「ったく、なんで過子はよりにもよって澄野なんかを連れて行ったわけ……!?」



 忌々しげに口にするくららちゃんの持つカップの中身が怒りで小刻みに揺れるのを見ながら、朝食の乗ったトレイを彼女の前の席に置く。今日の朝食は、厚切りのトーストとスープ、それからサラダにカフェラテだ。食べたかったというよりは、考えるのが面倒で、目についたものを選んだ結果。
 隣の席に座る狂死香ちゃんに、くららちゃんがその指先を向ける。



「狂死香、アンタ今からでも二人を追いかけてきなさいよ! あいつの目の前ですっ転んで男の象徴を切り落としてきなさい!」

「ええっ!? そんな……それはとんだラッキースケベではござらんか!? 流石に拙者、まだ心の準備ができてないでござる……!」

「ラッキースケベかなあ……?」



 狂死香ちゃんの言葉につい反応してからトーストをかじった瞬間、ぽろぽろとパン屑が零れ落ちて、慌ててお皿の真上に来るように前のめりになった。くららちゃんも狂死香ちゃんも、もう食事を終えて食後のお茶を飲んでいるところだったから、無意識に咀嚼を急いでしまう。
 ふと顔を上げたとき、憤るくららちゃんと、恥じらう狂死香ちゃんの背の奥にある扉が目に入った。希ちゃんのお見舞いのため、おかゆを作った過子ちゃんが澄野くんを連れてあそこから出て行ったのが、つい数分前のことだ。くららちゃんは、二人を見送ったことにやきもきしているのだ。



「過子のやつ、どうかしてるわ……! あの子、何か澄野に弱み握られてるんじゃないでしょうね……!? ああ……っ、止めなかった自分にも腹が立つ……!」

「うーん……そんなことないと思うけど……。澄野くんを連れて行くのは部屋の前までって過子ちゃんも言ってたし、特に理由なんかないんじゃないかなあ?」

「特に理由がないなら尚更なんであいつなのよ? 料理を運ぶだけじゃない、狂死香でもできるわ! 狂死香、アンタの存在価値がとうとうこれでマイナスになったわよ!?」

「ええっ!? 拙者の価値、ゼロですらないの!?」



 サラダボウルに入ったレタスにフォークを突き立てる。とろりと垂れたドレッシングが私達の席の真上にあるライトに緩く反射しているのを、じっと見ている。すぐ目の前で繰り広げられているはずの二人の会話が、膜の向こうに押し込まれるみたいに遠のいていく。
 ――過子ちゃんが澄野くんを連れて行ったのに理由なんかないんじゃないか。庇うように、咄嗟にそう口にはしたけれど、実際のところどうなのかは、本当はわからなかった。
 だって、過子ちゃんは希ちゃんの体調不良を「未来予知で知った」って言った。
 もしかしたら、何か他にも見えたものがあったんじゃないか、って想像させるには、それは充分過ぎたから。だから過子ちゃんは傍にいた私や、くららちゃんに推される形で手を挙げた狂死香ちゃんにではなく、半ば強引にも思える形で澄野くんに頼んだのではないか。そこには、本当は他意が、明確な意図があったのではないか――そもそもそれすらも、私の思い過ごしかもしれないけれど。小さく首を振って、フォークで丁寧に折りたたんだレタスを口に入れる。いつものドレッシングの味が、今日はどこかぼやけて感じる。



「この学園に来る前はね、逆の約束だったの。死ぬ時は一緒……って、約束してたんだ」



 自身の咀嚼音に混じって脳裏を過る、さっきの過子ちゃんの言葉。
 過子ちゃんと今馬くんのどちらかが先に命を落とすようなことがあったとしても、絶対に後を追ったりはしないと二人で約束をしたという言葉に続けられたものだった。



「自分ら……ずっと二人だけで生きてきて、他人なんて信用してなかったから」



 遠い東京団地の記憶を懐かしむような顔だった。引き出しの奥にしまったままの包み紙を、丁寧にほどくような。私の頭の中で、乾いた音がした気がした。
 「でもね」と過子ちゃんが、胸の前で拳を作った。私はその横顔を、ただ、見ていたのだ。今馬くんとそっくりの、長い睫毛に縁取られた大きな目を。美しい面立ちを。



「……でも、ここに来て変わったんだよ。自分も……今馬も」



 少しずつだけど、周りの人と向き合えるようになってきたし。
 過子ちゃんのその言葉に不意に脳裏を過ったのは、あの夜の記憶だった。今馬くんが見覚えのある紙片を片手に、「こんなド寒い手紙を書いちゃうような先輩に免じて――ってわけじゃないんで、そこは覚えといてほしいっすね」って、意地悪く笑った日。瞬間、喉が引き攣るように痛んだ。うっかりすると、泣いてしまいそうなくらいに。



「自分も……今馬に全部押しつけるんじゃなくて、ちゃんと自分で考えるようになろうとしたよ」



 だから約束を変えようって話したの。そう口にする過子ちゃんの声は、どこまでも真っ直ぐだった。誰も口を開こうとしなかった。そこにいる誰もがじっと黙って、彼女の言葉に耳を傾けていた。



「今後、もし」



 自分自身に言い聞かせるような温度で続けられた、過子ちゃんの声。



「もし一人になったとしても……最後まで、自分の人生をちゃんと進み続けようって」



 そこで話が終わっていたら、私は今、こんな風に思考の端を泥水に浸さずに済んだのだろうか。
 ――過子ちゃんが、昔の夢を見て思い出したんだ、なんて言い加えなければ。








「あぁ……心配だわ……! あの変態が強引に希の部屋に押し入らないとも限らないし……! やっぱり今から行くわよ、狂死香! 澄野の股間を再起不能にしなさい!」

「えぇっ、今からでござるか!?」



 立ち上がりかけたくららちゃんと、慌てて残ったお茶を飲み干そうとする狂死香ちゃんに意識を引き戻されて、慌てて顔を上げた。



「……まっ、待って! くららちゃん!」



 つい身を乗り出して、テーブル越しのくららちゃんの袖を掴む。
 瞬間くららちゃんの身体が、びくりと跳ねたのが分かった。「澄野くんだって仲間なんだよ」、考えるよりも早くに口から出たそれに、白い小さな手が、私の掴んだ袖の中でぎゅっと握られた。
 くららちゃんだって、希ちゃんが心配なのだ。分かってる。分かっているけれど、澄野くんだって同じ思いでいるはずだった。だって、そうじゃなかったらどうしてさっきの屋上で、あんな風に目を細めただろう?



「澄野くんも過子ちゃんも、きっと本気で希ちゃんのことを心配してるんだから……! だから、信じてあげようよ!」



 そう訴えた私に、くららちゃんは一度言葉を詰まらせる。トマトマスクの双眸と見つめ合って、どれくらい時間が経っただろうか。やがてくららちゃんは身体の力を抜くと、深くため息を吐いて「……仕方ないわね」と、ほとんど渋々といった形で、椅子に腰を下ろした。「おろろ? やめるでござるか?」と困惑したような顔をする狂死香ちゃんに「やめよ」とくららちゃんが言ったのに、安堵した。
 くららちゃんのカップには、まだ琥珀色の紅茶が半分以上残ったままだった。そういえば今馬くんは、好んでいた飲み物すらもおかしかったな、って思い出す。あの子はよく、マヨネーズのコーラ割なんて、信じられないものを飲んでいた。遠い過去のことみたい。まだ彼がいなくなってから三日しか経っていないのに。
 ううん、まだ、じゃなくて、もう、三日だ。
 それで、引き戻されてしまう。過子ちゃんが昨日の夜見たって言った、夢の話に。
 二人のお父さんとお母さんが亡くなったすぐ後の、小さいときの今馬くんとの想い出。それを思い出して、頑張らないと、って思ったんだって。立ち直れた、って。過子ちゃんはそう言った。自分が今馬を、みんなを守らなきゃって。生気を取り戻した目で。
 ――夢。
 思考の端を微かに焦げ付かせるそれを、口の中でそっと呟く。くららちゃんと狂死香ちゃんに尋ねてみようかと口を開きかけて、だけど、やめた。「二人も東京団地の夢を見たりすることってある?」。そう尋ねたときに二人から返ってくる言葉がなんであっても、きっと上手く返事ができないと思ったから。
 サラダボウルに転がるプチトマトに、慎重にフォークを突き立てる。その表面のつるりとした赤よりももっと深い色を、私は今日、確かに夢で見た気がしている。


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