過子ちゃんの持ったスプーンはおかゆの浅瀬の部分を掬うばかりで、彼女の口には運ばれない。
 窓から朝日が緩く差し込んで、過子ちゃんの部屋に光の筋を作っていた。棚に収まりきらなかった本が床の上に堆く積まれていて、空気中の微細な塵がちらちらとその周辺を舞っていた。この部屋だけが外界から切り取られたように、静かだった。
 本棚に並んだ背表紙のタイトルは推理物と思しきものか、ラブストーリーを想起させるようなやわらかいものが多い。本を読むのが好きな子なのだ。だけどページを開く元気すら、今の過子ちゃんにはきっとない。
 細い手首を走る血管の青が、作り物めいて見えた。ベッドに身体を起こし、視線を落とす過子ちゃんの頬には痛々しいほどの涙の痕があって、瞳は薄らと赤かった。いつも綺麗に結いあげられている長い髪は下ろされていて、その先がシーツに線を描くように散らばっていた。彼女の太ももの上にある冷め始めたおかゆの方が、よっぽど生を訴えていた。
 喉の奥にざらりとした感触が芽生える。過子ちゃん。呼びかけた声は、過子ちゃんの部屋に吸い込まれずに落ちていく。



「……過子ちゃん。一口だけでも良いから、食べよう? 力、つけないと」



 看病用に持ち込んだ丸椅子に座ったまま口にすれば、過子ちゃんは生気のない目を一度だけ瞬かせ、「うん……」と、小さく答えた。スプーンの先に乗せられた、米粒が数えられるくらいのおかゆを、けれど過子ちゃんは持て余している。ずっと。







 今馬くんが浚われて、丸一日が経っていた。
 すぐに後を追うべきだったのだろう。今馬くんを連れているなら、あの捕虜の女性だって身軽には動けないはずなのだから。
 だけど、できなかった。
 消えない炎の壁を越えるための消火機を持ち去った彼女が、もう一つの消火機を破壊して行ったから。
 それだけではない。私達が第二防衛学園から乗ってきたバスに備え付けられた消火機も使い物にならなくなっていたと言うのだ。その上、ご丁寧に燃料まで抜き取られていたらしい。――そう説明したのは、澄野くんから玄関ホールの消火機が壊されていることを聞いて、バスを確かめに行ったと言う蒼月くんだった。



「な、何よそれ……! なんでそんな事になってんの!?」



 くららちゃんの動揺に満ちた声が、作戦室に反響する。
 この学園をぐるりと囲う炎は、私達を侵校生から守る砦だ。あの特殊な消火機でなければ、捕虜の女性が今馬くんを連れ去っていった、消えない炎の向こう側に行くことはできない。
 私達は、今馬くんを追うための手段を封じられたのだ。
 過子ちゃんの顔を見ていた。目を見開き、視線を動かすことしかできずにいる彼女を。小さな子供のようだった。ひょっとしたら私も、同じような顔をしていたのかもしれない。
 ――「私達に追って来させないようにする為だろうけれど」と面影くんが目を細める。その場の温度が、僅かに下がる。



「……それにしても、手際が良すぎるよ。そもそも、彼女はどうやって消火機の存在を知ったのかな?」



 蛇のような目は、私達を順に眺めていた。確かめるように。皮膚の裏を見透かすように。
 面影くんはきっと、裏切り者の存在を確信している。
 その存在は、どうしたって私達の行く先に暗い影を落としていた。裏切り者が私達の中にいるのか、それとも、澄野くんの言う「消えない炎の侵校生」なのか、けれどそれすら判然としない。
 ――彼女の世話をしていた銀崎くんが漏らした、なんてことは、だけど、ないはずだ。
 彼女と私達は、言葉が通じなかった。簡単な意思疎通もできない相手に、どうやって消火機のことを教えられるだろう。バスのことだってそうだ。
 じゃあ、やっぱり、澄野くんの言う「消えない炎の侵校生」の仕業なのだろうか? 戸惑いを隠せずにいる過子ちゃんの様子を視界の端に捉えながら、考える。
 その人だったら、捕虜さんと言葉を交わすことができる可能性はある。私達第二防衛学園組がここに来る前からその存在を確認していたというなら、その「侵校生」は消火機のことも、バスのことも知っているはずだった。……勿論、本当にそんな人がいるのなら、の話になるけれど。
 いくら考えても、答えは出なかった。



「ねぇ……どうしたの? は、早く……今馬を助けに行こうよ……」



 すぐに今馬くんを追いかけることはできないということを飲み込めずにいた過子ちゃんの目から、幾本もの涙が滑るように落ちていくのを見る。
 早く助けに行こうよ。今馬のことを見捨てないであげてよ。お願いだから。彼女が絞り出すように零した悲痛な言葉が、私の皮膚にいくつもの傷を作っていた。隠していたはずの古傷は開き始めていて、私はその痛みに気を取られ、慰めの言葉も出せずにいる。正しい言葉を選べる気が、しない。
 誰よりも手を差し出したいはずなのに、足が床に沈んで一体化したように動かなかった。目眩がして、胸の間を汗が伝ったのがわかった。瞬きの度、陽を透かさない重たいカーテンの手触りが蘇る。そうだ。あの人は太陽が嫌いだった。
 その時希ちゃんが、川奈さんに背を撫でられる過子ちゃんの足下に片膝をついた。「過子ちゃん」。勇気づけるような、優しい声。



「今度こそ、仲間は絶対に取り返すから」



 だから、大丈夫、って。
 ――その声に私の方が救われたような気になったなんて言ったら、おかしいかな。
 お兄ちゃん、お兄ちゃん、と引きつった声で泣きじゃくる過子ちゃんが、蹲った、幼い自分に見えた。
 希ちゃんの慈しみに満ちた眼差しが、過子ちゃんを優しく見つめている。お兄ちゃん。過子ちゃんの声が、耳元に張り付いて、消えない。
 見えない手に、口元だけを覆われてでもいるかのように、苦しかった。鉄の匂いが、いつまでもこの身体にまとわりついている気がした。
 面影くんが私を見ていたなんて、知るはずもなかった。









「消火機……」



 力なくスプーンを傾けた過子ちゃんがぽつりと零した言葉に、無意識に落としていた視線を上げる。
 長い睫毛は乾いていたけれど、憔悴しきった横顔だった。おかゆはすっかり冷めて、水分を吸い、器の中で固まり始めている。



「ん?」

「消火機は……どうなったの? 川奈先輩、もう、直してくれたかな……?」



 ――川奈さんは昨日、過子ちゃんを宥めながら、「私が消火機を直してみるよ」、と言った。
 いじったことのない機械だから時間はかかるかもしれないけれど、絶対に直すから、だから待ってて、って。
 昨日の今日だ。いくら機械いじりの得意な川奈さんでも、そんなに早く修理ができるとは思えない。それでも、川奈さんが本気でそれに取りかかっていることは確かだった。彼女は昨日から食堂に来ることもなく、ガレージに閉じこもっているから。
 過子ちゃんの不安定に揺れる瞳が私を捉えて離さない。……焦っているのだろう。
 気持ちはわかる。私だって、叶うのなら今すぐにでも追いかけたい。どんな手段をもってしてでも今馬くんを取り返したい。だってそうしないと、救われないから。
 ――誰が?



「……消火機は……。もうちょっと、時間がかかるんじゃないかな」



 思考から逃げるように口にした瞬間、過子ちゃんの眉が八の字に下がって、大きな瞳の縁が歪んだ。それに、慌てて首を振る。



「でも、川奈さん、すごい頑張ってるよ。全力で直してくれてる!」



 実際、川奈さんの集中力は凄まじかった。こっそりガレージを覗いても、私に気がつかないくらい。今朝、銀崎くんが食事を差し入れに行くと言っていたけれど、そうでもしなければ寝食も忘れ修理に没頭していただろう。だから、絶対に直してくれる。そう信じるしか、他にできることがない。



「……だから、直ったらすぐに今馬くんを助けに行けるようにさ……過子ちゃんも、ご飯食べよ?」



 元気、出さないと。
 その気持ちが伝わったのか、過子ちゃんは膝の上のおかゆにゆるゆると視線を戻すと、「……うん」って、小さく口にした。
 スプーンに乗せたおかゆを、過子ちゃんはそれから緩慢な仕草で口に運ぶ。咀嚼らしい咀嚼をしないまま飲み込む過子ちゃんの目は、今も、今馬くんを探している。
 午後からは、希ちゃんが過子ちゃんについていてくれることになっていた。希ちゃんだったら、過子ちゃんを元気づけることができるだろうか? じゃあ、私には一体何ができるんだろう。どうしたら過子ちゃんを今いる場所から連れ出せるのだろう。
 古い紙の匂いに包まれて、息を吐く。おかゆを緩くかき混ぜる過子ちゃんが二口目をいつまでも口に運べずにいるのを、どうすることもできず、見つめている。


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