横で、銀崎くんが「あれのせいで警報が鳴らなかったんでしょうか……」と独りごちる。でも、だとしたら、ちょっと設計が甘すぎるんじゃないだろうか。澄野くん達が気がつかなければ、きっと大変なことになっていた。膝についたタールに似た侵校生の体液に、背筋が粟立つ。
穿たれた穴から次から次へと這い上がってくる侵校生は、コーディングされたチョコみたいにカラフルだった。正体を知らなければ、おもちゃの行進のようにも見えたかもしれない。けれどあれは侵校生で、私達の、人類の敵だった。くららちゃんの防衛装置が敵を串刺しにし、丸子くんの抱えた機関銃から激しい火花が瞬く。それでも侵校生の増援はやまない。
「急ごう! 早く、澄野くん達を助けなきゃ!」
叫んだ希ちゃんを先頭に駆けだしたみんなを、慌てて追いかけようとする。けれど――。
「ちゃん」
不意に肩を叩かれて、振り向いた。
面影くんだ。
戦いを前に強ばった身体に、新たな火がくべられる。敵の襲撃を受けていても、面影くんは、地中深くに根を張る植物のような、静けさをたたえた目をしていた。
薄い橙と青のグラデーションが描かれた空に、刷毛で薄く伸ばしたような雲が広がっていた。朝陽に透けるそれは夢の端に落ちていたシャンパンゴールドのリボン。もう見慣れてしまった紫の炎を背に、面影くんはその目を微かに細める。戦わなきゃいけないのに。急いていた気持ちが、彼の瞳に撫でられる。波打っていた神経が両手で包まれる。
第二防衛学園に来たあの日も、こうして屋上で向かい合ったと、不意に思い出した。戦わなければ帰れないから、あの日私達は武器を取った。でも、ほんとにかえりたかったのかな?
帰る場所って、どこ?
「それ、大丈夫?」
侵校生の体液でべっとりと黒く汚れた私の膝に視線を落としながら、彼は言う。
スカートも、足も、酷く汚れていた。洗わなきゃ落ちないくらいに。だけど、面影くんが聞いたのは、もしかしたら私の足の震えの方だったのかもしれない。私の肉や骨を覗きこむ目。
気恥ずかしさと動揺で「だ、だいじょうぶ」と喉から絞り出した声は、弱々しくひっくり返っていた。行こうとも言えず、踵を返して走り出す。揺れる地面にふらつきながら、無意識に、踏みしめる足に力をこめる。
やわい地面はベッドの上。
夢の中で踊っていたことを、こんな時に思い出していた。