「しかし、帰ってきたと思えばまた昼には出発とは……殿は、休む暇もないでござるな!」



 芳醇なカレーの匂いに包まれる食堂の、中央にある長机の隅っこの席。よく煮込まれたごろごろのジャガイモを口に入れた瞬間、向かいに座った狂死香ちゃんに至極真面目な顔でそう言われた。
 忙しないのは私だけじゃないし、昨晩は帰ってきてからちゃんと休んだよ。そういう否定の言葉を口にしようとして、だけどできなかったのは、そのジャガイモが口内の粘膜を剥がしてしまいそうなほどに熱かったからだ。声にならない声をあげながら、慌てて水の入ったコップを手にして、何もかもを薄めるみたいに流し込む。水のおかげでどうにかほどよい温度になったジャガイモを、コップを手にしたまま咀嚼して飲み込むけれど、視界は涙で滲んでいた。上顎の部分と舌が、ひりひりと痛い。



「急いで食べるからよ。……まったく、卑しいわね。流石だわ」



 調理場の方にいるくららちゃんに眉をひそめられて、つい、「だってずっとお腹空いてたんだもん……!」と言い訳してしまうけれど、実際、昨日はほとんど食事らしい食事をしていなかった。バスに持ち込んだ携帯食料では、満腹にはほど遠かったのだ。
 そうだよねえ? と昨日一緒にバスに乗っていたみんなに確認したかったけれど、作戦会議を終えた直後の食堂には、銀崎くんも過子ちゃんも川奈さんも――それから澄野くんの姿もない。「ごっそーさん!」と朝食を平らげた厄師寺くんが食堂を出て行けば、長机に座っている私達とくららちゃんしか、食堂には残らなかった。
 仕方なく気を取り直して、スプーンでカレーを掬う。ルーに包まれたつやつやの人参と輝くお米に慎重に息を吹きかけて、口に運ぶ。頭の芯が痺れるほど濃厚な味わいが口いっぱいに広がって、昨日の疲れも緊張も、緩く解けていくような気になる。つい目を細めてしまったときだ。隣の椅子に座っていた面影くんが、小さく笑ったのは。



「……案外おっきいよね。ちゃんのお口」



 なんでも入っちゃいそうだなあ。
 艶めかしく細められたその目に、ほとんど反射で、ごくりとカレーを飲み込んでしまった。「なんでもって、なんでもでござるか!?」と狂死香ちゃんが妙な言い方をしたのと、「言い方がキモいのよ! 面影!」とおたまを振りかざしながらくららちゃんが叫んだのとで彼の視線がそちらに向いたから、なんとか苦笑いを浮かべることができたけれど。
 コップの結露がゆっくりと垂れ落ちて、テーブルに染みを作る。くららちゃんの作ったカレーは、咀嚼が不十分でも、南国にいるみたいな、濃いフルーツの味がする。








 敵の基地らしきものを発見した私達が最終防衛学園に戻ってきたのは、昨晩の、夜もすっかり更けた頃だった。
 ただ大人しく座っていただけとは言え、丸一日のバス移動で、身体はすっかり凝り固まっていた。今すぐみんなを起こして会議をしようと涙ながらに訴える過子ちゃんをどうにか宥めて彼女の部屋に送り届け、それから自室に戻ると、酷い倦怠感に耐えきれず、ほとんど気絶するみたいにベッドに倒れ込んだ。張り詰めていた緊張が、そこで初めて音を立てて切れたのだ。
 どこまでもバスに揺られ続けているような感覚は、すぐに遠のいた。夢も見なかった。目を閉じて、次に開けたら、もうロールカーテンの隙間から、白んだ朝陽が零れていた。
 ――朝の作戦会議で、基地に乗り込むメンバーを決めるときに一切の躊躇がなかったのは、そうする以外の選択をはじめから排除していたからだ。
 攻撃部隊に志願したのは、澄野くんと銀崎くんと過子ちゃん、私。それから厄師寺くんと、蒼月くんの六人だった。
 川奈さんは「私も心配なんだけど……ごめん。こっちの守りを無視する訳にもいかないし……」と歯切れ悪く口にしていたけれど、それも無理はないと思う。丸子くんが漏らした通り、「蘇生も使えない状況で基地に乗り込むなんて、自殺行為」なのだから。それに学園を守ることが本来の最重要任務である以上、無理強いなんてできなかった。
 たったの六人であれだけの数の侵校生を相手にするなんて。弱気な口調で呟いた銀崎くんに、過子ちゃんは「別にいい」と、小さく首を振った。



「自分は何があっても……絶対に今馬を助ける……」



 あの時の過子ちゃんの横顔は、今も目に焼き付いたまま。



「大切な……お兄ちゃんだもん」



 気がついたら口の中で、同じ言葉を反芻していた。








 出発は、その日の昼に決まった。
 それまでは各自準備に充てようと言ったのは蒼月くんで、だから私は今こうして、昨日の空腹を補うようにカレーを食べている。お皿に残ったルーを丁寧にスプーンで掬って、最後の一口を味わって、それから小さく息を吐く。



「……でも、希ちゃんもお話ができるくらいに元気になったなら、よかったあ」



 希ちゃんは朝の作戦会議には出てこられなかったけれど、くららちゃんに「澄野くんと話がしたいから呼んでもらえないか」って頼んでいたらしい。それで、今澄野くんは希ちゃんの部屋に行っている。高熱があるって聞いたときは心配したけれど、起き上がって人と話せるなら一安心だ。
 ごちそうさまでした、と両手を合わせてから言った私に、くららちゃんが鼻を鳴らした。



「あんな変態と二人で会うなんて、希もどうかしてるわよ。……希に何かしたら、狂死香に斬り落とさせてやるわ。首も、大事なとこもね!」

「うむ。変態は容赦なく斬り落とすでござる。我が最愛の聖十文字刀でな!」

「ふふふ……そしたら私も蘇生マシーンに入れちゃう前に、澄野君の指の一本くらいもらっちゃおうかな?」

「やめてっ……!」



 三人とも、本当に好き勝手なことを言う。あの澄野くんが希ちゃんに変なことをするなんて、どう考えたってないだろうに。
 ――私達の知らないところで、二人が何かを抱えているような気がするのは、なんとなくわかるけれど。
 目蓋の裏に、あの日の澄野くんが蘇る。階段の踊り場で、私を見下ろしたあのやわい目。窓からの光を背負った彼の輪郭は淡く透けていてあんなにも優しく見えたのに、彼はあの瞬間、はっきりと私との間に線を引いた。あの時彼が言った「悪い」は、本当は別の、私からは見えない部分に向けられたものだったのかもしれなかった。








「あれ?」



 これから体育館でトレーニングをするという狂死香ちゃんと、生物薬品室に寄っていくという面影くんと別れた私とくららちゃんが、希ちゃんとばったり出くわしたのは、屋上だった。
 自室から出て来た希ちゃんにくららちゃんが「希!」と声をあげて駆け寄ったのを、慌てて追いかける。雲の切れ間から光芒が漏れて、尾のように伸びていた。希ちゃんの色素の薄い髪が光を吸って、仄かに輝いていた。



「希! 大丈夫だった!? 澄野に変な事されてないでしょうね?」

「あはは…………。大丈夫だよ」



 もう澄野くんとの話は終わっていたらしく、彼の姿はどこにもない。
 元々色の白い希ちゃんの肌は、日の光の下で一層透けて見えた。髪を耳にかける青白い血管の浮かぶ手は前よりもどことなく、細くなったようだった。「希ちゃん」、と声をかけると、その瞳が私を見た。
 希ちゃんの目は、誰かの悲しみを吸ったような、深いすみれの色をしている。



「起きてても平気なの? 倒れたって聞いて、心配してたんだよ……」

ちゃん……。心配かけちゃって、ごめんね。でも、もう大丈夫。熱もだいぶ下がったんだよ?」



 でも、四日も寝込んでいたのだ。すぐ本調子というわけにはいかないだろう。
 明るい笑顔を浮かべる希ちゃんの瞳の奥に、微かな翳りがあるように思えた。呼吸音というよりは、ため息のような吐息がその口の端から零れる。無理しているんじゃないだろうか。やっぱりもう少し休んでいた方が――そう言いかけたときだ。希ちゃんが、「それより、澄野くんに聞いたよ。今馬くんの居場所がわかったって」って、真っ直ぐに私に向き合ったのは。
 ――そういえば、二人は一体どんな話をしたんだろう。希ちゃんがわざわざ澄野くんを呼び出してまで話したかったことって、一体なんだったんだろう。やっぱり、二人だけが抱えている「なにか」に関することなのかな。
 尋ねる気なんてはなからない疑問だったけれど、それでもそれは、氷が熱されたフライパンに乗せられたみたいに、あっという間に消えてしまった。
 希ちゃんは、自分の胸の前でぎゅっと拳を握りしめる。私に一歩歩み寄ると、一転、身体の不調など感じさせない声色と表情で、「わたしもついていくよ」って、言ったのだ。



「――今馬くんを助けられるかもしれないなら、わたしも一緒に戦う!」



 こんな時でも持ち前の正義感を掲げる希ちゃんに、くららちゃんが「はぁ?」って漏らしたのも、無理はなかった。


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