山岳地帯を切り開いた場所にある侵校生の基地は、いくつかの複雑な形状をした建物群からなっていた。
蒼月くんの声がしたのは、誰も足を踏み入れずにいた、最奥にある建造物の裏手側。私達が駆けつけたとき、彼はその手をぎゅっと握りしめ、無言で立っていた。そうしていないと、バランスを保っていられないとでも言うみたいに。
「ど、どうしたんだ、蒼月」
張り詰めた澄野くんの声が、辺り一帯に落ちていく。
水分を吸った地面はやわく、逃れるみたいに足を出せば、朝露に濡れた草がふくらはぎに触れた。建造物で入り組んだこの場所は、朝陽が遮られ、ひっそりと冷えている。「蒼月くん」、思わず口にした彼の名前は、縋りつくような音をしていた。
心臓がばくばくと音を立てて、うるさかった。背の高い蒼月くんの身体の奥にある暗がりに、何かがあった。それを直視したら、自分の中で何かが音を立てて崩れてしまいそうな気がした。耳鳴りは、警報音のように響いて私の判断を鈍らせる。それでも追いついた過子ちゃんの視界を塞ぐように、彼女の前に立った。そこにある何かが、過子ちゃんを苦しめてはいけないと思ったから。
蒼月くんが、指をさす。
切り立った崖と、コンクリートの構造物に囲まれた物陰に、「それ」は、背を預けるようにしてもたれかかっていた。
私はそれが最初、実体のない何かの影に見えたのだ。
けれど、違う。私は何度も同じものを見ている。目の前で、何度も、何度も。その成れの果てを。
背筋がぞわりと粟立った。内側に折りたたまれた右足。右腕は、身体を守るように腰のあたりに置かれていた。落ちくぼんだ眼窩は何も映さず、口はぽっかりと空いたただの穴。砂埃に似た乾いた臭いが鼻をついた瞬間、緩やかな吐き気が喉の奥からこみ上げた。
足下に落ちていた小枝が、ぱきりと音を立てて割れる。
「ちょうど今……見つけたんだけど……」
蒼月くんの指の先には、死体が転がっていた。
――我駆力を吸収され枯れ果てた、黒いミイラだった。
あのミイラを発見してから数時間後、厄師寺くんの運転するバスは、私達を乗せ、最終防衛学園へとひた進んでいた。
荒れ果てた道は、車体ごと私達を大きく揺らす。人数分の疲労を含んだ空気はじっとりと重く、バスの底の方に沈殿していた。山道を下り、砂地を走り、廃墟となった街を抜けていくのに、心だけがあの基地に置き去りになっているみたいだった。
会話は、ほとんどなかった。時折銀崎くんのため息と、鼻を啜る微かな音だけが響いていた。私達は唇を引き結んだまま、流れていく窓の向こうの、灰色の景色を見ていただけだった。
――そうして、どれくらい走ったか。
「あー……。……わりぃ、ちっとばかし休憩させてくれ。目ぇ開けてらんなくなってきやがった」
日の位置が空の真上に来た頃に、厄師寺くんはバスを一度、道の端に停めた。停止したエンジンに、遠くにいっていた意識が引き戻される。鉛筆を無理矢理折ったようなビルの残骸が窓の向こうにある、オフィス街のような場所だった。飛び散ったガラス片が、日差しに晒されて、無防備に光の粒を散らしていた。信号機は折れ曲がり、風雨に晒された瓦礫は乾いた泥がへばりついていた。割れたアスファルトの隙間から伸びた雑草だけが、生き生きと輝いていた。
「一時間したら起こしてくんねーか? ……流石に限界だわ」
「勿論だよ! ……運転を代わってあげられなくてごめんね、猛丸クン」
「昨日から、ずっとだもんね。ほんと、一時間と言わずいっぱい休んでほしい……!」
欠伸混じりに口にした彼の言葉に返事をしたのは、私と、斜め前の席に座っていた蒼月くんだけで、それで私は初めて、他のみんなが眠っていたことを知った。振り向けば、狂死香ちゃんも、彼女の隣の席に座っていた希ちゃんも、肩を寄せ合って小さな寝息を立てていた。
「馬ぁ鹿、一時間でいーっつの」と運転席で伸びをした厄師寺くんは、よっぽど眠かったのだろう。ダッシュボードにサングラスを放り、そのまま椅子にもたれかかると、十秒もたたずに寝息を立て始めてしまった。
走行音の消えた室内は、みんなの呼吸音だけが響いていた。無防備に放られた過子ちゃんの頼りない手首が、座席の隙間から見えた。
「…………さんは、眠らないの?」
不意に声をかけられて顔をあげれば、蒼月くんがこちらを振り向いていた。
昼間だというのに、車内はひっそりと翳って、椅子も、床も壁も、全体的に青白かった。厄師寺くんが、日陰になるところにバスを停めてくれたからだ。蒼月くんの肌は透明で、血管が薄らと透けて見えた。眼鏡の奥の双眸は、こんな時でも、穏やかで優しかった。
「……なんか、眠くなくて」
勿論、身体は重かった。冷静に考えなくたって、昨日から今日までに起きた様々なことを思えば、むしろ何もかもを手放して眠りに落ちる方が自然だった。けれど、頭だけは妙に冴え冴えとしていたのだ。
膝の上に置いた手のひらを、開いたり、閉じたりする。その中に、ふと、黒い影が見えた気がして、思わず目をそらした。あのミイラの肢体が、ありありとその内側にあるように思えた。
「……蒼月くんは? ……寝ないの?」
逃げるように問いかけた私に、「……うん。ボクも」と、蒼月くんがため息のような音で口にする。困ったような笑顔だった。
「……ボクも全然、眠くないや」
前の席で、澄野くんの頭ががくりと傾いたのが見えた。四角く切り取られた窓から差し込む光の筋が、バスの中の塵をちらちらと閃かせていた。後ろの方で、狂死香ちゃんが「だ、だめでござるよ、聖十文字刀……」と寝言を言っているのが聞こえる。蒼月くんの座る席のすぐ近くの窓は少しだけ開けられていて、そこから柔らかな風が吹き込んでいた。バスの中はこんなにも穏やかで優しいのに、私達から伸びる影は、じっとりと粘ついている。
――あの基地で、今馬くんを見つけることはできなかった。
あの場所に残されていたのは、蒼月くんが発見した、一体のミイラだけ。
女性の形を保った、あの遺体。
「……大変だったね、本当に」
ぽつりと零すように、蒼月くんは口にする。
彼の色素の薄い髪は、窓の隙間からの風を受けて、微かにそよいでいた。「第一発見者」である彼は、間違いなく私と同じ記憶を見ていた。
あの人は、基地の片隅に、我駆力を吸い尽くされ、打ち捨てられるようにして死んでいた。
枯れ木のような身体になっても、その背丈にはどことなく覚えがあった。
「そう」とわかった時の、銀崎くんの、魂の抜けたような顔を、どうして忘れることができるだろう?
「…………いくら今馬くんじゃなかったって言っても、仲間割れの果ての死体なんて……気持ちいいものじゃないよね」
蒼月くんの声は、深く沈んでいる。
――あのミイラが今馬くんでなかったことは、私達にとっては間違いなく幸いだったのだ。だって、同じような死体がどこにも見当たらなかった以上、彼はどこかに「生きた形で」連れ去られたということになるから。生きていてくれることが、過子ちゃんにとって、私達にとって、唯一の救いだった。あの凄惨な遺体を見た後では、どうしたって、そう思えた。
掠れた声で「……うん、ほんとに」と、短く答え、唇を緩く食む。そうしないと、余計なことを口にしてしまいそうだった。
我駆力を吸い尽くされ、彼女は死んだ。
仲間同士の揉め事か、裏切りか。あるいは一度私達特防隊の捕虜となった罰なのかは分からない。けれど、頭を殴られたような気がした。喪失感に打ちのめされていた。感情の整理ができていなかった。鼻を啜れば、あの場所の空気の冷たさを、匂いを、脛を撫でた草の感触を、思い出した。丸く開いた口を。骨と皮だけになった指を。
――敵同士だった。言葉も通じなかったし、名前も知らなかった。
だけど、きれいな人だったのだ。
窓の外に目を向ける。荒廃したビル群の、崩れた瓦礫の隙間から、彼女の瞳の色に似た小さな花が咲いているのを見る。
狂死香ちゃんは彼女を悪だと切り捨てていたし、銀崎くん自身も認めていたように、彼女が今馬くんを連れ去った張本人であることも間違いない。――けれど、それでもあの日、銀崎くんと、あの人と、三人で向かい合っていた時間だけは、忘れたくなかった。光の差し込む、あの美しい中庭の檻の中。深い悲しみをたたえた瞳は、もうどこを探してもない。
湿った空気が、バスの中に落ちている。
「…………もう少し、窓を開けておけば良かったなぁ」
ぽつりと吐き出された、小さな声だった。
風にそよぐ花から視線を逸らした。少しだけ傾いた陽が、窓に寄せた私の頭蓋を温く照らしていた。わかってあげられたらよかった。そう思うこと自体――きっと傲慢なことだった。