朝食のトレイを持っていつもの席に向かおうとしていたら、隅の席で食事をしていた蒼月くんと目が合った。
 口元に運びかけていたスプーンを、彼は胸のあたりまで下ろす。そっと目を細めて、人の好い笑みをこちらに向ける。



「おはよう、さん」

「お、おはよう。蒼月くん……」



 青白い血管が透けて見えるほど色素の薄いその肌は、普段よりも血色がいい。昨日図書室で彼の姿を見つけられなかった時は、ひょっとしたら体調を崩してしまったんじゃないかと心配したけれど――きっと単に入れ違ってしまっただけだったのだろう。だったら、良かった。みんなには、怪我も病気もなく、健康でいてほしい。無意識に希ちゃんのことを頭に浮かべてしまう自分に嫌気が差して、こっそり息を吐いた。トレイの上の食器が傾いて、スープが器の縁にそっと痕をつけた。
 思考が生んだ間は、少し不自然な沈黙を生んでしまう。眼鏡の奥の双眸を柔く細めた蒼月くんは、ややあってから「……良かったら、そこ、座る?」と向かいの席を指した。赤い布の張られた、ボックス席のソファ。変に気遣われたことが申し訳なくて、「大丈夫、くららちゃん達と食べるから!」と慌てて断わりの文句を言いかけた時だ。「わあ~! 生キャラメル回鍋肉丼、すっごい合う!」という、過子ちゃんの明るい声が響いたのは。
 振り向けば、中央の席で、過子ちゃんは目を輝かせながら頬に手を添えていた。張り上げた声は、不自然なくらいどこまでも、一定の温度のまま。



「味噌と生キャラメルって、色が同じだから味もしまるんだ! これは世紀の大発見だね……っ!」



 今馬くんの不在を、無理矢理捻りだしたエネルギーで埋めようとしているみたいに。
 笑顔を貼り付けて、声を張って、過子ちゃんはいつも以上に明るく振舞う。狂死香ちゃんに聞いたところによると、昨日は夜遅くまでトレーニングをしていたらしい。口の中に広がる苦みに、そっと眉を寄せる。
 蒼月くんが吐いた小さなため息が、丸子くんの「いや、ぜってぇまずいだろそれ!」という言葉にかき消された。
 トレイを抱えたまま、そっと彼に視線をやった。はっとするほど、思慮深い、感情に満ちた目をしていた。「早く」、蒼月くんの掠れた声が、その場にだけ、静かに響く。



「早く、どうにかしてあげたいよね……」



 その声は重く沈んでいた。銀色のスプーンを握る手は感情を吸い込んで、戦慄いていた。
 彼の手元から、そっと視線を外す。トレイを持つ手に力を込めて、「……うん、ほんとに」と、絞り出すような声を出す。
 どうにかしてあげたい。
 どうにか。
 壁一面の巨大水槽を泳ぐ魚の影が、微笑みを携えた蒼月くんの頬に、濃い影を作って揺らめいていた。「おいしー!」と連呼しながら口いっぱいに頬張る女の子があんなに痛々しいなんて、私は知らなかった。








 面影くんが食堂の扉を開けたのは、みんなが粗方食事を終えて、席を立った後のことだった。
 丁度食堂を出て行くところだった厄師寺くんは、気配もなく現れた彼によほど驚いたのだろう。「うおっ、びっくりさせんな面影! 心臓とまんだろーが!」と肩を跳ねさせて距離を取ったのに、面影くんはそっと手を伸ばして、彼の開いた胸元に指先を添えた。
 ガタイのいい厄師寺くんは上半身を僅かにのけぞらせたまま「あぁ……!?」と声を漏らし、明らかに怯んだ目で、小柄な面影くんを見下ろしている。
 ……傍から見ていても、なんだか妙な構図だった。
 沈黙を破ったのは、面影くんの吐いた小さな笑い声だ。「ふふ」と、彼は吐息を漏らす。



「……心臓、動いてるね?」

「き、きめえなオメー……! 勝手に触んじゃねえよ!」



 ほんとに、そう――。
 困惑の混ざった怒りを纏って廊下に出て行く厄師寺くんに、心の中で謝罪する。面影くんと同じ第二防衛学園出身の身として、申し訳ない気持ちになってしまった。
 面影くんと入れ替わりで厄師寺くんが去った食堂には、私と飴宮さん、それから銀崎くん、丸子くんがいるだけだった。さっきまでくららちゃん達もいたけれど、息抜きに映画でも観ると出て行ってしまったのだ。食べ終わったら私も合流させてもらう約束をしていたけれど――どうにも食が進まない。冷めたスープはごろごろの具をいくつも浮かべていたし、サンドイッチはかじった痕を残したまま、お皿に力なく倒れ込んでいた。
 面影くんは私の存在をみとめると、「おはよう、ちゃん」と、向かいの席に食事を置いた。彼からは、学校の保健室を煮詰めて瓶に詰めたような、甘い匂いがした。



「おはよう、面影くん。……今日、もう来ないのかと思った」

「流石に食事くらいは摂らないとね。本当は昨日みたいに向こうで食べられたらいいんだけど……実験の段階に入っちゃったから、流石にね」

「へえ……そういうもんなんだ?」

「ふふ……そういうもんなんだよ。殺っかいなことにね」



 薬の開発に関しては、「一般的な」高校生がそうであるように、全くの門外漢だ。きっとそれを分かっていて、面影くんもそれ以上、詳しく話をしようとしないのだろう。



「じゃあ、差し入れとか持っていかない方が良い?」

「そうだねえ。気持ちは有り難いけれど……遠慮しておくよ。お腹が空いたらこうして来るから、気にしないで?」

「そっかぁ……わかった」



 倒れたサンドイッチを手に取って、小さく齧り付く。相変わらず胃は重たいけれど、向かいに座る面影くんが食事を摂るなら(小鉢付きの焼き魚定食だった)、それを見守るだけでいるわけにもいかなかった。
 面影くんは、実に器用に魚の骨を取る。箸使いも丁寧で、食事をしているというよりは、何かの儀式をしているみたい。小鉢には、ひじきの煮物。お椀に入ったお味噌汁は、わかめと油揚げが浮かんでいた。味噌の香りは、いつまでも鼻腔にこびりついていた生キャラメルの香りを上書きする。すっかり平らげた後、「トレーニングに行ってくるね!」と声を張り上げ、満面の笑みで私達に手を振った年下の女の子が、くっきりと浮かび上がる。
 それだけで、上手く息ができなくなるのだ。
 サンドイッチを咀嚼する口が、ゆっくりと止まる。味がわからなくなる。口の中の水分を奪うそれを、やっとの思いで飲み込む。
 ――あの子がこれ以上傷付くのだけは、絶対に嫌だ。
 そのために、私にできること。今は待つしかない。そして今馬くんを取り戻す機会が巡ってきたその時、彼を今度こそ救い出すのだ。でも、できるのかな? 自信がない。だって、上手くいかなかった。
 サンドイッチが押しつぶされる。指の形に、ぬるくへこむ。面影くんの箸が、ふと、視界の端で、何かに引っかかるように止まる。面影くんが座るそこは、さっきまで、過子ちゃんの座っていた席だった。
 目蓋の裏で、ちかちかと鈍い光が明滅していた。イチゴジャムとゴーヤーの乗ったハンバーグ定食。私を引いた白い手。ブチ悪影響だと罵られたこと。紙の匂いの充満する部屋の片隅で、小さくなっていた女の子。私の書いた手紙。笑った今馬くん。開かないピアノの蓋。消毒液の匂い。カーテンはいつも閉じられていた。私の頭蓋に伸びたやわらかい手。泣かないで。目に見える部分だけを整えた。すべてが満ち足りていて、すべてが欠けていたあの家のように。そうしていれば、「選んでもらえた」。
 回転の速度は徐々に速まって、過去と今を混ぜ合わせる。コーヒーに浮かぶミルクみたいに。混ぜているのは、私だ。私がこの手で、本来は重なりあいすらしないものを縫い合わせている。そうすることでしか、だって私はあの子を救えない――。
 浅くなった呼吸の合間、不意に「ちゃん?」と呼びかけられて、顔をあげた。私を現実に引き戻すのは、面影くんの目。



「――大丈夫?」



 眼帯のなされていない方の右目には、憔悴しきった顔の私がいる。
 短く息を吐く。彼の背の奥にある水槽は青く、まるであの部屋のようだった。だけど――だけど、ここは東京団地じゃない。
 欠伸をした飴宮さんが、グミの封をして立ち上がったのが見えた。遠くで電動工具の甲高い回転音がしていた。引き戻される。もう慣れた椅子の感触。お味噌汁からのぼる湯気、仄かな香り。その先でぼやけているのは、さっきまで蒼月くんが座っていたボックス席だ。「どうにかしてあげたいね」と言っていた。思いやるような、痛みに耐えた顔で。けれど、彼だけではない、みんな、空元気で過ごしている過子ちゃんのことを心配していた。
 面影くんが、何か遠くにあるものを見透かそうとするように、僅かに目を細めて私を見る。



「……過子ちゃんが心配?」



 思いやるような声を聞いたその瞬間、薄く張っていた氷をその指で撫でてもらえた気がしたのだ。
 音もたてずに箸を置く。この場所で、私達はあの日、閉じこもった過子ちゃんのために料理を作った。
 テーブルに肘をついた彼は、君の番だよと目だけで言う。上手く声を出せる気がしなくて、舌だけを動かした。扉の閉まる音がした。いつの間にか食堂には、私達しかいなかった。



「……心配」



 掠れた言葉は、面影くんに、かろうじて届くくらいの声量で、口の中から零れ落ちた。
 心配。心配なのだ。過子ちゃんだけじゃなくて、今馬くんも。
 サンドイッチは毛羽だったように乾いていた。胃は重く、口内には粘つくような苦みが広がっていた。面影くんは何も言わない。心細くなって、顔を上げた。彼は私から目をそらすことなくいた。最初から、そうだった。喉に空気が張り付いて、嗚咽のような音が漏れる。



「助けられるかなあ?」



 あの子を泣かせずにいられるか。
 口にしなかった問いかけに、面影くんはどれくらいの間沈黙していただろうか。
 工具の音は止んでいた。水槽の魚影は岩場の裏に隠れて、海藻だけがゆらめいていた。そっと視線を落として、握りっぱなしだったサンドイッチをお皿に置く。バランスが崩れて、音を立てて倒れるそれは、私みたいだ。胸の内側が重く淀んで、息ができなかった。過子ちゃんがあんなに気丈に振舞っているのに、どうして私は、真っ直ぐ立てないのだろう。髪が落ちて、視界が狭まる。俯いたまま息を吐きかけたとき、ふと何かが額に触れたような気がして顔を上げた。
 私の髪を払う、整えられた爪の先。
 晴れた視界の先で、面影くんはそっと目を細めていた。笑みの形になりきる前のそれを、私は昔、東京団地で向けられていた。
 毎日。



「助けるよ」



 どうして面影くんは、私の欲しい言葉を知っているのだろう。
 面影くんの指が離れていく。温度を失った私の皮膚は、痛みに似た感覚を訴える。泣きはしなかった。ただ、胸は爛れたような熱を持っていた。
 見透かした上で、包み込むような目をする人だった。だから私は、彼のことが好きだった。


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