体育館に来てほしいと蒼月くんに声をかけられたのは、過子ちゃんと駐車場で話をしてから二日が経った、七十八日目の朝のことだった。
 部屋の扉を開けた先にいた蒼月くんは朝陽に晒されて、漂白剤のような笑みを浮かべていた。「お腹を空かせて来てほしいから、食堂に寄らないでそのまま来てね」とのことだったから素直に従ったけれど――体育館の扉を開けた先で屋台が並んでいるなんて、一体誰が想像しただろう。
 ヨーヨー釣り、ベビーカステラ、射的にソースせんべい。屋台の暖簾に書かれた大きな文字に目を奪われる。中央には紅白の布で飾られた背の高いやぐらが鎮座していて、等間隔につるされた提灯がいつもは薄暗い体育館を照らしていた。濃いソースの匂いに、空腹の胃が刺激される。
 ――お祭りだ。
 こんなところで開かれるにしては随分と立派な。
 DJブースのセットされたやぐらを見上げて、思わず声を漏らす。



「す、すごーい……! お祭りだあ……!」

「ヤバっ! 屋台がいっぱいじゃん! どうしたの、これっ!?」



 驚く私と川奈さんを前に胸を張ったのは、丸子くんだ。「どうだ!」と叫ぶ彼の濃いクマの残った目は、私達の反応を前に満足げに細められている。



「サプライズパーティならぬ、サプライズお祭りだぜっ!」



 どうやら彼は蒼月くんと二人、数日前からこのお祭りの準備をこっそり進めていたらしい。プレゼントマシーンで道具を作って、飾り付けをして――はっきりとは言わなかったけれど、ずっと空元気で振舞っていた、過子ちゃんを元気づけるために。
 呆気にとられた様子で屋台を見回していた過子ちゃんは、「どうだ過子、屋台で食べ歩き! しかも食べ放題だぜ!」と丸子くんに言われると、その目を丸くした。過子ちゃんの白い頬は、徐々に赤みを増していく。丸子くんの言葉を咀嚼するように目を瞬かせて、私達の顔を順々に見回して、それから、その両手を口元に添えて言った。



「す、凄いよ! 屋台で買い食いなんて初めて!」



 昔からやってみたかったの!
 やがて弾けたその笑みは、ここ数日の過子ちゃんが浮かべていた綿のような笑顔とは比べものにならないくらい、芯から、明るかった。









「わー! すっごい、すっごーい!」



 過子ちゃんの澄んだ、伸びやかな声が体育館中に響き渡る。
 屋台はどこも大盛況だった。くららちゃんのカレーライス屋さんは特に人気で、みんなが列を成していた。景品の並ぶ射的に挑戦していた澄野くんが、乾いた発砲音を響かせた後に肩を落としているのが見える。率先してゴミを集める銀崎くんに、蒼月くんがベビーカステラを差し出している――。
 賑やかなざわつきと熱気、それから混じり合うソースやカレーの濃い香りに、日だまりに身を投げているような心地よさを覚えた。ああ、いいなあ、って、ソースせんべいの屋台の内側から目を細める。私達はもうずっと、ずっと、本当に長い間、気を張り詰めていたから。



ちゃん、ソースせんべい、二つもらえるかな?」



 カウンター越しに希ちゃんに声をかけられて、「勿論! どうぞ!」とあらかじめ準備していたおせんべいを差し出した。こうして店番をしていると、高校の文化祭を思い出して懐かしい。当たり前の日々は、もう随分、今の私からは遠かった。
 希ちゃんは「ありがとう。後でお店、交代するね」とやわく目を細めると、きょろきょろと周囲を見回している過子ちゃんに駆け寄る。射的の銃を持った狂死香ちゃんが、過子ちゃんに大きく手を振っている。ヨーヨー釣りの店番をしていた厄師寺くんが、「嬢ちゃん達よぉ! こっちでヨーヨー風船釣ってけやぁ!」と明るく声を張り上げる。そのどれもに「うわー! わー! わー!」と目を輝かせはしゃぐ過子ちゃんは、年相応の女の子に見えた。――見つからない今馬くんの名前を呼び続けていたときよりも、ずっと。



「あんなに喜んじゃってカワイイなぁ……」



 突然背後から声をかけられて、身体がびくりと跳ねる。低く、歌うような声は面影くんのものだ。
 面影くんは私の返事を待たずに、「まぁ、これだけあると目移りしちゃうよね」と、眼帯の下の瞳をそっと細めると、「はい、どうぞ」と、私に茶色い紙袋を手渡した。椅子に座ったまま受け取り膝に乗せると、紙袋越しに、生き物のような生暖かさが皮膚に伝わる。口を開けてみれば、甘く柔らかな匂いのする小さなパンダがいくつも入っていた。ベビーカステラだ。



「わ、くれるの!? え~、じゃあこれあげるね!」



 お礼にソースせんべいを差し出したら「ふふ……物々交換だね」と笑われた。その笑顔が、くすぐったかった。
 ベビーカステラを一つ取り出して、食べる。優しい甘さに力が抜けて、そっと息を吐いた。懐かしい味。屋台のカウンターって、なんだか不思議だ。みんなと同じ場所に立っているはずなのに、向こう側とこちら側とが、点線で切り取られているみたい。
 面影くんは屋台の骨組みにそっと身体を預けると、ソースせんべいを手にしたままテレビの向こうでも見るみたいに目を細めていた。穏やかだったけれど、少しだけ、疲れが混じっていた。



「ねむれてる?」



 考える寄りも先に尋ねてしまった私に、面影くんは目線だけを私に向ける。
 面影くんは、相変わらず生物薬品室に籠もり続ける日々を送っていた。みんなと同じ時間に食堂に来ることはなく、部屋の明かりはいつも消えていた。だから本当は、彼がこうしてこの場にいることにも驚いていたのだ。
 薬の開発って、想像がつかないけれど、きっとものすごく神経を使うのだろう。面影くんが口の端に浮かべた笑みは、力がない。



「寝てるよ、勿論。適度にね」



 希ちゃんが一昨日から彼を手伝いに行っている、っていうことは、昨日の朝彼女の口から聞いていた。それがどんなお手伝いなのかは定かではないけれど、基本的な理科の知識すら怪しい私には、ひっくり返ってもできない芸当であることは間違いない。薬、もう少しで完成するみたい。私の知らないことを話す希ちゃんを、いいな、と思った。
 共有できるものがあること。特別であること。そばにいるのに必要な能力があること。
 人を好きになると、いらない羨望が乾いた地面に小さく芽吹く。雑草みたいなものだ。抜いた方が良いと手を伸ばすけれど、でも、その根が本体に絡まっていないとは言い切れなくて、結局そのままにしてしまう。実らす気のない恋ならば、触らないでいるほうがきっといい。
 お兄ちゃんみたいに賢かったら、特別だったら、私も少しは面影くんの力になれたかな。
 詮ないもしも話が脳裏を過ったのは、一昨日、過子ちゃんを前に東京団地でのことを思い出したばかりだったせいだろう。ぼんやりしてしまっていたらしく、面影くんに「……そんなにじっと見ないで?」とからかうように口にされ、我に返って目をそらした。
 乾いた発砲音と歓声に、意識を引っ張られる。銃を片手にはしゃぐ過子ちゃんは、川奈さんから景品のうさぎのぬいぐるみを手渡されていた。目が合って、「先輩! みて~! とれた~!」と叫ばれる。過子ちゃんがはしゃいでいると、嬉しい。「カワイイね」と呟く面影くんに小さく頷いて、手を振り返した。
 手に持っていたパンダのベビーカステラは、とっくに温度を失っていた。








 楽しい時間って、呆気なく過ぎ去ってしまう。
 みんなでくららちゃんのカレーを食べたり、射的大会をしたり、やぐらにあるDJブースから流れる音楽(丸子くん選曲の、物悲しいフォークソングメドレーだった。スピーカーに繋いだそれは、学園中に絶え間なく流れているらしかった)に合わせて踊ったりしているうちに、陽はすっかり落ちてしまった。心地よい疲労感は紙を水に浸すみたいに体育館の空気に混じって広がって、眠気を誘う。朝からずっと騒いでいるんだから、当然だった。
 最初に欠伸をしたのは、川奈さんだっただろうか。「昨日夜遅くまで機械いじってて、あんま寝てないんだった。ふわ~……私、先にあがらせてもらうねー……」と言うと、彼女は体育館を出て行った。
 アナウンスが鳴るまではまだ時間があるけれど、もう夜だ。時間を意識すると、急に眠くなる。厄師寺くんや澄野くんはその辺に転がって休憩しているけれど、流石に真似はできなかった。私も部屋に戻ろうか。迷っていたら、そっと肩を叩かれた。



「私、そろそろ戻るけど、ちゃんはどうする?」



 目の前で大ぶりのピアスが揺れる。
 面影くんが、そこにいた。








 屋上に出ると、無数の星が空に瞬いていた。
 ぬるい夜風は心地よく髪を撫でて、深く息を吐く。纏わり付いたソースの匂いが、剥がれるというよりも滲んで混じり合う。遠く立ち上る、私達を守る紫の炎は、その境目を夜に溶かしていた。



「お祭り、たのしかったねえ」



 意識していることがバレないように口にした言葉は、みっともなく上擦って、思わず咳払いをした。面影くんはそんな私に気がついているのかいないのか、「そうだねえ」と、穏やかに笑うだけだった。
 ふわふわした高揚感に包まれて、足の裏が浮き上がりそう。お酒を飲んだら、こんな感じなんだろうか? 恋愛感情って、お酒に似ているのかな。考えたって答えは出ない。
 屋上に並んだコンテナハウスの一つ一つには、みんなの名前が書かれていた。厄師寺くんに、シズハラさん(面識のない、唯一の特防隊員だ。SIREIさんがいなくなってしまった当初リーダーを務めてくれていた女の子だったけれど、その後行方不明になったって聞いている)、澄野くん。それから通路を挟んで、飴宮さんの部屋――そうしていると、私達が初めて第二防衛学園に来た日のことを思い出してしまう。わけもわからないまま連れてこられ、東京団地のみんなのために戦うようNIGOUに言われて、屋上に案内された。ここがみんなの部屋だよ、って。あの時は百日なんて遠い未来のことのように思えていたけれど、気がついたら、もう随分遠くまで来てしまった。



「……過子ちゃん、少し元気になったみたいで良かったね」



 半歩前を歩く面影くんが不意に漏らした言葉に、頷く。



「うん、ほんとに」



 ずっと、見ていられなかったし。
 薄い鉄板の引かれた屋上の、アスファルトとの継ぎ目に視線を落としながら、口にしていた。闇に紛れるそれは、私の爪先を簡単に引っかけた。そうしていると、さっきまで確かにあった熱気が遠ざかっているのがわかって寂しかった。「うん、見ていられなかった」と面影くんが呟いた言葉が、風に紛れて、背中の方に流れていった。
 澄野くんの部屋と飴宮さんの部屋の間の通路を抜けて、私達の部屋がある北側へと向かう。足音は私の分だけなのに伸びる影は二つあるのが不思議だった。
 ああ、そうだ。お礼――。
 そう思いついたのは、視界に狂死香ちゃんの部屋が映ったからだ。
 面影くんはこの間、敵の基地に行く私を心配して、狂死香ちゃんに声をかけてくれていた。私が無理をしないよう、見ていてほしい、って。その時のお礼を、私はずっと言えていなかった。
 狂死香ちゃんから聞かされたあの言葉がどれだけ私を強くしたか、きっと彼は知らないだろう。絶対に今馬くんを取り戻すんだと決めた私のお腹の底から静かな熱が湧いて、身体がぶわりと膨れ上がったみたいだった。なのに、呼吸は整っていた。地に足がついた気がした。守られていると思った。面影くんの目に、心に。
 思い返せば初めから、彼はそうして私を見てくれていたのだ。



「――ありがとう、面影くん」



 精査する前に口にしたそれに面影くんが不思議そうな目を向けるから、「この間、狂死香ちゃんに、私が無理をしないようにって言ってくれたでしょ」と、慌てて付け足した。「だいぶ遅くなっちゃったけど、その、お礼」と。その時の、微かに見開かれた彼の右目。
 夜の空気に彼の吐いた息が溶ける。川奈さんの部屋から漏れた灯りが、面影くんの睫毛の先に光の粒を落としていた。うつくしく、光を放っていた。「ああ」と漏れた声が私の耳に落ちていく。好きだと思った。あの空に浮かぶ星が綺麗だと思うのと同じような気持ちで。



「……殺っぱりちゃんって、面白いね?」



 馬鹿にするんでもなく、からかうのでもなく。
 慈しむような彼の声色は、私の穴だらけの身体を埋めていく魔法だ。


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