食器を下げるために過子ちゃんの部屋を出た直後のことだった。「ちょっとアンタ! こんな時に何考えてんのっ!?」っていう、くららちゃんの鋭い声が耳に届いたのは。
声のする方を向けば、二つ先の部屋の前でくららちゃんと狂死香ちゃん、それから澄野くんの三人が言い争っている。……けれど言い争う、っていうよりは、澄野くんが一方的に責め立てられている構図、と言った方が良かったかもしれない。くららちゃんは言葉がきついから、時々ああして、誰かを一方的に口撃するような形になってしまうことがあるのだ。
空っぽのお皿の重なったトレイを持つ手に無意識に力が入った。
「み、みんな、どうしたの? 何かあったの……!?」
そう口にしながら駆け寄った。三者三様の視線が向けられて、ちょっと、怯んだ。
屋上の床に打ち付けられた鉄板が、朝の、まだ温度の低い光を、鈍く反射していた。空気が澄んでいる分、淀みのようなものがそこに漂っているのが伝わって、私の皮膚を僅かに引きつらせる。「……!」、くららちゃんの声が、私の背を真っ直ぐにする。
「からもこの変態男になんか言ってやんなさいよ! こいつ、希のことを脳内で蹂躙してるのよ!? 熱く火照った希の体で女体盛りすること考えてんのよ!?」
「けしからんでござる……! お主は箸で何を摘まむつもりでござるか!?」
「どう考えても言いがかりだろ……!」
「え、なになに、にょたいも……? なんで……?」
トマトのマスクが傾きかけるくらいの勢いで澄野くんを指さすくららちゃんに、顔を真っ赤にして刀に手を添える狂死香ちゃん、そんな二人を前に困惑を通り越して憤りすら覚えているらしい様子の澄野くん。――全く話が掴めなくて、眉根を寄せる。
そもそも、どうしてみんなはこんなところにいるのだろう? 朝のアナウンスは、さっき鳴ったばかりだった。いつもだったらまだ食堂で朝食をとったり、話をしたりしている時間帯のはずだ。
三人は食堂から屋上に戻ってきたのか、あるいはそもそもまだ起きたばかりなのか。いずれにせよどうして希ちゃんの女体盛りなんていう単語が出てくるのかが分からない。
「何があったの……?」
尋ねた私に、くららちゃんは深いため息を吐いた。
そのため息が、永遠にも感じられたのはなぜだろう。嫌な予感がした。何かまた問題が起きたんじゃないかって直感めいたものが、私の胸に挟まるように浮かんでいた。
そしてそれは実際、正しかったのだ。
苦々しい声で、くららちゃんは言う。
「……倒れたのよ、希が」
――酷い高熱なの。
くららちゃんのその言葉が脳に染みこんだ瞬間、傾いたトレイから空っぽのお皿が落ちかけて、喉のあたりで、息が詰まった。
三人は食堂で倒れた希ちゃんを抱えて、部屋に運んだところだったらしい。
「希を低温調理器具としてなんか使わせないわよ! 変態は今すぐここから去りなさい!」
「不逞の輩が忍び込んだりせぬよう、拙者が円で見張っておくでござる!」
そんな言葉でくららちゃんと狂死香ちゃんに追い払われた澄野くんと二人、光の落ちる階段を下りる。空っぽのはずのお皿が乗るだけのトレイはずしりと重く、隣でため息を吐く澄野くんの横顔も、翳っている。
「……あの」、思い切って吐き出した声は、微かに上擦っていた。
「くららちゃんも狂死香ちゃんも、希ちゃんが心配で気がたってるんだと思う。二人とも本気で言ってるわけじゃないと思うから……」
だから。その後の言葉は、上手く続けられない。澄野くん自身も、何か考えるように、曖昧な返事を口の中で漏らすだけだったから。私達の間に、再び沈黙が落ちる。二人分の足音だけが響く階段の隅に光は届かず、そこだけぽかりと口を開けた穴のように見えている。
珍しく、みんなよりも遅れて食堂にやって来た希ちゃんは、酷い顔色だったらしい。口数も少なく、重い足取りで、呼吸も浅かった。心配した澄野くんが声をかけたところその場にくずおれるように倒れてしまったって、そう聞かされた。
まさか、自分の知らないところでそんなことになっているなんて思ってなかった。だって、昨日までの希ちゃんはいつも通り、元気そうに見えていたから。――もしかしたら、そう振舞っていただけだったのかもしれないけれど。思い出すのは、希ちゃんが抱えたトレイに入っていた、水分を吸ったうどん。希ちゃんの、真っ白な手の甲。
お湯を沸かせるくらいの高熱だった、って、狂死香ちゃんは言った。
それって、とんでもない熱だ。風邪とか、疲労によるものとか、そういうもので片付けられるのだろうか? 今はぐっすり眠っているって言うから部屋を覗くことはしなかったけれど、心配だった。だって我駆力の少ない希ちゃんは私達と違って、たとえ死んでしまっても蘇生することができない。
つい視線を落としてしまったその時、けれど、ふと思い出したことがあった。無意識に、トレイを持つ手に力を込める。「そういえば」、って、救いの糸を見つけたように、澄野くんの顔を見る。
「そういえば、もこちゃん……じゃなくて、あの、もこちゃんに擬態していた部隊長が熱を出したとき、澄野くんと希ちゃん、解熱剤の材料を取りに行ったことがあったよね?」
澄野くんの指先が、ぴくりと動いた。
「結局あの時って、二人が帰ってくる前にもこちゃ……あの子の熱が下がったから、薬は使わなかったんじゃなかった?」
我ながら、良いところに気がついたと思った。仰ぐように天井を見上げる。窓から漏れる光に目を細め、小さく頷く。そうだよ、って、確信を持って。澄野くんが息を飲んだのも気がつかないで。
「あの時の薬があるならそれを希ちゃんに飲ませれば、もしかしたら希ちゃん、良くなるんじゃ――」
「」
二階から、一階へと続く階段の踊り場だった。足を止めた澄野くんにつられて、私も、階段を数段下りたところで振り返る。
メッシュの入った赤い髪が、窓からの逆光で透けていた。少し傷んだスニーカーは、爪先のあたりが黒ずんでいた。見上げる形になって初めて、男の子の足をしている、と、こんな時に気がついた。そこに落ちていた拳が、ぎゅ、と、握られたのも。階段の下の方から、電動工具の音がする。甲高いそれに紛れるように、澄野くんは、眉尻を下げて笑う。私との間に、見えない線を引くみたいに。
「――悪い。オレ、用事があった」
澄野くんは、私に何かを隠しているようにも見えた。
何か問題を一つ解決する度、あるいは解決しきる前ですら、私達はまた新しい問題に直面する。私達の先にはどれだけ払っても拭いきれない、深い霧が漂っているように思えてしまう。
昼にもう一度希ちゃんの様子を見に行ったけれど、彼女の部屋の前を陣取っていたくららちゃんと狂死香ちゃんは、ため息混じりに首を振るばかりだった。
朝から彼女の容態は変わらないらしい。様子を見に来た面影くんも、風邪か疲労によるものなのか、よく分からないと首をひねったと言う。このまま様子を見るしかないんじゃないか、って。
そんな中、澄野くんの様子がおかしかったことは、二人には言えなかった。――余計な疑惑の種を放り込むことを、避けたかったのだ。
どうして薬の話をした途端、澄野くんはあんな風に壁を作ったのか、考え込むような目をしていたのか、私の言葉を遮ったのか。考えたってわからない。
わからないけど、でも、悪意があってそうしているようには思えなかったのだ。澄野くんには何か考えがあって、そしてそれは、自分のエゴのためとか、私を騙すためとか、そういうのじゃなくて。――なんて、そう思うのは、私が澄野くんのことを無批判に信頼しすぎているせいだろうか。第二防衛学園で部隊長と戦うことになったあの時、私を庇ってくれた彼の背を、差し出してくれた手を、あの温度を、私は今も覚えている。
どうか希ちゃんの熱が下がりますように、と、祈りながらベッドに潜る。消火機も直りますように。何もかもが上手くいって、今馬くんを助けに行けますように。過子ちゃんが昼も夜もしっかりご飯を食べてくれたことが、「ありがとう、先輩」と細い声で言ってくれたことが、今は、唯一の救いだ。
東京団地を出て六十八日目の夜はひっそりと静かで、目蓋を閉じれば、すぐに意識はまどろんだ。柔らかなシーツに身を沈める。耳の奥で懐かしい声を聞くけれど、現実と夢の境がぼやけてしまった私には、それが一体誰のものなのかわからない。