「とりあえず一旦自己紹介でもしましょうか!」
私達が第二防衛学園の教室で目を覚ましたとき、もこちゃんが狼狽える私達にそう言って笑ったのを、今でも覚えている。
風格のある――という表現を女の子に使っていいものかは分からないけれど、もこちゃんはあんな訳の分からない状況に置かれながらも、堂々としていた。気負っているわけでも、虚勢を張っているわけでもなく、どこまでも自然体だった。怯えや動揺を、表に出したりしなかった。私達の不安を薄い布でくるむみたいに。
――その笑顔に救われたのだ。
「完全食」のお肉をもりもり食べながら、東京団地が無事だってことがわかって良かった、って言った。星の瞬き始めた紫とオレンジのグラデーションがかった空の下、良かったら今度部屋に遊びに来てね、ってウインクしてくれた。初めての防衛戦を前にしたときだって、もこちゃんの言葉にどれだけ勇気づけられただろう。
「大丈ブイよ、ちゃん」
網膜にこびりつく残像が私の胸を打つ。焼き付けたいのに、零れ落ちていく。
もこちゃんは地獄の底でも砂金を見つけられる人だった。守ってくれた。光そのものだった。彼女は私達を結びつけた柔らかい糸だった。
「何があっても、アタイがちゃんのことを守ってあげる。皆のことも絶対に。世紀末破壊天女喪白もこは、皆を守るスーパースターなんだからね!」
あの日を失うのが怖くて目を背けていた私を、どうかゆるして。
もこちゃん――と呼んで良いのかも、本当はもうわからないけれど――の生み出した私達のコピー体は、つま先から頭、身につけた学生鎧に至るまで土気色だ。
自分と同じ顔。同じ姿。学生兵器も寸分違わず一緒なのに、言葉もなく、表情もない。東京団地で観た、映画のゾンビみたいだった。形だけを成した、空っぽの入れ物みたいだった。
校舎の南側と西側に展開された包囲網に対応するため、二手に別れる形で布陣を取った。そうしている今ですら、私は迷っている。数体分の私達のコピーに守られるようにして相対するもこちゃんにみんなが武器を向けているこの状況を、飲み込めずにいる。
握りしめた学生兵器が汗で湿っていた。夜風が浚う髪が煩わしかった。呼吸はどこまでも浅く、どうしても視界の端にもこちゃんを入れてしまった。
モーニングスター型の学生兵器を手にしたもこちゃんは、侵校生を指揮する王様のよう。
――夢なら、覚めてほしかったのだ。
「…………ちゃん」
銃を構えた希ちゃんが、不意に私の名前を呼ぶ。
トリガーにかかった細い指。少しも震えていなかった。その身体の奥の、銀崎くんが乗ったロボットが、敵を引きつけるための赤いシグナルを発する。澄野くんや面影くんが先陣を切って侵校生に攻撃をしかけているのを見た。私の背の方で、狂死香ちゃんが、「紛い物め! たたっ切ってくれる!」って、私達のコピーに果敢に向かっていったのも。くららちゃんが防衛装置の作成に取りかかったのも。
校舎の南側で、もこちゃんを前に動けずにいるのは、私だけ。
紫の炎に、希ちゃんの輪郭は微かにぼやけている。
「もしもこちゃんと戦うのが苦しかったら……蒼月くん達と向こうの敵の相手をした方がいいよ。……無理、しない方がいいと思う」
蒼月くん達が向かった校舎の西。
少なくとも向こうに行けば、もこちゃんとの戦闘は避けられるだろう。私は私達のコピーや、もこちゃんが生み出した侵校生を相手にすればいい。この動揺からも、恐怖からも、そうすれば逃げられる。現状を理解することも、直視することもしなくてすむ。
――ぐらつかなかったなんて、死んでも言えなかった。
いくら私達のコピーと戦わなくてはいけなくても、所詮言葉を発することのない、姿形を模した人形みたいなものだ。惑わされることはない。もこちゃんの存在に意識を引っ張られて、戦場にいながらも尚覚悟が決められずにいるのなら、まだ自分が動ける場所にいた方がいい。ここにいたら、私はみんなの足を引っ張るだけだ――。
そう思っても、動けない。影が地面に縫われて、糸が断ち切れない。
だって、そしたら私は希ちゃんに、面影くんに、くららちゃんに、狂死香ちゃんに、全部押しつけることになるのだ。
怖いから。わからないから。痛みを受け入れられないから、って。
それのどこが「仲間」だって言うんだろう。
希ちゃんの放った弾丸が侵校生を貫いて、黒に水の混じった油を染みこませたような体液をまき散らせた。銀崎くんが引きつけた侵校生を、澄野くんと面影くんが次々切り伏せた。狂死香ちゃんが切りつけた偽物の今馬くんが、泥みたいに溶けたのを見た。――その中で、微笑を携えながら悠然と武器を構えているもこちゃんの姿も。
学生兵器にまで広がる赤い目のような模様。顔の左半分は黒ずんで溶けかけて、輪郭が滲んでいた。「偽物だよ」って言った面影くんの声も、「戦う」って叫んだ希ちゃんも、本当は、全部痛かった。
痛かったけど、でも、もう、だめだ。
そう思ったのは、その直後、もこちゃんが振りかざしたモーニングスターが、希ちゃんの身体を掠めたから。
血の気が引いた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。バカみたいだ。この期に及んで、もしかしたら全部勘違いなんじゃないかって甘いことを考えていたのだから。
「――希ちゃん!」
地面にたたきつけられた鉄球の轟音は、内臓の奥を震わせた。トゲのついた重たい鉄の塊が私達の目の前に落ちた衝撃で、細かい砂がぱらぱらと空を舞っていた。めり込んだ鉄球を、鎖を引きずって引き寄せたもこちゃんの目は、狂気に濁ったまま。小さく呻いた希ちゃんは、血の滲んだ腕を銃ごと引き寄せる。
もこちゃんの赤い目が、真っ直ぐ私達を捉えていた。思い出していた。初めて侵校生の襲撃を受けた日のこと。
「何があっても、アタイがちゃんのことを守ってあげる。皆のことも絶対に」
耳にやわくこびりついたあなたの声。だけど今それは、雑音が混じって揺れている。
「――ねえ、希チャん、ちゃン。アタイ達、友達よね?」
侵校生を率いながら、一歩一歩、私達に向かってくるもこちゃんは、身体のほとんどがもう黒く変色している。私達のコピーみたいに。
いつだって光を背負っていた。向日葵みたいだった。宝石みたいな瞳はいつも希望に満ちていた。思い出す。思い出す。私達の傍にいた人。
「世紀末破壊天女喪白もこは、皆を守るスーパースターなんだからね!」
――でも、もう、いないのだ。
そう認めた瞬間、喘ぐような呼吸が口の端から漏れた。握ったナイフの切っ先が震えて、それが抑えられなかったから、左手で手首ごと握りしめた。
もこちゃんは、偽物。強く思ったら、鼻の奥がつんと痛んだ。誤魔化すように首を振った。涙に濡れた頬に髪の毛が張り付いた。
断ち切らなくてはいけなかった。今ここで。
「……にげたくないよ」
やっとの思いで吐き出せた、情けなく震えた、掠れた声。
私を支えてくれた手の温度を、今も覚えている。
「私も、希ちゃんと……みんなと、戦う」
自分に言い聞かせるように言ったそれに、希ちゃんは微かに目を見開いていた。
もこちゃんは本物のもこちゃんと同じくらい――もしかしたらそれよりもさらに――強かった。学生兵器のモーニングスターは鉄球部分が鎖で持ち手と連結されていて、軽々と振り回されるそれはどこに飛んでくるか分からない。気を抜けば一撃で骨も内臓も粉砕されてしまうような破壊力にぞっとしながら、その背を取って、希ちゃんと挟撃するため、駆ける。
私がそうして自由に動けたのは、校舎の南側から攻め込んでくるコピー体や有象無象の侵校生の半分くらいを銀崎くんが引きつけてくれていたからだ。くららちゃんの作った防衛装置も、彼女の手で幾度となく修繕されながらも、弾丸を四方に放ち続けていた。モーセの十戒みたいに私の前にだけ道ができていたのは、だから、二人のおかげだ。
だけど戦況がこちら側に不利であったのは、間違いない。敵の数はなかなか減らず、澄野くんも身動きが取れずにいた。面影くんや狂死香ちゃんも、目の前のコピー体を相手取るのに苦戦していて、援護は期待できそうになかった。私達はたった二人で、もこちゃんと相対していた。
――私達でやらなきゃ。
握りしめたナイフに力を入れながら、どくどくと音を立てる鼓動がそれで抑まるとでもいうかのように唇を噛む。挟撃するための位置で足を止め、細く長く息を吐く。
踏み込んだのは、その直後だ。
私が背後に回ったのに合わせて、希ちゃんがもこちゃんへ向けて銃を撃った。甲高い悲鳴に息が止まりそうだったけれど、それでも耐えて、懐に潜り込み、姿勢を低くして、よろめいたその背を切りつける。飛び散った黒い体液に混じる虹色は彼女がもこちゃんじゃないことの証左だったのに、それでもその手応えのあまりの生々しさに緩い吐き気を覚えた。
大きく揺れた黒い影。二つに編まれたもこちゃんの髪。ばたばたと音を立てて、黒い血が落ちていく。
「なんで……ブツの?」
こちらを向いた右目は、もこちゃんのものだった。
光を受けて輝く、宝石みたいな。
そのせいで、一瞬判断が遅れる。「ちゃん!」、希ちゃんに叫ばれて我に返っていなければ、咄嗟に後方に距離を取ることができなかっただろう。爪先を鉄球が掠めて、お腹が冷えた。髪の何本かを持って行かれた感覚があった。さっきまで私のいた場所の地面は、もこちゃんの振り下ろした鉄球で大きく穿たれていた。
――もう少しで、ミンチになるところだった。
「あーあ……」
つまらなそうに目を細めるもこちゃんは、肩をすくめる。もこちゃんがやらないような仕草に、傷付いて良いのか、ほっとして良いのかもわからない。覚悟を決めたつもりだったのに、私はまだ、混乱している。
もこちゃんが私達を狙って攻撃してくるのは、きっと偶然ではないのだろう。
どういう方法でかは知らないけれど、彼女は、もこちゃんの記憶や感情をコピーしている。「もこちゃん」の存在に一番揺れていたのが私達二人であることを熟知していて、それで、こうして武器を向けている。
「……希ちゃん。チャん。どうして、アタイをいじめルの?」
銃を構える希ちゃんを、ナイフを手に距離を測る私を、もこちゃんは交互に見る。
私達が合流する前に澄野くんにつけられた傷が深いのだ――風で捲れたマントの下に、私がつけたのでも、希ちゃんがつけたのでもない深い裂傷が覗いたのに、その時気がついた。彼女が鉄球を引きずるだけで、そこからどす黒い体液が止めどなくあふれて、地面に痕を残していた。口を開けた傷口は、翻ったマントが戻っても尚、目に焼き付いていた。
希ちゃんも、それが目に入ったらしい。もこちゃんを間に置いた状態で、目だけで合図される。あそこを狙えば、もしかしたら、私達でも――。
無言のやりとりに、もこちゃんは気がつかなかったのだろう。少しだけふらつく足を、もこちゃんは最終的に希ちゃんに向けた。私に背を向け、ゆっくりと歩き出す。
「邪魔しないでほしイの。友達でしょ。アタイ、喪白もこ、だよ? ね?」
希ちゃんは、何も言わない。唇を噛みしめたままもこちゃんを強く見つめ返して、銃口を向けている。その腕から、痛々しく血が滴っていた。白い人工学生鎧に、赤い染みができていた。
ずるずると引きずられる鉄球で、地面はもこちゃんが歩いた通りに削れていた。前線は気づかないうちにじりじりと下げられていて、くららちゃんの防衛装置がコピー体によってとうとう破壊された。銀崎くんの機体が大きく損傷している。澄野くん達はバリア装置に群がる敵を片付けるのに手一杯で、今も自由に動けない。ここからは確かめられない西側も、似たような戦況だろう。
悪夢みたいだった。
でも、私はもう覚めてほしいなんて言わない。
「――喪白もこだよ?」
もこちゃんの声で口にされたそれに、希ちゃんが、緩く首を振った。
ちがう、って。
その時、その目から落ちた一粒の涙。
「あなたはもこちゃんじゃない」
それを聞いた瞬間、私は駆けだしていたのだ。
ナイフを握りしめて、飛ぶように走る。風を切って、もこちゃんから漏れ出た体液を踏みつけて。思考はまっさらに澄み切っていた。大きく踏み込んで、潜り込む。隠れたマントの下、澄野くんから受けた傷の癒えていない部分を目がけて、ナイフを突き立てようとして。
だけど。
彼女は突然、ぐるりとこちらを振り返った。まるで、私がそうするのを分かっていたみたいに。「ちゃん」、濁った声で呼ばれたはずだったのに、どうしてその時、私の耳にはそれが、もこちゃん本人の、柔らかい声に聞こえたのか。「ちゃんは、アタイの友達よね?」、心臓に爪を立てられたような気がした。
「――何があっても、アタイがちゃんのことを守ってあげる」
もこちゃんの目が、慈しむみたいに細められる。
「大丈ブイよ。……ね?」
――もこちゃん。
動けなかった。
ナイフを握る手から力が抜けた。夜なのに、その背の奥が淡く光って見えた。――躊躇ってしまったのだ。その逡巡は、戦場において致命的だった。
世界の全部がスローモーションに見えていた。モーニングスターが振り上げられたのも、その体重が、全部、私をぐちゃぐちゃにするためにそこに乗せられたのだって。
いいこ、って、その口が動いたのを、確かに見た。
ナイフが手から零れ落ちた。私を頭から食べるような影が落ちた。丸くて、トゲのついた。あ。って思った。あ、だめだ。って。ぐるりと記憶が駆け巡る。現在から過去へと遡るように。めまぐるしく捲られる日々の記憶の中で、最後に見たものがなんだったのか、私には分からない。ただ、垂直に落ちたナイフが地面に突き刺さったのと、乾いた銃声が響いたのと、低い悲鳴がもこちゃんの口から漏れたのは、ほとんど同時だったのだ。
知らないうちに閉じていた目をそっと開けたとき、もこちゃんの背中から、微かな煙が上っていた。
「…………あ?」
もこちゃんの身体がぐらりと揺れる。夜の闇に、パン、パン、と、発砲音が響いている。膝をついた彼女のその背、翻ったマントの下にあった深い傷に、尚も弾丸は撃ち込まれた。五発、六発、七発。「ぎ、ぃ」と言う、人間とは思えない獣のような悲鳴がその口から漏れた。もこちゃんの形が、溶けていく。崩れかけていた輪郭が、赤い光を放ちはじめる。
その身体が倒れて開けた視界の先に、銃を構えた希ちゃんがいた。
地面に蹲ったその身体、光に包まれながら、右目だけが最後に残っていた。銃から白煙を上らせながら、希ちゃんが、もこちゃんだったそれを見下ろす。透明な涙を流しながら。希ちゃんは一度ぎゅ、と目を閉じて、それから、言ったのだ。もうおわりにしよう、って。縋るみたいに。
「わたしの友達に、これ以上手を出さないで」
透き通った声だった。――まるで祈りのような。
光の中に、あの日の私達はいた。もこちゃんに背負われた希ちゃんと、もこちゃんと、私。
希ちゃんの言う「わたしの友達」は、私のことだけを言っているんじゃない。あの日の私達だ。
その時、私の目にも涙があふれたのだ。
三人で階段を駆け下りたあの日、私達は確かなよろこびに包まれていた。嘘じゃなかった。もう戻れることのない、美しい朝だった。胸を穿たれた気がした。息が漏れる。もこちゃん、それはもう、声にもならない。もこちゃんは、ゆるゆると溶けていた。それに呼応するように、澄野くん達が相対していたコピー体や侵校生も、光の塵になって消えていく。
あとに残ったのは、もこちゃんに擬態していた部隊長、ただ一人だった。