今馬くんの部屋も、過子ちゃんの部屋も、しんと静まりかえっていた。応える声も、気配もなかった。後頭部を緩く焼く光に晒されながら、首を傾げた。
なぜか、嫌な予感がしたのだ。
扉を叩いても、名前を呼んでも、インターフォンを何度押しても、物音一つしない。悪いと思いつつも、部屋の横にまわってロールカーテンの開いた窓から部屋の中を覗いた。そうしてみて、頭から水をかけられたような気がした。弾かれたように駆けだした。隣の過子ちゃんの部屋も覗いて、息を飲む。今馬くんも、過子ちゃんも、どこにもいなかった。薄暗い室内は、生きているものの気配が欠片も何もなかった。「いなくね?」と首を傾げる飴宮さんの声だけが、宙に浮かんでいた。
――どういうことだろう。
食堂に戻っても、体育館を覗いても、トイレを探しても、二人の姿はどこにもない。
面倒くさがる飴宮さんを引きずりながら、捕虜さんを探すのに校内をくまなくまわっていたみんなに尋ねたけれど、二人の姿を見たって言う人は誰もいなかった。未だ脱走した捕虜さんも見つかっていないようだったけれど、それどころじゃなかった。今馬くんと過子ちゃんがいないことの方が、私にとってはよっぽど重大だったから。
狼狽える私に、飴宮さんは欠伸混じりに口にする。
「てか、みんなに言やいいじゃ~ん。今馬と過子がいないって」
「で、でも、この状況で言っても、混乱させちゃうだけだし……。それに、たまたま見つかってないだけで、どこかにいるかもだし……。……とにかく、探そう!」
「うわ、だる……」
焦燥が滲んで、走る足に力が入る。怠いと言いながらも、飴宮さんは私の背を追いかけてくれた。そうじゃなかったら、もっと動揺していたかもしれない。「ありがとう」って言ったら、飴宮さんは眉根を寄せて、「リア充がうつる!」って身体の前で大きくバツを作った。
三階の作戦室に向かったのは、何かがあって二人が校舎の外に出て行ったのだとしたら、そこに保管してある我駆力刀を持っていくんじゃないかって、飴宮さんが言ってくれたからだ。彼女は私よりも、よっぽど冷静だった。
「つか、どーせ怠美達に逆ドッキリしようと思って隠れてんじゃないの? ……その手には乗らねえからな! どっかからこっち見てるんだろ!? あぁ!?」
……少し変わっているけれど。
廊下に監視カメラがあるていで話しているのか、天井に向かって指を指す飴宮さんを背に、作戦室の扉を押し開ける。
逸る心臓を押さえながら、祈るように、我駆力刀の並んでいるはずの柱を視界の中央に入れた。どうか、思い過ごしでありますように。二人がこの学園のどこかに、ちゃんといますように。飴宮さんの言うとおり逆ドッキリでもいいから。どこかから私達を見て笑っていてもいいから。
モニターの青い光が滲む部屋は、隅の方に翳りがあった。PCの置かれたあのテーブルのところで、いつだったか、過子ちゃんと二人で話をしたなって、こんなときに思い出したのだ。あの時の今馬くんの、細められた目も。
柱を視界に置いたまま、頭の端が焼かれるような音を聞きながら。
「…………どうしよう、飴宮さん」
無意識に、震える手で飴宮さんの服の裾を掴む。
「――我駆力刀、足りないよ」
等間隔に柱に並べられた我駆力刀が二つ欠けているのを、震える手で指さした。
飴宮さんが「はえ? マジ?」って言った不釣り合いに軽い音だけが、鮮明に耳に残った。
私達の影が、無人の作戦室に斜めに伸びて、黒い染みを作っていた。
捕虜さんの捜索のため、校舎中に散っていた私達が作戦室に揃ったときには、もう陽が傾き始めていた。
重い空気の漂う作戦室で、澄野くんは私達の顔を順々に見て、話をしてくれた。
ついさっき、捕虜さんを探しに玄関ホールへ向かったところ、外へと続く扉の向こうからボロボロの過子ちゃんが一人でやって来たこと。澄野くんの目の前で倒れ込んだ過子ちゃんは意識朦朧としながらも、何があったのかを聞かせてくれたこと。彼女が澄野くんに話した、その仔細。
澄野くんの背の奥に、柱があった。私達全員分の我駆力刀が括り付けられている、角の部分がやや丸みを帯びた四角柱の柱だ。
さっきまで二本足りなかったはずの我駆力刀は、今、そのうちの一つが定位置に戻されていた。けれど、一つ分の欠けは、却って私の目に決定的な欠落として映ってしまう。目の奥が鈍く痛んで、視線を落とした。
「過子は、確かに言ってたよ」、澄野くんの苦々しい声が、巨大なコンピュータの駆動音を塗りつぶすように強く響いていた。
「…………あの捕虜が……今馬をさらって逃げていったって」
我駆力刀は、一本欠けたまま。
今馬くんの我駆力刀だけが、どこにもない。
私はそれを、まだ受け止めきれずにいる。
――私が過子ちゃんを背負った澄野くんと出くわしたのは、今から一時間近く前のことだ。
その時私は、みんなに今馬くんと過子ちゃんの姿がないことを誰かに伝えるため、作戦室を飛び出していた。それで、階段のあたりで川奈さんを見つけたのだ。きっと、防衛室付近の探索を終えて、希ちゃんと別れたところだったのだろう。すぐに川奈さんに会えたことに安心して、息を吐いた。「川奈さん!」、私の声に紛れて、二階の方から、「畜生が! 全然見つからねえ!」って叫ぶ一際大きな厄師寺くんの声と、誰かが階段を上ってくるような、摺り足気味の足音が響いていた。
「……あれ? さん。なんか、すごい慌ててるけど……何かあった?」
「あの、そ、それがね……!」
今馬くんと過子ちゃんの我駆力刀が、作戦室からなくなっていて。――そう口にしようとしたとき、だけど、私の目の前にいた川奈さんが私の背後にあるものを見て、その目を大きく開いたのだ。
私が振り向くよりも先に、川奈さんが「澄野! ど、どうしたの!?」と叫んだ。駆けだした川奈さんの先を見る。耳の奥がキンと高くなって、一瞬視界が明滅したのは、嫌な予感が確信に変わったことに気がついてしまったから。ほんの一瞬、思考が停止した。血の臭いが、鼻をついた。息を飲んだのだ。
――澄野くんが、ぼろぼろの過子ちゃんを背負っていたから。
過子ちゃんは気を失っているようだった。頼りない腕はかろうじて澄野くんの肩にまわっていて、苦しげに寄せられた眉が、微かに震えていた。小さく上下する肩、その口から、「うぅ……」とか細い声が漏れていた。
「過子ちゃん」、そう口にしたとき、音が遠のいて、世界が色を失ったように思えた。大きく足を踏み出したとき、廊下と靴とが擦れる、甲高い音がした。あの時聞いた、悲鳴みたいな。
「ど、どうしたの? 過子ちゃんは、一体……!」
「――今馬くんは!?」
心配する川奈さんの声に被さるよう尋ねてしまったのは、本当は正しくはなかったのかもしれない。
川奈さんが、目を丸くしたまま私を見た。澄野くんも、過子ちゃんをおぶったまま、少しだけ後ずさった。それでも聞かずにはいられなかった。心臓がばくばくと嫌な音を立てて、思考できる部分が、ぎゅっと狭くなったように思えた。だって、過子ちゃんだけがいて、今馬くんがいないなんて変だ。澄野くんに過子ちゃんを背負わせるなんて、今馬くんがいたら、絶対にそんなことさせない――。
だけど澄野くんは一瞬の沈黙の後、「さらわれた」とだけ言ったのだ。
今馬は、さらわれた、って。
瞬間私がどれほどの衝撃を受けたか、きっと澄野くんには分からないだろう。
「……え?」
容赦なく、横っ面を殴られたような気がした。天井がぐっと低くなったような閉塞感と、引きつった喉。さらわれた? 口にした、たった五文字のそれは、私が漏らしたとは思えないくらいに舌っ足らずで、掠れている。
彼は「後で説明する。は、みんなを作戦室に集めてくれないか」と言うと、ポケットに突っ込んでいたらしい過子ちゃんの我駆力刀を、「それから、これも頼む」って、息を飲んだままの私に差し出した。
わけがわからなかった。一瞬静まっていた心臓が再び激しく脈打って、「え」って、もう一度声を漏らした。
――さらわれた。
さらわれたって、なに?
手のひらの上にある重みに目を落とす。
「悪いけど、川奈は過子を部屋で見ててくれないか」
「う、うん、わかった! 任せて!」
二人の足音が階段の上の方へと遠ざかる。私は渡された我駆力刀から目をそらせずにいる。
九十九過子。
鞘に描かれたその名前を、血を吸い尽くしたような色をしたそれを、身じろぎもできないまま、じっと見ていた。二人が開け放した屋上の扉から、何も救うことのできない、場違いな光が零れていた。鉄の錆びた匂いが、いつまでも鼻に残っていた。
――今馬くんは、敵に浚われてしまったらしい。
「なんだそりゃあ……! ざけんじゃねーぞ!」
厄師寺くんの怒号に思わず顔をあげる。
作戦室の空気は、酷く重かった。くららちゃんは苛立たしげに腕を組んでいたし、面影くんは神妙な顔をしていた。狂死香ちゃんの表情も、酷く険しい。銀崎くんは拳を握りしめ、じっと口を閉ざしていた。蒼月くんは考え込むように目線を落としていて、丸子くんは頭を抱えていて――あの後、呆然と作戦室に戻ってきた私の代わりにみんなに声をかけに行ってくれた飴宮さんだけは、退屈そうに床の一点を見ていた。
私は、どうだったんだろう。わからない。今馬くんが浚われたって聞いてから、表情も思考も上手く動かない。せめて顔だけでも、感情を乗せられたら良かった。その方が自然だった。けれど私の心と体はけれど太い線で繋がっていて、心に嘘を吐いて、怒りや悲しみを表に出すなんて器用なことはできない。
何もなかった。
受け止めきれなくて、ぽっかり穴が空いたみたいで、私はそれを埋められずにいた。
「何があったの? ……どうしてそんなことに」、青い顔のまま尋ねる希ちゃんに、澄野くんは「それが……」と口を開く。
澄野くんが聞いたところによると、今馬くんと過子ちゃんの二人は、早朝、腹ごしらえに食堂に向かったのだと言う。
その途中、廊下の窓から校庭が見えて、マスクを被って、炎の壁へと向かって逃げていく捕虜さんを見た。彼女が玄関ホールにある消火機の一つを持っていることに気がついた二人は慌ててそれを追ったそうなのだ。どうにか炎の壁の前で追いついたのだけれど、過子ちゃんは不意打ちの反撃を受けてしまい、気絶。今馬くんが庇ってくれたところまではぼんやり見えていたけれど、次に目を覚ましたときには、今馬くんの姿も、捕虜さんの姿も、もうどこにもなかった。目の前にはただ、紫の炎が、どこまでも高く立ち上っているだけだった――。
澄野くんの言葉は、私のどこにも引っかからず、表面をさらさらと流れていく。
「……あいつに連れ去られたのね。最悪じゃない」
吐き捨てるように呟いたくららちゃんに続く形で、厄師寺くんが「クソがぁ! やっぱ捕虜を殺しておきゃ良かったぜ!」と叫んだ。銀崎くんはその言葉に拳を作ったまま、項垂れている。「それで、過子殿は今どこに?」、狂死香ちゃんが尋ねたそれに、「今は個室で休ませてる……。川奈が一緒に付いてくれてるよ」と答える澄野くんの声を聞く。
いなくならないでって、思う。
いなくならないで。置いていかないで。一人にしないで。
手が、小刻みに震えていた。腕を組んで、じっと息をした。目を閉じたら再び開けたとき白い床に変わっていそうで、できなかった。
「……で、どうすんの? 今馬を助けに行かなくていいの?」
飴宮さんが緩く首を傾げたとき、私は、行こう、って、強く思ったのだ。
――行こう、今すぐ。それしかないよ。それでしか救えない、って。ほとんど前のめりに。澄野くんが「あぁ、それなんだけど……」って、何か躊躇うように眉根を寄せたのを見ていても尚。
だって、敵の手に落ちたもこちゃんは、どうなった? 私達は、どれだけ傷付いた? 私はもうあんな絶望を味わいたくない。悲しい思いをしてほしくない。少なくとも、過子ちゃんにだけは、絶対に。
「迷う必要、ないよ。今すぐ行こう」、口から出かけた声は、だけど、澄野くんの背の奥の扉が開かれたことで、喉の奥へと吸い込まれたのだ。
「助けに……行こうよ……」
――過子ちゃんの姿が、そこにあったから。
「……過子ちゃん」
扉に両手を添えながら、過子ちゃんは覚束ない足取りで、作戦室へと足を踏み入れる。過子ちゃんの結ばれた長い髪が、頼りなく揺れる。澄野くんが振り向いた。過子ちゃんの背の後ろには、おろおろとした顔をした川奈さんもいた。無理を押してここに来たのだろう。過子ちゃんの顔色はさっき見たときよりも幾分か良くなっていたようだったけれど、本調子ではないのは明らかだった。脇腹を庇いながら、過子ちゃんは喘ぐように口にする。
「み、みんなで……今馬を……助けに行こう……」
まだ、そんな遠くに行ってないと思う。だから、早く今馬を助けに行こう。そう、彼女は言った。
途切れ途切れの声に、ほとんど反射で一歩踏み出した。喉奥に引っ込めたばかりの声が、今度こそ外に出る。「いこう」って、掠れた声が喉奥から漏れた。
「助けに、いこう? 手遅れになる前に……!」
無意識に拳を作っていて、少し伸びた爪が、皮膚に食い込んでいた。狂死香ちゃんが「うむ! 今度こそあの捕虜を血祭りにあげてくれるわ!」と同調し、厄師寺くんも「おっしゃ! さっそくデッパツだぁ!」と拳を振り上げる。切りそろえられた前髪の下、過子ちゃんの目の奥が緩んだ。ああ、そうだ、と思ったのだ。そうだ、助けに行けば、大丈夫、間に合わないはずない、今馬くんはきっと助かる。これ以上悪い事なんて、起こるわけがない――。
なのに、「……待ってくれ」と、澄野くんは言うのだ。
「……それは無理なんだ」
厄師寺くんが苛立ったように「あぁ!? なんでだよ!」って声をあげる。澄野くんはそれでも、私達に伝えるのだ。残酷な現実を。「壊されてたんだよ」って。誰よりも悔しそうな声で、顔で。
「…………もう一つの、残った消火機が」
だから、外には行けない。って。
吸った息が、喉の奥で細く音を立てた。絶望の縁に立たされながら、私は過子ちゃんの顔を見ていた。絶望に見開かれた目を。色の失われた唇を。目の縁から盛り上がって、ゆっくりと頬を伝う、透明な涙の筋を。
あの日私も同じ表情をしていたのだろうか。
機材の並ぶ作戦室は温度が外よりも高いはずなのに、今はどうしようもなく、寒い。