調理マシーンのパネルに触れると、ぱっと四角い灯りがついた。
 カウンター席の椅子に片膝をついて中腰になり、テーブルについた肘に体重をかける。落ちてきた髪を耳に引っかけて、手元のタブレットに視線を落とす。朝のアナウンスの鳴る三十分前。朝の気配の色濃く残る食堂にいるのは、私一人だ。
 甲高い電動工具の回転音が途切れ途切れに耳を震わせて、意識の一部がそちらに向いた。端末に表示されるページを送りながら、川奈さんのことを考える。ガレージの前を通りかかったときは静かだったからきっと眠っているのだろうと思ったのに、彼女は休んでいたわけではなかったらしい。
 消火機が早く直ってほしいと願うのと別の場所で、川奈さんに無理をしてほしくないとも思う。もしも私が機械に疎くなかったら少しは彼女を手伝えたかもしれないけれど、実際はそれもできない。ページをもう一つ送る。牛丼、すき焼き、ビーフストロガノフ。目当てのものは、まだ見つからない。
 ――昨日の夜、午後から過子ちゃんに付き添ってくれていた希ちゃんと少し話をした。
 日のすっかり落ちて暗くなった、階段の踊り場だった。希ちゃんの手にはほとんど手つかずの冷め切ったうどんが乗ったトレイがあって、水分を吸ったそれは、随分と重たげだった。



「……過子ちゃん、まだ、落ち着かないみたい」



 うどん、ちょっとは食べてくれたんだけどね。
 そう続ける希ちゃんのぎこちない笑顔に、「そっか……」と返す以外、できなかった。己の無力さを自覚しながらも、私達は、それ以上は何も言えずにいた。器の中の、半月型に切られた薄いかまぼこを見ていた。
 ――何もできないと分かっていたけれど、何かしたかったのだ。そうでもしていないと、私だって気が狂いそうだったから。



「……あ」



 パネルを前に、指が止まる。
 あった、と、小さく声が漏れた。だけど、それで済むわけじゃない。少なくともこのまま決定を押して調理を始めてもらうのは、違うだろう。じゃあどうしたらいいんだろう? 「あれ」を再現するには、何か方法があるはずだ。けれどそれが今の私にはわからない。
 だけどその時だ。ページを戻ったり、他のタブをいじったりしている手元に、ふと薄い影が落ちたのは。



「ハンバーグ?」



 低い声が頭上から降ってくる。顔をあげるよりも早く、カウンターテーブルに手を置かれた。黒い着物の袖から覗く、骨張った手。シルバーの指輪が反射する、鈍い光。
 喉の奥から、ひゅっと息が漏れた。



「殺あ、ちゃん」



 早いんだね? そう続ける面影くんの細められた目は、私の内面を見透かそうとでもしているみたいに深い色をしている。








「……アレンジ料理?」



 私が口にした言葉を繰り返す面影くんに、丁寧に頷いた。「そう、アレンジ」。壁の向こうで、電動工具の音が微かに響いている。



「過子ちゃん、昨日から全然ご飯食べてくれなくて。……でもほら、過子ちゃんと今馬くんって、いつも変なご飯食べてたでしょ? ああいうのだったらもしかしたら食べてくれるんじゃないかなあって思ったんだけど……」



 酢で締めたナマコをサンドイッチに挟んだものとか、納豆ご飯にホイップクリームとか。時折食堂に充満していた甘ったるい匂いを思い出したのか、面影くんは「ああ」って、曖昧に頷いた。



「確かに、一理あるかもね?」

「でしょ? でも、そんな料理があるわけじゃないし、どうやって作るのかわからなくて困ってたの」



 手元のタブレットに表示されたハンバーグ定食を示す。
 思い出すのは三日前、今馬くんが私に持ってきた「いちごジャムゴーヤーハンバーグ定食」だ。ゴーヤーの苦みといちごジャムのフルーティな甘みがハンバーグの味を殺し合って、お世辞にも美味しいとは言えなかったけれど、今馬くんがあれを気に入っていたのは間違いない。その前に作ってもらったマヨネーズケチャップ茶漬けと迷ったけれど、脳内のもこちゃんが「肉は完全食よ」って言うから――だから過子ちゃんも、あれだったらきっと食べてくれるんじゃないかって思ったのだ。



「……いちごジャムとゴーヤーのハンバーグって、どうやって作るんだろ……」



 ため息交じりの私の声を聞きながら、「これは?」と、追加用トッピングのタブを面影くんがその指先で触れる。長く、けれど丁寧に整えられた爪がかつりと音を立てて画面を切り替えさせるけれど、そこに並ぶのは目玉焼きとかソースとか、常識的なものばかりで、一瞬舞い上がった心は呆気なくしぼんでしまった。「ジャムもゴーヤもないねえ」と漏らした声に、面影くんは「うーん」と低く漏らす。



「……じゃあもう、別々に頼んだ料理を乗せたんじゃないかな?」

「ん……そういえば今馬くん、あの時、手間だと思っていちごジャムを先に塗りたくっておいたって言ってた……」

「うん。いちごジャムはすぐ見つかるだろうし、ゴーヤーは……どんなのだったか覚えてるかい?」

「……ん、なんか普通の……炒めただけかなあ」

「ふうん? じゃあ、そう複雑に考えなくても良さそうだ」



 面影くんの骨張った指先が迷いなくタブレットの上を動くのを、じっと見ていた。私達の間に落ちた沈黙は重くなく、ただ、私の細やかな心音だけが微かに響いている。
 面影くんは、今馬くんがいなくなっても、過子ちゃんが取り乱して泣いても、さして普段と変わらない様子だった。人の心がない、というよりは、慌てる必要がそもそもない、とでも言うかのように。
 少なくとも、面影くんは今馬くんや過子ちゃんとは関わりが薄い。でも、心が動いていないわけではないのだ。こんな風に手伝って、知恵を貸してくれる面影くんは、やっぱり優しい人だと思う。
 「ありがとう、面影くん」って零したら、面影くんはなんてことない様子で、「ふふ……。お礼だったら、ちょっと解剖させてもらえたら嬉しいんだけど」なんてことを久しぶりに口にするから、「それは嫌だな」って、いつもそうしているみたいに返した。
 調理を開始するマシーンの稼働音を聞きながら、面影くんの右目の傍に描かれた罅の模様が微かにその形を変えるのを、こっそり見ていた。








 面影くんの手によってアレンジされたハンバーグ定食は今、過子ちゃんの膝の上にある。
 ベッドに起こした身体は折れそうなほどにほっそりとしていて、丸い目がじっと、ハンバーグに塗りたくられたいちごジャムの果肉を凝視していた。ほかほかとたつ湯気が過子ちゃんの頬のあたりで滲んで消えていく。肉に溶けるジャムの香りと、存在するだけで口内に幻の苦みを与えるゴーヤーの存在に、間違えたかもしれないと、不安になる。
 沈黙に耐えられず、「あの」と、口を開いた。これじゃあ言い訳みたいだ、と思いながら。



「これ、前今馬くんが私に作ってくれたご飯で……。こういうのだったら、過子ちゃんも食べられるんじゃないかって思ったの。それで面影くんと一緒に作ってみたんだけど……で、でもよく考えたら、朝からハンバーグって重いよね……!?」



 そうでなくても、この二日、過子ちゃんはほとんど何も食べていなかったのだから。
 一緒に考えてくれた面影くんには悪いけれど、別のものを改めて持ってこようかとトレイに手を伸ばしかけたときだ。過子ちゃんの手が、フォークを握ったのは。
 切り分けた肉とゴーヤーに、フォークが突き立てられる。いちごジャムの果肉が溶けて零れ落ちる寸前に、だけど過子ちゃんはそれを口に入れた。食堂から部屋に持ってくる間にほどよい温度になっていたのか、過子ちゃんは味わうように目を閉じる。いちごジャムが、その口の端に残っている。やがて吐き出された、泣き出す寸前のような声。



「…………今馬の味だぁ」



 開けられたロールカーテンの奥から、光が漏れていた。いつも丁寧に結われている過子ちゃんの髪は昨日からずっと下ろされていて、乱れてぼさぼさになっていた。こんな姿を見たら、今馬くんはなんて言うだろう。
 過子ちゃんは、ハンバーグを次々と口に運んでいく。生気のなかった瞳は微かに輝きを取り戻していた。甘みと苦みの、一般的な味覚を持った人間からすれば受け入れがたいマリアージュを、過子ちゃんは全身で味わっていた。それが嬉しくて、安堵で身体の緊張が解けていくのがわかって、鼻の奥がはっきり痛んだのだ。
 「あのね、先輩」、過子ちゃんの声が、不意に私を呼ぶ。



「自分ね、時々、未来が見えるの」



 その言葉は淡々としていた。「みらい」、思わず反芻した私の動揺を、過子ちゃんは置いていく。「見えてたらよかった」と、懺悔するように、口にする。



「見えてたらよかった。今馬のこと。そうしたら自分、今馬のこと守れたのに。絶対に、行かせなかったのに」



 過子ちゃんの目から、大粒の涙がぼろりと零れ落ちて、半分になったハンバーグの上に落ちていく。
 ――見えてたらよかった。
 息が詰まったのは、そこに小さな私がいたからだ。
 しゃくりあげて泣く過子ちゃんは、だけど、手首の甲で涙を拭いながら、ハンバーグを口に入れる手を止めなかった。それは生そのものだった。彼女は前に進もうとしていた。一歩ずつ、確かに。
 濡れた瞳が、部屋の壁に貼られた写真を見ている。今馬くん、と、心の中で思う。涙と混ざったハンバーグの、最後の一口を、過子ちゃんは大きな口を開けて受け入れた。


PREV BACK NEXT