「あ! 霧藤先輩、おはよう! 澄野先輩も、おはよう!」
明るい過子ちゃんの声に、食堂の入り口に目を向ける。
その日、希ちゃんと澄野くんは遅れて食堂にやって来た。相変わらず「実験」が立て込んでいるらしく姿を現さない面影くんを除いては、全員が朝食を食べ始めていた頃合いだった。
寄り添っていたわけでも、ましてや手を繋いでいたわけでもなかったのに、扉を開けた二人の間に親密な雰囲気が漂っているのが一目で分かる。その手の男女間にある特有な空気に、十代の私達は敏感だ。だからくららちゃんも、「アンタら、二人揃ってどういう事!?」と声をあげたのだろう。前よりは澄野くんへのあたりもいくらか和らいだとはいえ、元々くららちゃんは、希ちゃんが彼に近付くのを極端に嫌っていたから。
朝たまたま屋上で会って、一緒に来ただけ。そう希ちゃんは説明したけれど、くららちゃんは「どうかしらね」と大仰に肩を竦める。けれど私はそのくららちゃんの背の奥にいる、過子ちゃんを見ていた。今日も元気に振舞う過子ちゃんが、どんな表情でいるのかを、じっと見ていた。
「アンタら最近よく一緒にいるし、なんか怪しいのよね……。ねぇ? 」
「えっ?」
突然話を振られて、びくりと肩が跳ねる。緑のトマトマスクは、いつの間にか私の方に向き直っていた。
「えっ? じゃないわよ! アンタ、アタシの話を聞いてなかったわけ!?」
「き、聞いてた聞いてた。希ちゃんと澄野くんの関係が怪しいって話ね……?」
動揺しすぎて、そのまま口にしてしまったのは二人に申し訳なかったけれど。
希ちゃんと澄野くんは、二人揃って困ったような顔をしていた。食堂に入ってきたときに漂っていた特別な空気感はいつの間にか均されていたけれど、その表情がどことなく似ていたのは、やっぱりどうしたって二人を「特別」に見せていた。
――だけど、澄野くんには東京団地に幼なじみの女の子がいるらしい。
蒼月くんが言ったのだ。くららちゃんがあんまりにも澄野くんのことをこき下ろすものだから、澄野くんを庇うみたいに。
その子は、澄野くんにとってほとんど恋人同然の存在と言っていいみたいだった。希ちゃんにそっくりだという女の子。脳裏を過ったのは、第二防衛学園で澄野くんが希ちゃんの手を掴んだあのときの光景だ。あの時から、澄野くんはずっと二人を同一視してしまっていたらしい。「でも今は違う。もう霧藤と彼女を混同したりしていない」。澄野くんの言葉を黙って聞きながら、千切ったパンを口に運ぶ。口の中の水分が奪われて、舌の動きが鈍くなる。
「あいつはあいつで……霧藤は霧藤なんだ」
彼はあの日、希ちゃんのことを、「カルア」って呼んでいた。
希ちゃんの視線は澄野くんの横顔にではなく、テーブルの上に落ちていた。感情を煮詰めて濾過した後に残ったものを柔らかい布でくるんだような目だった。口元だけが薄く笑みの形を作っていた。どこか、諦念めいた表情だった。
希ちゃんは、澄野くんに特別な感情を持っているのかもしれない。――私が面影くんに覚えているのと同じような。
だとしたらきっと今希ちゃんは傷付いているだろうと思うのに、それとは別のところで、「だったら」と思う。だったら、私が二人に抱いた違和感とか澄野くんに引かれた線とかも、そういうことなのかな。
――そうだったら、楽なんだけどな。
「やっぱ、高校生ってすごいんだね」、その声に、自然と視線が吸い寄せられた。少し強ばった頬は僅かに色づいているのに、今日も空っぽ。
「色々と進んでるんだね……!」
感心した様子で口にする過子ちゃんの声は、上擦って高かった。
パンをゆっくり咀嚼して飲み込む。飲みかけの牛乳を手に取ったら、油が混じって浮いていた。
古タイヤの詰まれた駐車場の柱の陰に、過子ちゃんの姿はあった。
座り込んだ過子ちゃんはスクーターに隠れるように収まっていて、もしもここに彼女がいることを知らされていなかったら、見落としていたっておかしくなかった。
「過子ちゃん」
声は、鉄骨の組まれた高い天井に固く反響する。シャッターの下ろされた駐車場は昼だというのに薄暗く、ひんやりとしていた。
スクーターの前に座り込んでいた過子ちゃんはびくりと肩を揺らした。その視線が私を捉えたとき、少しだけ、胸のあたりにある筋を引っ張られたような気がした。
「……先輩」
少し舌っ足らずな幼い声は、余計なものが削ぎ落とされている。
言い終わるかどうかのうちに、過子ちゃんの目にはそれらしい感情がぎゅっと詰め込まれた。空気の詰まった梱包材。人形の身体からこぼれおちた綿。かつて私のクローゼットに詰め込まれた、砂糖菓子みたいなスカート。最近の過子ちゃんの瞳は笑っているはずなのに、そういうものを連想させて空虚だ。
「どうしたの? 何かあった?」
過子ちゃんの言葉に「ううん、何もないんだけど、過子ちゃんとおしゃべりしたいなって思ったの」と首を振り、隣に立つ。過子ちゃんは「わあ」と声をあげると、「いらっしゃい!」と、はにかんだ。冷たい空気には、乾いたゴムと皮、それからどことなく甘い蝋のような匂いが混じっていた。ワックスの匂いだろうか? 澄野くんが過子ちゃんにプレゼントしたスクーターはころんとしたフォルムの深い緑色をしていて、レトロでかわいらしい。
――過子ちゃんだったら、午後からスクーターの手入れをするって言ってたよ。
彼女のことを探して体育館を覗いた私にそう教えてくれたのは、川奈さんだった。
「手入れって言っても、まだ一度も乗ったことはないみたいだから、車体を拭くくらいなんだけどね。一応この間、タイヤの空気圧もバッテリーもチェックしたんだ。勿論エンジンも問題なし! ……こんな状態だし、免許なくても校庭で乗ってみる分にはいいんじゃない? って言ったんだけど、過子ちゃん、まだ良いんだって」
乗ってみたら絶対世界変わるのに。
免許の有無なんて関係なしにバスを運転する川奈さんは、機械いじりだけじゃなくて、乗り物も好きだ。「かっこいいよね」と彼女自身を褒めるつもりで言ったら、スクーターのことだと勘違いされた。二十年ほど前に流行ったモデルで、マニアからも女子からも根強い人気がある車種なんだそうだ。「こんなところでいじらせてもらえるなんて思わなかったよ!」と、川奈さんは喜びに身悶えていた。
「つやつやだね~」
ピカピカの車体は薄いガラスの膜を張ったように、一片の汚れもない。
「うん! そうなんだ! 川奈先輩がワックスを貸してくれて……さっきまで厄師寺先輩が手伝ってくれてたんだよ!」
「え~、厄師寺くんが? やっぱりあの人、面倒見がいいねぇ」
「うんっ! 厄師寺先輩ってすごいんだよ。野良猫のために差し出した傘は五十本を超えるらしいのっ……!」
「雨の日にそんなに野良猫に遭遇することあるんだ……」
身構えられるかもしれないと思ったけれど、隣に座っても良いか尋ねたら、過子ちゃんは大きく頷いてくれた。天井高くに設置された電灯が、ゆっくりと、鈍く点滅していた。
今は車体に塗ったワックスが乾くのを待っているところだったらしい。厄師寺くん曰く完全に乾くのには一、二時間はかかるそうなんだけど、その間に誰かに触られたら困るから、こうして見張っているんだって。
「ちょっと退屈だったから、先輩が来てくれて嬉しいよ」
くすぐったそうに、過子ちゃんは抱えた足を身体に引き寄せて笑う。
これまでの過子ちゃんに比べたらずっと屈託のない、自然な表情だった。それにほっとしていいのかも、本当は分からない。
全体的に丸みを帯びたスクーターはレトロな風貌に反してピカピカに輝いていて、新車同然だ。厄師寺くんがいかに手早くワックスを塗ってくれたか、その手つきがいかに洗練されていたかを熱弁する過子ちゃんを覆う膜は、目に見えないまま厚くなっていく。「厄師寺先輩、本当にすごいの……! 憧れちゃうなあ! 自分もあんなかっこいい高校生になりたいなあっ……!」。綿毛を纏ったまま、どこまでも聞き分けの良い女の子になる。お母さんの腕の中でじっと息をしていた私のように。
過子ちゃんは、ずっと空元気。
「乗ってみないの?」
私の声は高い天井に吸い込まれず反響して、落ちた。
それが過子ちゃんの言葉を止めたと知ったとき、ぎくりとした。だって、そんなつもりで言ったんじゃなかったから。
――でも、本当にそうだっただろうか。私は見ていられなかったんじゃないか。過子ちゃんの放つ空虚さに耐えられなくて、分かっていてざらついたそれを向けたんじゃないか。この子の言葉に継ぎ目を入れたくて。「助けたい」と思っているのに、どうして傷つけるようなことを言ってしまったのだろう。
だって、過子ちゃんがどうしてスクーターに乗らないかなんて、想像なんかいくらでもできたのに。
表情は、剥がれ落ちるというよりも溶けるように消えた。大きな丸い目が瞬いて、無垢な子犬に似た眼差しが私に注がれた。心臓が嫌な音を立てた。謝罪と弁解をしようとする舌が重かった。けれど過子ちゃんが、ふにゃりと力なく笑う方が、早かった。
「乗らないよ」
二人のお父さんの愛車だったスクーターに、過子ちゃんは慈しむような、やわい目を向ける。
美しい横顔は、私の向けたトゲに気付いてはいなかった。薄くなった膜に包まれたまま、過子ちゃんは包んだ膝に顎を乗せる。
「少なくとも、今馬が帰ってくるまでは、乗らない」
祈るような声だった。
不意に、「助けるよ」と言った面影くんの声が蘇る。私の傷を包む光のような眼差し。あれを向けてくれた人が、東京団地にいた。私を守り続けてくれた人。
気がついたら、口を開けていた。大切に抱えていた箱の蓋がずれていて、そこから零れたみたいに。
「私」
口をついて出たその言葉の後に続くはずだったものが、喉の奥で潰れて消える。ううん、潰したのだ。だって誰かに差し出すつもりなんか、なかったから。
過子ちゃんは不思議そうな顔で私を見た。それでも、小さな沈黙の後に「なんでもない」と笑って首を振った私を見て、何も言わずに、私と同じ温度の表情を浮かべるだけでいてくれた。だから、代わりに言ったのだ。はみ出しかけたものを後ろ手で隠すようにしながら。
「それ聞いたら、今馬くん、きっとすっごい喜ぶだろうねえ」
「そうかなあ」と、過子ちゃんはくすぐったそうに笑みを深めると、「そろそろワックス乾いたかなあ?」と立ち上がる。スカートの裾から伸びる白い足は頼りないくらい細かったのに、今はきっと、私の方が揺れている。
私、と、さっきの言葉の続きを口の中で飴玉でも舐めるように転がす。もう遠くなってしまった記憶をたどるようになぞって、額を膝に押しつけてしまいたくなるのを、唇を噛んで耐えた。気付かないうちに、呼吸が浅くなっていた。カーテンの締め切られた部屋で、あの人だけはちかちかと光っていた。膝に爪を立てる。私もね、過子ちゃん。
私にもお兄ちゃんがいたんだよ。
今馬くんみたいに、妹を命がけで守るような。
駐車場の空気は、どこまでも冷たいまま私の身体に纏わり付いていた。明かりを反射するなめらかな車体が、今の私には少し眩しかった。