彼女の毒リンゴのようにてらてらと光っていた爪が、好きではなかった。媚びを売るように甘ったるい声で「きれい」と言う自分のことは、もっと嫌いだった。
本音を隠して嘘で自分を守るのは、それが楽だったから。そうしていれば、傷は半分に減ったのだ。「処世術だよ」と、あの人は言った。七歳の私には、その言葉の意味がわからなかった。ただ、「いいんだ。はそれで」と言う柔らかい声が、私をゆるしてくれた気がした。
あの日。
あの日「やめて」って声を張り上げ、この身を投げていたら、私は置いていかれなかった?
私は臆病だったから、だから、あの人はもう、私の隣にいない。
珍しく、気怠い朝だった。
身体は水分を吸った服を纏ってでもいるかのように重く、頭は靄がかって上手く動かない。ロールカーテンが朝陽を遮りきれず、生地の網目がぼんやりと透けていた。薄くなった光が私の顔に落ちて、小さな日だまりを作っていた。
朝だ。朝が来てしまった。どうしてもっと早く目を覚まさなかったんだろう。――思考の片隅でそう考えて、それで、自分がまだ、夢の中に足首を浸しているのだと気がついた。夢の中身なんて、もはや今の私には微かにしか残っていなかったのに。
身体に走る細やかな怖気をみとめずに、どうにか身体を起こす。その瞬間に流れた、朝を報せるチャイムの音。「総員、起床時間だよー!」、もう耳に慣れたSIREIさんの声は、私を現実に引き戻す。
「最終防衛学園六十九日目の朝になりました! ロックな記念として、今日は一日中ロック調のBGMでいっちまうぜ!」
ベッドの上で吐いた息は震えていて、私の腿の上に落ちていく。「イヤェッ! 今日もアドレナリンMAXで、ファッキン偉大な人類のために、野蛮下劣なクソ共をぶっキルしまくって、愛する学園をぶっ守り抜こうぜー!」、なんていう普段とは違う騒がしいメッセージと直後流れ出した激しい音楽に、どうしてか安心する。
さっきまで完全に現実だと思っていた夢の世界はもう私から遠く離れていて、その欠片さえも、今私の傍にはない。
支度を調えて部屋を出るのに、少しだけ時間がかかった。今日も過子ちゃんにご飯を持っていかなきゃ。希ちゃんにもおかゆか何かを持っていくべきか、くららちゃんと狂死香ちゃんに相談しよう、なんて考えてながら歩いていたら、すぐ近くの部屋の扉が音を立てて開いた。
「あ」
誰の部屋だったかを考えるよりも先にそこから出てきた澄野くんと目が合って、お互いに、一瞬動きを止めてしまう。澄野くんはぱっと目を見開いていた。「」って、私の名前を小さく呼んだ。
気まずい沈黙が、私達の間に影を落としていた。
澄野くんが何かを隠している気がする、っていう直感は、今も私の中に横たわっている。
それが一体何に関することなのか、ただ、私には分からない。希ちゃんのことなのか、薬そのものについてなのか。あるいは彼らが薬を取りに外に出たあの日に関することなのか。でも、それを問い詰める気はなかった。だって私は、有り体に言えば彼を――澄野くんを、信頼していたから。彼が何を隠していても、それが私達に害するものであるとは思っていなかった。
それでも緊張していないとは、嘘でも言えない。
澄野くんも、そうだったのだろうか。
勇気を出してこの気まずさを薄めようと拳を握ったとき、私達はほとんど同時に会釈をして、「おはよう」って口にしていた。二人して角のある、強ばった声だった。重なり合ったそれに目を丸くして顔をあげたら、澄野くんも似たような顔をしていた。――瞬間、いつの間にか強ばっていた背中がふっと緩んだのだ。
澄野くんが、くしゃりと笑う。
「――ハモったな」
つい息だけで笑って、「ハモったね」って言ったら、澄野くんもくすぐったそうに目を細めてくれた。滲みかけた気まずさを、私達は二人で箱に押し戻したのだろう。それが、嬉しかった。
これから食堂に行くことを確かめて、どちらからともなく、肩を並べて歩き出す。私達はお互い、変に意識をしていたのかもしれない。指先の強ばりはいつの間にか解けていて、澄んだ空気が全身に染みこんでいく。屋上のフェンスが作る影は、私達の身体に網目の模様を描いている。校庭の先で燃えさかる消えない炎の紫は、花のようにきれい。
過子ちゃんのこと。川奈さんが直してくれている消火器のこと。今馬くんのこと。ぽつりぽつりと話しながら歩く私達の影は緩く重なっていた。「希ちゃん、大丈夫かな」、彼女のことにだけ触れないのは不自然だろうと、そう口にしたときだけ澄野くんが息を止めたような気がしたけれど、私は決めていたとおり、それには踏み込まなかった。澄野くんの目が遠くを見るように細められたのがわかったから。
「……早く元気になったらいいんだけど」
そう締めくくった私に、澄野くんは小さな息を吐いて、「……そうだな」って、微かな沈黙を含ませて頷く。
私達はお互い、昨日のことには触れずにいることを、きっと言外のうちに決めている。
共犯者みたいに。
食堂の扉を開けた澄野くんが瞬間ぴたりとその動きを止めたから、おかげで、その背にぶつかってしまうところだった。
魚の焼ける匂いやパンの香ばしい香り。ラーメンの匂いまで混じり合うこの時間の食堂は、人の気配が濃い。
澄野くんの肩越しにそっと中を覗き込めば、澄野くんがどうして立ち止まったのか、すぐにわかった。
「あ、おはよう澄野先輩、先輩……」
過子ちゃんが、そこにいたのだ。
「過子……!」
「過子ちゃん!」
驚く澄野くんの脇をすり抜けて、彼女の元へと駆け寄る。「もう起きて平気なの?」と尋ねる私に、過子ちゃんは気恥ずかしそうに笑った。ちょっと困った顔のようにも見えた。
食堂には消火機にかかりきりの川奈さんと、寝込んでいる希ちゃん以外の全員が揃っていたけれど、みんな、過子ちゃんの様子を窺っていたようだった。蒼月くんや厄師寺くんが、こちらを心配そうに見ているのがわかる。
昨日は乱れていた過子ちゃんの髪は丁寧に結われていて、それだけで、胸の内側に置いていた熱が膜を破って、零れ出していくような感覚になった。伏せられた過子ちゃんの睫毛。血色の悪かった頬は、今はもう随分落ち着いている。「過子ちゃん、まだ無理しなくてもいいんだよ」って言葉が喉に引っかかったのは、過子ちゃんが胸の前に置いた拳が、緩く握られたのを見たからだ。
「えっと、その……心配かけてごめんなさい。自分なら……もう大丈夫だから。……先輩も、ありがとう。……ご飯、美味しかった、すっごく……すっごく嬉しかったよ……」
そう言われて、どれだけ報われたような気になったか。
こみ上げてくる感情を抑えきれなくて、「いいんだよ、そんなの、全然」、って、首を振る。過子ちゃんの大きな瞳が不思議そうに私を覗き込みかけた瞬間、「……過子、本当に大丈夫なのか?」って澄野くんが声をかけて、それで、過子ちゃんの視線は私の背後に向けられた。
「うん……川奈先輩が頑張って消火機を直してるのに、自分だけサボってられないもん……。今馬とも……約束したし」
約束。
私が過子ちゃんの言葉を反芻するよりも、「……今馬クンと? 約束?」とかけられた声があった。――蒼月くんだ。過子ちゃんは蒼月くんの方に首を向けながら、小さく頷く。
強い意志のこめられた声だった。今までの過子ちゃんとは、はっきりと違う。
「喪白先輩の偽者と戦った後の夜に、二人で約束したんだ」
天井に反響して、過子ちゃんの声が響く。誰もが言葉を発さずに、続けられるそれを待っていた。退屈そうにグミを口に放る飴宮さんも、食堂の隅っこにいる銀崎くんも、普段は文句の多い丸子くんも、希ちゃんのことが気がかりなのか思わしげな表情をしたくららちゃんも――全員が過子ちゃんに視線を向けていた。
私だってそう。過子ちゃんの、昨日までとは明らかに違う、強い意志の根付いた、凜とした横顔を見ていたのだ。
過子ちゃんが、「もし」、と、一度言葉を区切る。今馬くんとの約束を、彼女はそうして私達の前に、並べてくれる。
「もし……万が一だけど、この戦いでどっちかが死ぬような事になっても……」
躊躇ったように口を噤んだ過子ちゃんは、一度、そこで小さく息を吸った。逼迫した感情が詰め込まれた、その声。
「――絶対に、後を追ったりしないって」
その時不意に、七歳の私が、踵の裏でそっと息を吹き返した気がしたのだ。