――もこちゃんは、もういないらしい。
 口の中で小さく独りごちたその声は誰にも、私本人にすら受け止められることのないまま、ベッドに敷かれたシーツの皺に吸い込まれていった。
 下ろされたロールカーテンの向こうで白い光がぼんやりと透けていた。いつの間にか、夜はすっかり明けていたらしい。あんな戦いがあった後でも当たり前に朝がくることが、信じられないことのように思えていた。
 頭は妙に冴えていた。夜を徹して繰り広げられていたさっきまでの戦闘で身体はすっかり疲れていたのに、それが眠気に繋がらないのが不思議だった。
 ベッドに横たわっていると、頭と身体と心を繋ぐ糸が全て断ち切られてしまったみたいに、自分という存在が遠く感じる。――周囲に音がほとんどないせいだろうか。部屋の内側も、外側も、今はひっそりと静まりかえっている。
 先の戦いが終わって、みんなは今後の相談をするために作戦室へと向かった。
 私だけが自分の部屋に戻ったのは、希ちゃんに気遣われたからだ。



ちゃん、顔色が悪いよ。……決まったことがあれば後で伝えるから、今日は先に休んでて」



 そう言う希ちゃんだって、よっぽど酷い顔をしていたのに。
 シャワーを浴びたはずなのに、ベッドに放り投げた指の先は冷えて、微かに震えていた。確かめるように、手のひらを開いたり閉じたりするけれど、どうしようもなく緩慢としている。回り続ける天井のシーリングファンは昨日までと何も変わらないのに、私だけが、明らかに違う。昨日までの私とは、もう、中身がすっかり入れ替わってしまった。
 そっと目を閉じる。目蓋の裏に、雨みたいに自分に降り注いでいた鮮血が浮かんで、息が止まる。
 ――どうしてあんなことができたんだろう。
 思った瞬間、喉奥からせり上がってくる異物感に吐き気を催した。慌てて玄関脇に設置された洗面台に向かう。水を流しながら嘔吐いても、吐き出せたのは透明で粘ついた胃液だけだった。
 気持ち悪い。まだ手のひらに、あの時の感触が残っているみたいで、叫び出したくてたまらない。
 水を止める気力もないまま、顔を上げる。
 鏡の中には、目の下を赤くした私がいた。髪は幾本も頬に張り付いていた。胃液と涎の混じった体液が口の端から垂れていて、それだけは、どうにかタオルで拭った。前髪の隙間から覗く、涙の滲んだ怯えた目。自分の罪を認めながら、そのくせ飲み込めないでいる人間の目だった。
 タオルの下の乾いた唇が、ひとりでに動く。すかすかの、ほとんど空気みたいな私の声が、水の流れる音に混じって溶けていく。



「…………殺しちゃった」



 懺悔みたいに。








 致命傷を負い、戦う力を失った部隊長が最後の力を振り絞るようにしてもう一度もこちゃんの姿になったのは、その言葉通り、「喪白もこでいる時間が長かったせいで感傷的な気分になっていたから」なのだろうか。それともその姿でいるうちは言葉が通じるのを良いことに、私達を引っかき回したかったからなのか。それは、もう分からない。
 それでも彼女は私達に、何の抵抗もない様子で話してくれた。もこちゃんの声で、もこちゃんの姿で。「彼女」の能力の仔細を。最終防衛学園に潜り込んだ彼女のその目が見てきたものを。何を思っていたのかを。
 希ちゃんのせいで失敗した、って、彼女は言った。
 希ちゃんがずっと自分の傍にいたから。
 苦しかった。
 ――許せないと、そう思った。








 鏡の前から動けないまま、どれくらいの時間が経っただろうか。控えめなノックの音がしなければ、私はそのまま、いつまでもそこに佇んでいたかもしれない。
 我に返って、水を止める。持っていたタオルでもう一度顔を拭って、「はい」って、外に聞こえるように返事をした。思ったよりも気丈な声が出てくれたから、良かった。吐き気は引いていて、鏡の中にはいつもよりも顔色の悪い私がいるだけだった。
 何度か咳払いをして、声の調子を整える。本当は出る元気もなかったけれど――でも、気づいていながら扉を開けないのも気が引けた。両頬を軽く叩いて、タオルを握りしめる。精一杯、声をあげる。



「――まって、今開けるね」



 きっと作戦室での話し合いが終わって、誰かが様子を見に来てくれたのだろう。インターフォンではなくノックで様子を窺ってくれたのは、眠っている可能性があることを考えてくれたからに違いない。そんな風に気遣ってくれるなら、多分、希ちゃんだ。
 そう思って部屋の灯りをつけ、扉を開けたけれど――違った。



「――殺あ、ちゃん」



 目を細めた面影くんがまだ彩度の低い空を背負ってそこに立っているのを見たとき、私はどうしてか少しだけ、泣きたくなったのだ。








「もう眠っているとばかり思っていたから、びっくりしたな」



 そう言われたから、私だってびっくりしたよ、と言いたいのを堪えて、「身体は疲れてるんだけど、うまく眠れなくて」と答えてしまったのが悪かった。それを聞いた面影くんは「そういうときは横になるだけなった方がいいよ」って私をベッドに横たわらせると、そのまま毛布をかけて、彼のためにつけたばかりの灯りを全て消してしまったのだ。



「え、あ、あの」



 何の躊躇いもなく、こちらに背を向ける形で私のベッドに腰を下ろした面影くんに、つい声をかけてしまう。
 眠れなくても横になった方が良い、っていう理屈は分かる。私だって寝られるなら寝てしまいたいし。でも、男の子の――面影くんの隣でベッドに横になるのは、どうしても抵抗がある。
 私に用事があったんじゃないの? 私が寝るのはそれが終わって、面影くんが帰ってからでいいよ――そういうことをしどろもどろに訴えたのに、首だけで振り向いた彼は曖昧な笑みのまま「……添い寝の方が良いってこと?」と首を傾げたから、「ちがう……」って言うほかなかった。
 仕方なく、熱くなった頬を隠すために毛布を鼻先まで引っ張る。
 締め切られたロールカーテンの壁と布の隙間から、細い光が伸びて、面影くんの足の甲あたりに真っ直ぐな線を描いていた。面影くんは行儀良くベッドに腰を下ろしたまま、一度はこちらに向けていた視線を、ベッドの傍にあるデスクの方へと向ける。無遠慮なのか紳士的なのかわからないけれど、彼は元々そういう人だった。そういうところが、好きだった。
 誰かの話し声が部屋の外の、少し先の方から聞こえた気がした。私はそれで、ベッドについた彼の指先を眺めながら、「みんなと話し合い、してきたんだよね。……どうだった?」って、口にした。――沈黙が少し、痛かったのだ。
 面影くんはそれでも、視線を部屋の隅に向けたまま。



「有意義なことは、特別、何も。……あの捕虜も殺すべきだ、って話になったけど……一旦それについては保留になったよ」

「え、あの捕虜さんを?」

「うん。広義的な意味で見れば……彼女だってもこちゃんの敵なわけだから」



 中庭の檻に閉じ込められた、美しい人を思い出す。感情の薄そうな、だけど銀崎くんの言葉には笑ったって言う、あの女性。「殺すべき」っていう言葉に感情がさざ波だった。……きっと、くららちゃんや狂死香ちゃんがそう主張したのだろう。二人も、ずっと感情を揺さぶられ続けていたから。
 面影くんの表情は、私の位置からではわからなかった。彼がそれについて、どういう立場でいたのかを聞こうとして――だけどできなかったのだ。声が詰まって、何も口にできなかった。どこに視線をやったら良いのかわからなくて、毛布の端っこの、角になっているところを見た。
 ――かたき。
 面影くんの口にした言葉を、彼に届かないよう、心の中に刻みつけるように繰り返す。
 たった三文字の言葉がどろりと溶けて、胸の中に澱のように積み重なる。それに捕らわれて、うまく息ができなかった。目の前が徐々に暗くなって、自分だけが取り残されてしまったような気がした。
 面影くんは、じっと黙っていた。ざんばらに切られた短い髪。その下で重たげなピアスがゆっくりと揺れている。そこに僅かに血がついているのを見て、息が止まった。自分の身体のどこかにもまだそれが残っているんじゃないかって、心臓がバクバクと音を立てていた。



「…………」



 本当は、言いたかった。慰め合いたかった。私が負った生々しい傷を、差し出したかった。先の話じゃなくて、今の、この傷を。
 だって、一人でどうしたらいいかわからなかったから。
 言いたかった。最初から私達を騙していたなんて、ひどいよね、って。見た目だけじゃなくて、言葉も、記憶も、性格もコピーできるなんて、そうやって私達を騙して防衛室を襲おうとしていたなんて。私達につけこんで、希ちゃんを傷つけて。私、どうしても許せなかったの。
 胸がじくじくと音をたてる。知らないうちに、呼吸が浅くなる。偽物のもこちゃんの横顔、第二防衛学園での思い出、いろんな記憶が混ざり合って、映写機が逆再生でも始めたみたいに私に現実をたたきつけていく。いないのだ。もう、もこちゃんはいない。
 でも面影くんは、なんとなく気づいてた? 確証が持てなかったから、距離を置いていただけで。
 ――私は気づけたはずなのに、知らないふりをしていたの。
 もこちゃんなら言わなかっただろう言葉達。希ちゃんにあんな風に声を荒げて怒ったのだってそうだ。おかしいって思っていて、見ないふりをした。許せなかったのは、だから、自分に対してもだった。
 私にも向けなければならなかった怒りを、だけど私は、あの部隊長にだけ向けたのだ。
 「本物のもこちゃんはどこ!?」、もこちゃんの姿で、もこちゃんの声で語る部隊長に、声を荒げて問い質した希ちゃんに返された言葉が、私の首を絞めたから。
 視界の真ん中に置いていた面影くんのピアスが、はっきりと揺れた。彼が振り向いたのにそれで気がついたけれど、その表情までは良く見えなかった。彼は何も言わず、私を見下ろしていた。枕の下が、濡れていた。「面影くん」、縋るような声が出る。頭から被った血の温度を思い出す。私がやるって言ったのに。
 トドメを刺せない希ちゃんの代わりに、私がやるって、自分で言ったのに。



「――ころしちゃった」



 用済みになったもこちゃんはもう殺しちゃったって、あの子が言ったから。
 毛布の端を、知らないうちに握りしめていた。爪が毛布ごと皮膚に突き刺さって痛いのに、やめられなかった。ぎゅうと噛みしめた奥歯が軋んで、口の中に鉄の味が広がった。
 殺してしまった。もこちゃんの形を保てなくなったあの部隊長を、私が殺した。生を諦め項垂れた無防備な首に我駆力刀を突き立てた。もこちゃんの敵を討ったのだ。泣き叫びながら刀を振り下ろした私は、きっと、酷くみっともなかっただろう。生温かい血だった。シャワーを浴びても、まだにおいがまとわりついている気がした。
 でも、私がやるべきだった。希ちゃんじゃないなら、私が断ち切るべきだった。
 ぐちゃぐちゃになった思考はどうしようもなく絡まって、腕や足ごと雁字搦めにする。
 殺したって、何も晴れなかった。もこちゃんは戻ってこないし、私達が失った光はどこにもなかった。じゃあ、なんで殺したんだろう? 怒りを晴らすため? でもその怒りは、自分自身に向けるべきものでもあったはずだった。わけがわからなくて、気持ち悪くて、ぎゅうと目を閉じる。私は人殺し。今度こそ、本当に、人殺し。
 ――「ちがうでしょ」って否定してくれる人は、もういない。
 その時、毛布を握りしめて白くなった手に、細やかな温度が落ちた。
 毛布に絡まる指を優しく解いた面影くんの手が、私の手を握りしめる。爪の痕が残った手のひらを、彼はそっと撫でてくれる。性愛ではなく、親愛。面影くんが私に向けてくれる感情は、いつも真っ直ぐで、痛いくらいに優しい。
 空いている方の手で、涙が拭われた。濡れた手の甲が離れて、代わりに面影くんの顔が目に入る。眉尻を下げて私を見ていた。不意に、第二防衛学園を出たバスの中のことを思い出した。「変な子だねぇ、ちゃん」、やわく揺れていたその声も。ずっと一緒だった。東京団地を出てから、ずっと。



ちゃん」



 面影くんが壊れ物を扱うように、丁寧に、私を呼ぶ。変な子だねぇ、って、彼は言う。



「……君のそれは、私達も背負うものだろう?」



 私の抱えた傷を撫でるみたいに、優しい声で。



「――私達は仲間で、家族みたいなものなんだから」



 声にならなかった。
 あとからあとから流れる涙を、面影くんの指先が拭うけれど、足りなくて、髪を濡らしていた。ほつれた糸の先。欠けてしまった球体。それでも残る温度があった。――大切にしたかった。
 カーテンの隙間から漏れた光は今も彼の足下に伸びていた。空気中の微細な塵が星みたいに瞬いていた。私に触れることを恐れない彼の右目。尖った爪の先が涙に張り付いた髪を払った。命を奪った感触はまだありありとこの手に残っていた。どれだけ目を逸らそうとしても。我駆力だって、そう。だから、全部夢じゃない。
 もこちゃんはもうどこにもいなくて、私は人殺しだ。それはもう、認めなくてはいけない。



「立ち直れなくても傍にいてくれる?」



 きれいに形を整えて、取り繕えないままに口にしたそれに、面影くんは「いるよ」って、そう言った。その音は光と熱になって、私の肌を滑り落ちていく。
 恐怖と後悔と怒り、その全てが空気に混じって溶けていた。優しさに胸を打たれ、彼の手の温度を受け止めていた。
 空っぽだったはずの心は確かに満たされていく。
 私達は仲間で、家族。
 その言葉が、いつまでも私の中に、救いみたいに落ちていた。








「あーあ、世話が焼けるわね。ほんとに」



 部屋の壁は薄くて、ちゃんの泣き声は、外にいるわたし達にまで届いていた。
 面影くんを見送った直後は「絶対あいつ何かやらかすわよ、任せるべきじゃなかったんじゃない?」とやきもきしていたくららちゃんも、今更あの部屋の扉を開けるのは野暮なことだって思ったんだろう。フェンスの前で手を組みながら、面影くんが入っていったちゃんの部屋を見つめている。



「ま、アタシだったらから水分という水分が抜けてカピカピになるまで泣かせられるけど」

「カピカピ? エッチなやつでござるか!?」

「ちょっと狂死香、うるさいわよ! 盛ってんじゃないわよ、大声出したらにバレるでしょ!」

「あはは……くららちゃんも、声、落とした方がいいかも……」



 夜の開けた空は白んでいて、低い角度で、日の光が屋上を照らしていた。風は消えない炎の熱を微かに運んでいて、わたし達の喪失を和らげるみたいに、空気がぬるい。ついさっきまで戦いがあったなんて、信じられないくらい。
 もこちゃんはもういない。
 それを思うと、泣きたくなる。どうして守れなかったんだろう、助けてあげられなかったんだろう、って。どれだけ自分を責めたって足りない。穴だらけになった胸から膿んだ汁が出て、それはきっと、わたしの一生をかけても拭いきれない。
 ちゃんのことも、そう。引き受けさせてしまった、って思う。負わなくていい傷を、負わせてしまった。本当は、止めるべきだったんじゃないかって、思っている。
 だけど、立ち止まっていることはできなかった。捕虜の処遇についての問題も残っていたし、約束の百日までまだ三十日以上もある。――わたし達は、どんなに辛くても戦わなくちゃいけなかった。
 たとえどれだけ苦しくても、前に進まなくちゃいけない。それで、証明するんだ。
 ――だって、わたしはそのためにここに来たんだから。
 太陽の近くにある、細くたなびく雲の輪郭が、薄くオレンジに色づいていた。
 風は柔らかく髪を揺らしていた。もこちゃんの温かい背を、あの日の光を、わたしは今も覚えていた。


PREV BACK NEXT