「総員、起床時間だよー!」



 SIREIさんの声に、顔を洗う手を止めた。
 滴る水が床に落ちないよう注意を払いながら、手探りでタオルをとる。



「なんと! 最終防衛学園での生活が、七十日目を迎えましたー!」



 いつもとは少し違うアナウンスだ。こういうのは、時々ある。節目節目で、メッセージが変わるのだ。ロックの日にちなんだアナウンスをしていた、昨日みたいに。タオルで顔を押さえつつ、モニターの見える位置に移動する。つい、聞く姿勢を取ってしまう。
 画面の中のSIREIさんは、たまに見せるスーツ姿でそこにいた。シャンパングラスを片手にその短い足を組む彼は、「これで残り三十日だね! みんなもようやく終わりが見えてきたんじゃない?」と殊更に明るい声色で口にする。



「さぁ、人類の救済までもう少しだよ! 希望を胸に張り切って侵校生をぶっ倒そうね!」



 人類の救済まで、もう少し。
 仰々しいその言葉を口の中で反芻したその瞬間、モニターはぶつんと音を立ててブラックアウトした。
 暗くなった画面が、部屋の中で立ち尽くす私の姿を映していた。迷子の子供のような顔をしていて、咄嗟に目をそらした。
 ここでの生活も、今日でもう七十日目。
 三十日が経てば東京団地に帰れる、っていう希望が、どうしてか、今の私にはくすんで見えている。








「あ、先輩!」



 階段を下りているときに呼び止められて振り返れば、過子ちゃんの姿があった。
 昨日の彼女と変わらない溌剌とした表情に、どこか強ばっていた肩からふっと力が抜けるのが分かる。「過去ちゃん、おはよう」、そう口にする私の隣まで階段を駆け下りてきた過子ちゃんに「うん、おはよう! 食堂だよね? 自分と一緒に行こう!」とその目を細められ、頷いた。過子ちゃんが元気な様子であることだけが、今の私には嬉しかった。



「お腹空いたなあ……。今日はね、力をつけようと思って……大トロのイチゴソース焼きにしようかなって思ってるの……! そうだ、先輩にも作ってあげようか!?」

「ん……イチゴソース抜きにしてもらってもいい……?」

「えっ、そんなのだめだよ! イチゴソースが味の決め手なんだよ? マリアージュってやつだよ……!」

「そっかぁ……マリアージュなのかぁ……」



 食堂は、階段を下りきった後に廊下をぐるりとまわって行かなければいけない。過子ちゃんと二人、肩を並べて歩きながら、ちらりと彼女の横顔を盗み見る。過子ちゃんは、横顔も整っていて、きれいだ。
 過子ちゃんと話したいことはたくさんあって、だけど、それを言葉にしようと思うと途端にそれが途轍もない難題に思えてしまう。今馬くんのこと。過子ちゃんが見た夢のこと。――それから昨日、澄野くんと二人で希ちゃんの部屋に行ったときのこと。どこまで踏み込んで尋ねて良いのかわからなくて、結局握りしめた手の内側にねじ込んだ絡まった糸が奇跡を起こして一本の真っ直ぐな状態に戻るのを祈りながら、作る拳に力を入れたり緩めたりしているだけだ。でもそれが正解なんじゃないかとも、心の裏のあたりでは思っている。
 見守るだけが正しいときも、あるんだろう。そしてそれは、きっと、今だ。
 自分自身に言い聞かせながら廊下の角を曲がったときだった。ガレージの扉の奥から、話し声がすることに気がついたのは。



「――わかったよ。ガソリンを取ってくればいいんだね?」



 蒼月くんの声だった。
 つい、過子ちゃんと顔を合わせる。
 ガレージでは、川奈さんがずっと消火機の修理を行っていたはずだ。もしかしたら、何か進展があったのだろうか?



「そうすれば――今馬クンを助けに行けるんだね」



 けれど、何か考えるより、蒼月くんの続けられた声を耳にする方がずっと早かった。
 今馬くんの名前を耳にした過子ちゃんがぱっと目を丸くして、駆け出す。残ったのは、過子ちゃんが置き去りにした「いま」っていう、彼女の兄の名を呼ぶやわい声だけ。「過子ちゃん!」、その背に呼びかけて、慌てて後を追った。
 過子ちゃんの飛び込んだ後の、開きっぱなしの引き戸に手をかけてガレージの中を覗き込んだ瞬間、独特な機械油のにおいが鼻についた。薄暗い室内は、いつものガレージよりも人の気配が濃い。
 川奈さん、蒼月くんの他に、澄野くん、それから面影くん。あまり見かけない組み合わせの顔ぶれから向けられる視線に、ついたじろぐ。一体どういう面子なんだろう。薄く微笑んだ面影くんにひらりと手をふられて、ほとんど反射で会釈した。
 作業台の上に置かれた消火機が、次に目に入る。傷も汚れも見当たらないそれは、修理前とは明らかに違う。散らばった、名前も知らない工具たちは、役目を終えて満ち足りているようにも見えた。もしかして、とうとう修理が完了したのだろうか。――そうだ、きっと、だから「ガソリンを取ってくる」なんて話になっているんだ。それにお腹のあたりが軽くなる。今すぐ川奈さんの手をとって、彼女の労をねぎらいたい――。



「話は聞かせてもらったよ……!」



 けれどさながら名探偵が謎解きを終えたような仕草で指を宙に向けた過子ちゃんが口を開く方が、ずっと早かった。「ガソリンがあれば、今馬を助けに行けるんだね!」、きっと過子ちゃんもこの状況を前に、私と同じ推理をしたんだろう。



「だったら、自分も一緒に連れてって!」



 過子ちゃんの表情は私の位置からでは見えないけれど、何の迷いもないその声は、淡い光に肩まで浸かったみたいに、まるい希望に満ちている。








 居合わせてしまった以上一緒にガソリンの探索に行くつもりでいたけれど、過子ちゃんが私の腕を掴んで、「先輩も手伝って!」って言ってくれたのは嬉しかった。
 ガレージを出る私を見送ったのは川奈さんと面影くんだ。扉が開いていた分、こもっていた油の空気は既に薄まっていた。面影くんは「来ないの?」という念を込めて視線を送った私に「……私はつばさちゃんにお願いしたい事があってここに来ただけなんだ」と胡乱げな笑みを浮かべて、「気にしないでいいよ。私の企みなんて常に二つ三つはあるからさ」と続けただけだった。
 一方川奈さんはというと、これからもう一つの――スクールバスに取り付けてある消火機の修理に取りかかるらしい。今馬くんが浚われてから四日も経った今、徒歩で探せる範囲に彼が留まっていることは考えにくかったからだ。構造は分かったからすぐにもう一つの消火機も修理はできるけれど、あの脱走劇の最中にガソリンも抜かれてしまっていたせいでバスは動かせない。だから川奈さんは、澄野くんと蒼月くんの二人に「外」を探索して、ガソリンを手に入れてきてほしいと頼んだのだった。
 川奈さんが直してくれた新品同然の消火機を抱え、過子ちゃんは揚々と校庭の外側で燃え広がる消えない炎へと向かって行く。心配なのか、その背を慌てて追う澄野くんの背を蒼月くんと二人で見つめながら歩いていた。朝の空気は冴え冴えとしていて、髪を撫でる風が心地良い。



「……でも、ガソリンって言っても、一体どこにあるんだろうね? さんは心当たりある?」

「ん~……心当たりかあ。って言っても私、ここに来た時からこの学園の外に出たことないし……」



 あの紫の炎をくぐり抜けるのだって、ここに来た時以来だ。
 過子ちゃんの華奢な身体では耐えきれなかったのだろう。消えない炎に向かって消火機を噴射する過子ちゃんは反動で後ろにひっくり返りそうになっていて、つい駆け出しそうになったけれど、澄野くんがそれを慌てて受け止めたから、ほっと息を吐く。



「そっか……。第二防衛学園からここに来るまでの道中、バスの中からガソリンスタンドみたいなものを見かけたりとかは?」

「ああ……。うーん、でも、私もあんまり外を見ていたわけじゃないしなあ……」

「あったよ? ガソリンスタンド」

「ひっ」



 不意に背後から声をかけられて、飛び上がる。眼鏡の奥の瞳を丸くした蒼月くんと二人で振り向けば、そこには面影くんが悠然とした様子で立っていた。流石殺し屋を生業としているだけあって、気配を殺すのが上手い。
 だけど、面影くんは川奈さんにお願いしたい事があったんじゃなかっただろうか? そう尋ねようと口を開きかけたとき、「もう終わっちゃったんだ。……私の用事なんて、たいしたことじゃないからね」って見透かされたように言われて、余計にびっくりしてしまう。さっきからこうして心の中を読み取られては、殺し屋っていうより、エスパーみたいだ。



「それより、歪クン。ガソリンスタンドを見かけたってこと? どこで見たの?」

「第二防衛学園を出て、ちょっと走ったくらいだったかな? 遠目にそれっぽい建物を見たってだけだから確証はないけれど……。まあ当てもなく探し回るよりは良いんじゃないかと思ってさ。それを伝えに来たんだよ」

「え、えー……! すごい、よく見てるね……!」



 助かるよ、ありがとう、とお礼を言う私に、面影くんはそっとその眦を細める。「ふふ。お礼だったらちょっとだけ解剖させてもらえたらそれでいいよ」っていつもの言葉を言われて、笑って首を振った。



「おーい! 蒼月! ! 行くぞ!」



 名前を呼ばれて振り向けば、過子ちゃんから消火機を取り上げたらしい澄野くんが私達に手を振っている。



「――気をつけてね、ちゃん」



 そう言ってくれる面影くんに頷いて、澄野くんと過子ちゃんの方へと踵を返す。「……仲が良いね?」、そんな風に、眩しいものでも見るように蒼月くんが言ってくれるのがくすぐったくて、笑いながら「うん」って口にした。
 燃えさかる紫の炎は、肌を焼くように熱い。
 壁自体の厚さが100メートルはあること。消火機の当たる範囲しか炎は消せないから、移動は四人一列で。――炎の壁を生身で抜けるのが初めての私に、澄野くんは懇切丁寧に教えてくれる。わかった、と頷けば、「じゃあ、行くぞ!」と彼は改めて消火機を持ってくれた。消火機を奪われた過子ちゃんが面白くなさそうにしているのが、少し、可愛かった。
 この外を出たら、死んでも蘇生マシーンは使えない。その事実に恐怖を覚えるよりも先に、第二防衛学園での出来事を思い出していた。もこちゃんと希ちゃんと三人で、探索に出かけたときのこと。あれから二ヶ月が経っているって言われても、ぴんとこない。すぐそこにあるような気もするし、自分から遠く離れてしまったもののような気もする。第二防衛学園にいたときのことが、少しずつ剥がれていくみたい。――それは少し、さみしかった。
 なんとなくもう一度校舎の方を振り向くと、面影くんはまだ私達を見送っている。手を振られて、振り返した。その背後には、私達の守る最終防衛学園の校舎があった。
 ――あと三十日、と、こんな時に、思った。
 みんなと過ごすここでの日々も遠い過去に変わっていく未来があるなんて、今の私には信じられなかった。








 これまで何度も学園の外に出て探索をしてきている澄野くんは第二防衛学園の方角といわれてすぐにわかるくらいに土地勘があって、面影くんが話していたと思われるガソリンスタンドは、案外簡単に見つけることができた。……勿論簡単にって言っても、移動の時間を加味しなければ、ではあるけれど。でも、当てもなく探していたら数日はかかってもおかしくなかったから、助かった。
 荒廃しきった外の世界は、時折侵校生の姿が確認できたけれど、他の人間も、動物の一匹もいない。折れた電柱に、塗装がはげて錆びた看板。道路はあちこち陥没していて、来た道を戻る私達の足下は徐々に暗くなっていった。



「よかった、これでやっと、今馬を探しに行けるんだ……!」



 そんなに軽いものではないはずなのに、過子ちゃんはガソリンの入ったポリタンクを、学園までの帰路の間、決して離さなかった。
 濃い紫とオレンジのグラデーションに染まった空は、偽物の空を映すだけの東京団地では決して見られないものだった。無造作に針を刺してできたような星から零れる光はどれも少しずつ明度が違っていて、吸った空気は私の身体の内側を静かに満たしていた。
 ポリタンクを抱えているのに、誰よりも軽い足取りで歩く過子ちゃんを、私達三人は見守っている。足はパンパンで、お腹も空いていて、侵校生と出くわさないよう細心の注意を払っていたせいで疲弊した分口数も減っていたけれど、不意に星を見上げた蒼月くんが、「綺麗だね」と、ほとんど独り言のように呟いたのに、私と澄野くんは、ほとんど同時に返事をしていた。「よくハモるんだよなあ」と呆れたように言う澄野くんの言葉がなんだか、どうしようもなくひりひりしたものがこみあげてくるくらい、嬉しかった。


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