食堂を飛び出して、中庭へと駆けだす。ばらばらの足音と、「ああ、もう、一体どういうことなのよ!?」って言うくららちゃんの苛立ち混じりの声が、薄く日の差し込む階段に落ちていく。
――本当に、どういうことなんだろう。
ざわつく心臓を落ち着かせるために唇を噛みしめる。厄師寺くんの大きな背を追いかけながら、一段飛ばしで階段を駆け上がる。
食堂に駆けこんできた銀崎くんは、捕虜さんがいなくなった、って、確かにそう言った。
檻の中にいないんです、どこかに消えてしまったんです、って。
脱走されてしまったのだ。
中に入っている者の力を奪う、特製の檻だ。いくら彼女が私達の我駆力に似た力を持っているからと言って、そう簡単に逃げることができるとは思えない。それに逃げ出すことができるなら、彼女はもっと早くに逃亡を図っていたはずだった。
もしかしたら銀崎くんの思い過ごしなんじゃないか。いないっていうのは彼の見間違いで、ひょっとしたらベッドの下にでも隠れているんじゃないか。半ば、現実逃避に似た祈りだった。背後から聞こえる銀崎くんの「なんで、どうしてこんな!」って叫びで、その膜に爪を立てられた気がした。
逸る気持ちを抑えながら中庭に飛び込む。薄暗い廊下に慣れた目が光を取り込む。視界が白む。
「おいおい……こいつはどういう事だ……?」
呟かれた厄師寺くんの声に、彼の背の先を見た。
背後から聞こえる、ばらばらの、みんなの足音。噴水からさらさらと流れる清かな水。咲き誇る赤い花の、甘い香り。視界の端に蝶のホログラムがちらついて、意識を持って行かれる。ガラス張りの天井から惜しみなく降り注ぐ陽光は、中央を走る水路の水を白く輝かせていた。その水路を挟む形で並んだ二つの檻の、右側。あの日銀崎くんと二人で、彼女と向かい合った。
今はそれが、幻だったようにすら思えている。
「なんで……?」
そこに彼女はいなかった。
黒い、鉄製の檻。ベッドも、トイレもそのままだった。半開きになった扉は、ただひたすら、沈黙を守っているように見えた。
「昼前に起きて……捕虜さんにご飯をあげに来たら、もうその時にはいなくなっていて……」
銀崎くんが頭を抱える。後悔と絶望の混じり合った、悲痛な声で。
「あー、もうっ! どうしてこんな事に!?」
――銀崎くんが向き合っていた人。
時々犬猫に向けるような言い方を銀崎くんはしていたけれど、それでもそこには愛情があった。一度だって、彼はあの捕虜さんを物扱いしたりしなかった。彼女が笑ったことを、言葉を真似たことを、彼は本気で喜んでいた。
動揺するのは当たり前だ。
「…………とりあえず檻を調べてみよう?」
希ちゃんの提案で、澄野くんと蒼月くんが檻の方へと向かった直後、飴宮さんが中庭にやって来た。マイペースな彼女は、こんな状況でも食堂からのんびり歩いて来たのだろう。「はにゃ? 何がどーなったの?」と首を傾げ、どういうわけか動揺した様子の見られない面影くんに「うーん……例の捕虜が本当にいなくなっちゃったみたいだよ?」と教えられていた。
だけどそれ以外のみんなは、多かれ少なかれ、この状況に動揺していたのだ。
疑心暗鬼に飲み込まれてしまうくらいには。
「――なぁ、この檻の鍵って、銀崎が持ってるんだったよな?」
そう口にしたのは、丸子くんだった。
丸子くんの目は、檻に近づけずにいる銀崎くんに真っ直ぐ向けられている。一方で、そこに宿る疑念の色に、銀崎くんはすぐには気がつかなかったのだろう。「え?」と短く声をあげ、その目をゆっくり瞬かせると、それから小さく頷いた。
「は、はい……。絶対になくさないように、常にパンツの中に入れて持ち歩いています……」
「パ、パンツの中に!? どっちが鍵かわからなくなってしまうではないか!」
銀崎くんの言葉に真っ先に反応し、顔を赤くし狼狽える狂死香ちゃんに、けれど丸子くんは構わない。踏み出した彼の足が、少し伸びた雑草を踏みつける。小さな花が、草臥れた彼の靴の下で潰れる。そこからどろりとした絵の具が染み出したように見えた気がした。「だったら」と続ける彼の眼光は、いつもよりも鋭い。
「――だったら、銀崎しかいねーじゃねーか! オメーが檻の鍵を開けて捕虜を逃がしたんだろ!」
強い声だった。そこに意識も視線も向けざるを得ないくらいには。
銀崎くんの目が丸くなる。青かった顔から、さらに血の気が失われる。
「……ち、違います!」
「いーや、オメーはあの捕虜に入れ込んじまってたからな! あいつに同情して逃がしたんだ!」
「そんな、決めつけない方が……」と口を挟んでしまったのは、二人のやりとりを見ていられなかったからだ。けれど「決めつけじゃねえよ! 銀崎が鍵を持ってるってんなら、こいつが関わってるって考えるのがフツーだろ!」と丸子くんに憤りをぶつけられて、怯んでしまった。思わず後ずさった踵が花壇の縁の石に当たって、お腹が冷える。空気が淀んでいく。また、望まない方に行ってしまう。
その時丸子くんに詰め寄られる銀崎くんの背後に立つ、二つの影があった。――くららちゃんと、厄師寺くんだった。
「あいつが処刑されると思って……その前に逃がしたのね!?」
「…………銀崎、どうなんだ?」
どうしよう。
そう思っても、銀崎くんに手を差し伸べる人はいない。
川奈さんは気まずそうに視線を逸らしていたし、狂死香ちゃんは鍵がパンツの中だったっていうのがよっぽど衝撃的だったのか、まだ動揺している。飴宮さんは退屈そうに自分の爪をじっと眺めていたし、面影くんは一体何を考えているのか、三人に囲まれている銀崎くんを見て、薄い笑みを口元に貼り付けているだけだった。
私達の間に漂う空気は固く、歪んでいた。もこちゃんのことがあったばかりだって言うのに、休む暇もなかったせいだ。次から次に問題が起きて、対処しきれない。私達を入れた箱のどこかに罅が入っていて、そこから酸素が抜けていっているみたいに、私達はいつだって、息苦しい。
どうしたら良いのかわからなくて、檻の様子を調べている澄野くんと蒼月くん、希ちゃんの三人に視線をやった。そこに何か、救いがないかと思ってしまったのだ。
半開きの扉の前で、希ちゃんが何かに気を取られたようにその場にしゃがみこむ。髪を耳に引っかけ、背中を丸める後ろ姿。希ちゃんは、そのまま地面に落ちた何かに手を伸ばす。その様子に気がついた澄野くんが、彼女を振り返る――。
「…………確かに……情が湧いてなかったと言ったら嘘になりますし、僕が疑われても仕方ないクズなのも自覚しています……」
沈黙の末に口を開いた銀崎くんに、意識を引き戻された。
丸子くんやくららちゃん、厄師寺くんに囲まれた銀崎くんは、「でも」と、緩く首を振った。そこにははっきりとした、意思があった。いつもの気弱な、争いを嫌う銀崎くんでは、なかった。
自分を取り囲む三人の顔を順々に見渡して、銀崎くんは口を開く。
「…………僕は皆さんを裏切るような真似はしません! 僕じゃありません!」
血の気が失せるほどに握りしめられた拳も、戦慄く唇も、嘘じゃないって、言っているみたいだった。
吸った息は、さっきよりも、重くなかった。
中庭を出て、屋上へと続く階段を小走りで駆け上がる私の背を、のんびりした声が追いかける。
「ねーねー! は今馬と過子、どっちを寝起きドッキリさせたい?」
逸る気持ちを抑えながら、窓から差し込む光で薄く白んだ踊り場で足を止めて振り向いた。
根元が黒くなりかけた真っ青な髪を二つに結んだ飴宮さんは、私の焦燥に気がつく様子もなく、たっぷりとしたトレーナーの袖を口元に引き寄せ、きょきょきょ、と笑っている。
「怠美はやっぱ美少女との絡みがほしいから~……過子かな~!」
「飴宮さん……とりあえず急ごう……!」
「え~……。怠美、急ぐとか、そういう感じ無理なんだよね……。なぁんだ……結局って、そっち側の人間なんだ……」
「そっちってどっち……!?」
「熱血体育会系~」
「ええ……!」
思わず触れていた手すりをぎゅっと握りしめてしまう。飴宮さんの背の向こうで、小走りに防衛室の方へと向かう希ちゃんと川奈さんの姿を見つけて、「急いで飴宮さん~……!」と彼女を急かす。
飴宮さんは私の言葉に退屈そうに欠伸をして、気まぐれにそうしたみたいに、一回だけ、階段を一段飛ばしで上がった。
飴宮さんは相変わらずマイペースだ。私達以外のみんなは、脱走した捕虜さんの捜索にかかっているっていうのに。――というのも、この騒ぎの中未だに起きてこない今馬くん達を呼びに行くのに、「試してみたいドッキリがあったんだ!」と飴宮さんが立候補したのが不安になったらしい澄野くんに、「悪い。も飴宮と一緒に行ってくれないか?」って、頼まれたのだ。
姿を見せなかったあの二人にもこのことは伝えないといけないから、起こしに行くこと自体に異議があるわけではなかった。早く、みんなと一緒に捕虜さんを探しにいかないとと思うくらいで。
「飴宮さん。早く今馬くん達を呼んで、私達も捕虜さんのこと、探しにいこ?」
「え~? 何の手がかりもないのにムリっしょ~」
「ムリとか言わないで~……!」
捕虜さんがどうやってあの檻から逃げたのかは、判然としない。だけど少なくとも銀崎くんが彼女に助力したわけでは、ないんだと思う。彼の主張にかかわらず、物的証拠と言ってもいいものが現場に残されていたから。
希ちゃん達が、破壊された錠前が檻の前に落ちているのを見つけたのだ。
U字のシャックル部分を、力任せに破壊した形跡の見られる南京錠は、細かい傷でいっぱいだった。鍵穴付近に傷が集中しているところを見ると、犯人はピッキングが上手くいかなくて、最終的に力に任せ、これを破壊したに違いない。そして、檻の扉を開けたのだ。
鍵を持つ銀崎くんが逃がしたんだったら、わざわざ錠前を壊して逃がす必要はないだろう。偽装工作の線がないわけではないけれど、だとしたら夥しいひっかき傷のようなものが鍵穴付近に集中しているのは、偽装工作とするにはいくらなんでも手が込みすぎている。
勿論、鉄格子の隙間の狭さを思えば、捕虜さん自身がそこから腕を出して錠前を壊すのも難しかった。
では、一体誰が錠前を破壊し、彼女を逃がしたのか。
「…………この中の誰かが捕虜を逃亡させたって事?」
怯えたような顔でそう言ったのは、川奈さんだった。
思わず順々に、みんなの顔を見つめてしまったのだ。
だけど、それはみんなも同じだったらしい。お互いの表情を窺う私達は、疑心暗鬼に苛まれていた。「裏切り者はあいつだよ! いや、あいつかも!」、って、楽しそうにはしゃいでいた飴宮さんを除いては。
――飴宮さんって、何を考えているのかよくわからない。
「ほら、飴宮さん! はやく行くよ~……!」
「え~…………」
飴宮さんの腕を掴んで、そのまま引っ張る。飴宮さんは、微かに甘ったるい匂いがする。けばけばしい色をしたグミみたいな。
階段をなんとか上りきってもらって、それから屋上へと続く扉を押し開けた。瞬間視界いっぱいに青空が広がって、思わず目を眇める。フェンスの奥に広がる紫の炎は、私達を守る壁のようにぐるりと周囲を囲んでいた。
「うわ……なんか急に怠くなってきた……」
午後の陽光に臆したらしい飴宮さんの腕が重くなるのに気がついたけれど、「いそいで~!」と、絡めた腕に力を込める。だぼっとした黒と白のボーダー模様のトレーナーのせいでわからなかったけれど、その腕は、びっくりするくらい細かった。
咄嗟に力を緩めたのだ。無理に引っ張ったら、折れてしまいそうな気すらしたから。
ほんのちょっとだけ高い位置から、ふ、って息が漏れた気がした。私の逡巡を見透かしたような、どこか諦念めいた音にも聞こえた。
だけど、気のせいだったのかもしれない。ついちらりと彼女の顔を見たら、飴宮さんはさっきまでの気怠げな表情から打って変わって、「てか、怠美の腕掴んでんのウケんね。やっぱ百合営業なん?」って笑いながら首を傾げたから。「ちがいます……!」って、思わずぱっと手を開く。私達の足下に伸びる影が切り離されたのを、視界の端で見た。
「つか、はやく今馬と過子起こそーよ。……やっぱ寝起きドッキリのアイデアいる?」
「い、いらないよ……! ふつうに起こすし……!」
「え~? 勿体な~。、今馬と仲良しじゃん? 何しても怒られないんじゃね?」
「たとえ仲良しだとしても怒られないことはないでしょ……!」
「はえ? そーなん?」
怠美ガチぼっちだから、そういうのわかんないんだ~。
どうにも突っ込みにくいことを平然と口にして、飴宮さんは今馬くんと過子ちゃんのコテージがある方向へと向かっていく。
飴宮さんは、よくわからない。掴み所がないっていうか、掴ませないようにしているっていうか。
彼女がさっき吐き出した、「裏切り者はあいつだよ!」が、耳のすぐ傍で鳴って、つい息を吐いた。裏切り者。そういうこともあるのだろうか? 私達の中にそういう人がいて、その誰かが鍵を破壊して、捕虜さんを逃がした?
――けれど澄野くんは、あの時、裏切り者の存在に狼狽える私達を前に声を張り上げた。
「この中の誰かじゃなくて、別のヤツがやった可能性もある! ……前にも話しただろ? 消えない炎の、侵校生だ……!」
彼は突然、そんな主張をしたのだ。
消えない炎の侵校生。
意味がわからなくて、「え?」って口にした。だけど同じような反応を見せたのは私と希ちゃん、面影くん、それからくららちゃんと、狂死香ちゃんだけだった。
なんでも澄野くん曰く、「消えない炎を纏った侵校生」とやらは、最終防衛学園での生活が始まった直後から、何度も彼の前にその姿を現しているらしい。何かを訴えてくるけれど、声は聞こえない。何かをされるわけでもない。その消えない炎の侵校生が、昨晩もまた眠っていた澄野くんの部屋に現れたのだと言う。
その侵校生は澄野くんを襲うそぶりを見せることすらないまま、校舎の方に消えていった。それで、慌てて後を追ったところ、防衛室を襲おうとしていたもこちゃんの姿を見つけたのだと言う。
「……だから、それ以来は見てないけど、あいつが捕虜を逃がしたとも考えられるはずだ」
それを聞いた希ちゃんは、ふと、零すように口にした。「その消えない炎の侵校生が現れなかったら、もこちゃんのコピーが防衛室を襲おうとしている事に気がつかなかったってことでしょう?」って。「逆に助かったんだね」って。
一方で面影くんはその「侵校生」の存在そのものに懐疑的で、「でもその侵校生を見たのって澄野君だけなんだよね? ……そもそも本当にそんな侵校生がいるの?」と目を細めていた。澄野くんはそれに反論したし、蒼月くんもまた「拓海クンが嘘なんて言うわけないよ!」と庇っていたけれど――現状ではどれだけ推測を重ねたって、真実に辿り着くことは難しいのだろう。喉にざらざらとした感触が広がる。焦燥に似た感情が、外側に滲み出ていく。
――分からないことばっかりだ。
次から次へと問題が起きて、それに直面せざるを得ない度に、私達はすり減っていく。渦の中に放り込まれて、わけもわからないまま、水面から浮かんだり沈んだりを繰り返している。
そんな中でも前に進むしかなかったから、必死で前を向いてきた。そうすることでしか、自分を保てる気がしなかった。
だから今回も、そうするしかない。
裏切り者なんかいるわけないって、そう思ってないと、多分まっすぐ進めない。
「え~! 鍵が閉まってたらドッキリできないじゃーん!」
飴宮さんの声に、意識を引き戻されて、顔をあげる。
屋上の、北側。端に並んだのが今馬くんと過子ちゃんの部屋だ。無遠慮にドアノブを回した飴宮さんは、肩を落として過子ちゃんの部屋のインターフォンを連打する。ぴんぽんぴんぽんぴんぽん、って、容赦のない音が響き渡る。そんなにうるさくしなくてもいいのに、って思いながら、隣に並ぶ今馬くんの部屋の扉の前に立って、インターフォンを指の腹で、押した。
ぴん、ぽーん。
無機質な音を、閉ざされた扉の表面を、後頭部を照らす日の柔らかさを、私は今も覚えている。