「……そっか、向こうで戦闘もあったんだね」



 窓のない食堂でも、朝の気配はあちこちから滲み出る。
 厄師寺くんの大きな欠伸から。銀崎くんの帽子からはみ出た寝癖から。早起きした誰かが食べたらしい、ウインナーの残り香から。
 澄野くんからの説明が一通り終わった後「……大変だったね」と気遣いの言葉を向けてくれた川奈さんは、居残り組のみんなの中でも、私達のことをとりわけ心配してくれていたのだろう。目が合ったから、大丈夫、の意味を込めて、小さく頷いた。川奈さんがそっと目を細めてくれたのは、嬉しかった。
 ――侵校生の基地を殲滅した私達が学園に戻ってから、すでに一夜が明けていた。
 三時間の睡眠(あんまりにもぐっすり眠っていたものだったから、約束の時間に起こせなかったのだ)から目を覚ました厄師寺くんの運転するバスが炎の壁を抜けた時、もうすっかり陽は落ちていて、いくつもの星が冥色の空に浮かんでいた。夜風は乾いていて、あの基地周辺に漂っていた古い油や土の混じり合った匂いは、遠かった。駐車場まで出迎えてくれたみんなの――くららちゃんや面影くんの顔を見た瞬間、それまで張っていた肩の力が一気に抜けたのを、一晩経った今でも覚えている。



「……でもよ、これからどうやって今馬を取り戻すつもりだ?」



 丸子くんが、尤もな疑問を投げかける。発信機を取り付けていた捕虜さんがいない以上、私達に今馬くんを探す手掛かりは一つもない。
 テーブルに両肘をついたまま、「う~ん……」と唸りつつも真剣に今後のことを考えかけた時だ。食堂の隅のカウンターに腰を預けていた面影くんが、「まぁわざわざ探さなくても、向こうから今馬君を連れてくる可能性もあるけど」と口にしたのは。



「……向こうから?」



 聞き返した言葉は、澄野くんと一言一句違わずに、綺麗に重なった。私達の言葉は、こうして良く合わさる。



「そう。……今馬君を利用する為にね。その為に、侵校生は彼を連れ去ったんじゃない?」



 もこちゃんのことが思い出されて、胸が軋む。
 あの時と同じ能力を持った部隊長がいるとは考えにくい。侵校生は何か別の手段でもって彼を利用するつもりじゃないか、というのが面影くんの推論だった。
 つまり今馬くん奪還のチャンスは、侵校生が再びこの学園を攻めてきた時にある。防衛のことも考えれば、今は私達から動くのは得策ではない――。
 口を挟む余地もない正論に、舌の根が乾く。私達には選択肢がないことを、誰もが知っている。ここにいたはずの今馬くんが遠ざかって、薄い靄の中に薄れていく。



「過子ちゃんは……それでいい?」



 その声に、我に返って顔をあげた。もうすっかり顔色の良くなった希ちゃんに水を向けられた過子ちゃんは、僅かな沈黙の後、はっきりと頷いた。「本当は……すぐにでも探しに行きたいけど、どこにいるかもわからないし……」と、そう前置いて。



「自分は今馬を助けられるチャンスが来た時の為に、もっと強くなっておくよ」



 もっともっと頑張って、もっともっと強くなる。
 そう宣言した過子ちゃんの双眸は、今馬くんが浚われた直後の彼女のそれと違って、どこまでも強く、真っ直ぐだった。
 呼吸がしにくくて、無意識に、鎖骨の間に手を触れた。








「それにしても、アンタ達が無事に帰って来てほっとしたわ」



 巨大冷蔵庫の稼働音が床を這って微かに響く食堂で、くららちゃんは湯気の立ち上るティーカップを片手にそう口にする。「心配してくれてありがとう」とくららちゃんの淹れてくれた紅茶を飲みながら返す私に、彼女はいつも通り、居丈高に鼻を鳴らした。



「アタシの知らないところでアンタ達に死なれたら、寝覚め悪いじゃない」



 それがくららちゃんなりの優しさなのだということも、知っていた。
 身体の奥に落ちていく優しい温度に、小さく息をつく。その吐息は、今は何の音にも紛れない。
 話し合いが一段落ついたとき、昨日の疲れが残っていたのか、蒼月くんは食欲がないと言って、何も食べずに図書室に向かってしまった。一方で過子ちゃんや厄師寺くん、狂死香ちゃんはあっという間に食事を済ませるとトレーニングに行くと言って食堂を出て行った。やがて他のみんなもそれぞれ食堂を後にして――今、ここに残っているのは私達二人だけだ。
 くららちゃんの隣の席に残された空のカップに、無意識に視線をやる。ついさっきまで、ここには希ちゃんもいた。とりとめのない雑談をしていたけれど、何か約束があるらしくて、時計を気にしながら「そろそろ行かないと」と彼女が席を立ったのは、今から五分ほど前のことだった。
 澄野くんかな、と思うのは、さっきの話し合いの中で、二人が何か話をしていたのを見たからだ。
 私が気にすることじゃない、と思うのに、頭の隅にどうしても引っかかる。希ちゃんの熱。あの日階段で線を引いた澄野くん。できないと言っていたはずなのに、基地で部隊長にトドメを刺したこと。ふらふらになりながら戦っていた希ちゃんは、あの後すっかり顔色が良くなっていた――。



「まぁ、でも希も元気になったみたいで良かったわ」



 くららちゃんの言葉に、肩が揺れる。
 くららちゃんは、希ちゃんのことをずっと心配していた。出発前から、ずっと。出迎えてくれたときも、希ちゃんの体調が良くなっていることにいち早く気がついたくらいだ。
 もしも、もしもくららちゃんに、私の中で渦巻いている不安の種とも呼べないものを差し出したら、一体どうなるだろう?
 想像してみて、すぐに、だめだと思った。くららちゃんはきっと、私の胸の裡にある名前のつかない感情を引き受けて、澄野くんに向ける。そうして事情も関係なしに、二人の秘密を引きずり出そうとする。私は誰かを責めたいんじゃない。確かめたいわけでもない。二人の間にある箱を開けて、ここに並べろと詰め寄りたいわけではない。無意識に、カップを持つ手に力がこもる。冷め始めた琥珀色の液体に浮かぶ影が、揺れる。
 ――だったらやっぱり、私自身が見て見ぬふりをするべきだ。



?」



 黙りこくったままの私を不審に思ったのか、くららちゃんが不思議そうに私を見て「どうしたのよ」と首を傾げた。胸にたまった膿を出し切るように、細く長い息を吐く。向かいの席に座るくららちゃんの胸元を見たまま、「なんでもないよ」と言った。私の声は、掠れて小さい。咳払いを一つして、ことさら明るい声を出す。



「希ちゃんの体調が良くなって、ほんとによかった」



 だって、今はそれだけで、充分なんじゃないだろうか?








 面影くんは「薬の開発をしているから」と、食事を持って生物薬品室に籠もってしまっていた。
 一体何の薬なのかはさておいて、彼の作業を邪魔するのもよくないだろう。狂死香ちゃんに私を守るよう言ってくれていたことのお礼を伝えたかったけれど、日を改めることにした。
 少し迷って、図書室に向かうことにした。他に行き場が思いつかなかったのだ。
 未だ取り戻せない今馬くんのこと、死んでしまった捕虜さんのこと、希ちゃんのこと――私の胸を重くするそれらから、少し距離を置きたかった。
 自室から持ってきた、まだ半分しか読めていない本を小脇に抱えて、図書室の扉を押し開ける。そういえば、蒼月くんが図書室で調べ物があるって言っていたっけ。もし理解が難しい部分があれば、前みたいに、彼に教えてもらえたらありがたいな。人と話すのは億劫だけど、他者との距離感を適切に保ってくれる彼なら、そんなに気を遣わずにいられるかもしれない――籠もった紙と埃の匂いが廊下の空気と混じって薄くなる。遠くで誰かの足音がする。図書室に一歩足を踏み入れて、蒼月くんを探すために顔を上げた。立ちくらみのような一瞬の目眩の後、喉の奥から声が漏れる。
 人の気配がない。



「…………あれ?」



 ぼやけた灯りが、等間隔に並べられたテーブルの木目を仄かに照らしていた。中央に置かれた、待機画面が表示されたままのPC。天井からぶらさがった巨大な球体のオブジェはゆっくりと回転して、しんと静まりかえった室内に緩く模様を描いている。
 壁の全面を書棚で埋め尽くされた図書室に窓はなく、空気はじっとりと籠もって、湿っていた。まるで数日間、ここを訪れた人間がいなかったみたいに。



「……蒼月くん?」



 蒼月くんの姿は、どこにもなかった。
 腕から力が抜けたらしい。脇に挟んだ本が音をたてて足下に落ちたのに、咄嗟に「わ」とあげた声が、がらんどうの図書館に吸い込まれていった。


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