私達は、彷徨う羊の群れ。
 わけもわからないまま東京団地からパネルのない空の下に連れ出され、人類のために武器を持って戦えと命じられた。
 けれどそんなの、簡単に飲み込めるはずなかった。だって私は、普通の高校生だったんだから。そんな時、希ちゃんが吹いた牧羊笛に一番に反応して私達を引っ張ってくれようとしていたのが、もこちゃんだった。
 第二防衛学園で迎えた二日目の朝。敵襲を受けたその日、「戦おう」って私達を鼓舞した希ちゃんの言葉に頷いたもこちゃんは、まだちゃんとは覚悟が決まっていなかった私の手を握った。「大丈ブイよ、ちゃん」って、日差しをめいっぱい浴びた、向日葵みたいな笑顔で。



「何があっても、アタイがちゃんのことを守ってあげる。みんなのことも絶対に。世紀末破壊天女喪白もこは、皆を守るスーパースターなんだからね」



 あの時そのあまりの白さに胸を打たれたんだって言ったら、笑う?
 もこちゃんはいつだって、先陣を切ってくれた。初めての防衛戦も、トレーニングも、私の経験を増やすために連れ出してくれた学園の外でだって。私を背負うもこちゃんの背中は広く、逞しかった。
 「肉は完全食よ!」って、外からエネルギーを分けてもらうみたいにご飯を食べている姿が好きだった。自分でも気づかないくらいの不調でも「何かあった?」って声をかけてくれる、細やかな気遣いが好きだった。侵校生相手でも決して怯むことない強さが好きだった。もこちゃんがいたから戦えた。――もこちゃんがいたから、私は羊から人間になれたのだ。
 もこちゃんの背中を、ずっと追っていた。
 あなたがいなくても。








「…………もこちゃん?」



 作戦室の飛び込み台を使って校庭に出た私達の前に、「もこちゃん」はいた。
 じとりと湿った夜の闇に包まれた校庭を、消えない炎の紫が照らしていた。風がその熱を運んでいた。けれど静かな夜だった。開けた雲の間から星が瞬いていた。「月」はいつも通り、私達を見守るみたいに浮かんでいた。もこちゃんは、その細やかな光の影に沈みかけているようだった。



「――拓海クンっ! 遅くなってごめん!」

「希! 大丈夫!?」



 蒼月くんの呼びかけに、澄野くんが私達を振り返る。「お前達……!」、その時の、彼の安堵と困惑の入り交じった顔。彼の腕に守られるようにして立っていた希ちゃんは、けれどくららちゃんの声が届いていないとでも言うみたいに、もこちゃんから目を離さなかった。目を見開いて、じっと彼女を見つめていた。まるで全てを受け入れて、飲み下す準備をしているみたいに。
 澄野くんと希ちゃん越しに、闇の中に溶けかけたもこちゃんを見る。
 ――もこちゃん。
 向日葵みたいな女の子。



「――なンで?」



 花が落ちるみたいに不自然な角度で、その首が傾げられる。
 過子ちゃんがびくりと身を引いたのを、今馬くんが庇うようにその背にやった。私の隣の面影くんが、小さく息を吸った音が聞こえた。皮膚がひりついて、目の前がぐらつく。現実味がなかった。夢だったらどんなに良いだろうと思った。
 でも、夢じゃない。



「も、もこちゃん」



 口にした呼びかけに、もこちゃんは答えない。
 学生鎧を身につけたもこちゃんの輪郭は、闇に侵出するようにぼやけていた。その顔の左半分はどす黒く変色し、瞳だけが鋭い光を放っていた。体中に点々と、目の形をした印が何かの烙印のように広がっていて、私はそれを、病気の葉っぱみたいだって思った。――思って、首を振った。そうした瞬間吐き出した息が、どうしようもなく震えていたことだけはわかった。
 もこちゃんはふらつきながら、私達に一歩一歩近付いてくる。「ナンデ?」、目蓋の失われた左目を見開いて、声を震わせて。私達を責めるように、顔を歪ませて。
 なんで。
 言いたいのは、私の方だ。
 もこちゃんが崩れていく。重そうに引きずられた足が、校庭の土を捲っている。紫の炎をその背に受けて。「なんデ?」、無意識に、一歩後ずさった。希ちゃんは、今も背筋を伸ばしたまま。



「も、喪白さん……どうなっちゃったの?」



 吐き気を堪えながら言う川奈さんに、「どう見ても人間辞めてんじゃーん」と軽口を言う飴宮さんの声が、宙に浮いたように響いていた。何も答えられなかった。「そんなことない」って、言えなかった。
 一体、三人に何があったって言うんだろう。何があってこうなったんだろう。校庭には、玄関ホールにあった消火器が一つ転がっていた。少し離れたところにキラキラしたものが落ちていることに気がついて目を凝らせば、夥しい数のガラス片であるらしいことが分かった。けれどそれで、一体何がわかるというのか。
 ――澄野くんは、だけど、もこちゃんに武器を向けていた。
 その切っ先から、黒い、ヘドロのような液体が滴って、地面の上に落ちていた。



「――ねェ、どうシて?」



 もこちゃんの身体から、ぼとり、ぼとりと、墨のようなものが落ちていくのを、私は見る。
 星の光を吸い込んで、一切の反射を許さないような黒だった。私達がここに来るまでの間、彼らが戦っていたことは間違いなかった。もこちゃん。声にならない声が、外に出て行くことを知らないまま体中で渦巻いている。緩やかな吐き気に襲われて、空気すら、皮膚に突き刺さるように痛い。もこちゃん。宝石みたいだった、あなたの目。



「もこ殿は……どんな悪魔と契約したでござるか!?」



 身構え、刀に手を添えながら言う狂死香ちゃんの声に答えるように、隣の面影くんが言った。



「いや……あれはもこちゃんじゃないよ……」



 確信めいた声だった。顔を上げた時、その瞳が痛々しげに細められた。
 それまで面影くんの中にあった疑念の種。彼は思えば、目が覚めたもこちゃんをどこか遠巻きに眺めていた。希ちゃんとも違う慎重さで、観察していた。



「もこちゃんになりすました……侵校生だ」



 その時、もこちゃんの右目がはっきりと歪む。
 もこちゃんは、泣いていた。
 透明じゃない、濁った色をした涙だった。








「にせ、もの?」



 もこちゃんは、偽物なんだって。
 この学園に戻ってきた時から、コピーか擬態、そういう能力を持った侵校生が、もこちゃんと入れ替わっていたんだって。記憶や感情も全てコピーして。――そう面影くんは言った。
 くららちゃんや狂死香ちゃんはそれに酷く憤った。こちらの良心につけこんだ、極悪非道な行為だって。澄野くんや厄師寺くんだってそうだ。私達を包み込んでいた動揺が、怒りに変わっていく。それをすぐに飲み込めなかったのは、私だけだったのかもしれない。私はもこちゃんを凝視したまま、一歩も動けなかった。髪の毛が汗でぺたりと頬に張り付いて、だけどそれを、払うこともできなかった。
 もこちゃんが動く度、その輪郭は滲むように闇に溶け出していく。「なンで」、縋るような声は濁った雑音混じりで、私はそれをどう受け取ったら良いのか分からない。



「…………なンで、みんなアタイを嫌うノ?」



 軋みながら動く首、眼球の方向は左右で定まらず、不安定に揺れていた。もこちゃん。言いかけた声を、踏み出しかけた足を、面影くんが止める。腕を掴まれて、一瞬それに意識を奪われる。
 だけど、その時だった。



「アタイも……みンなと仲良くシタいのニ……!」



 悲痛な叫びと共に、もこちゃんの身体からタールのような色をした無数の液体が飛び散ったのは。
 その衝撃と風圧に驚いて、思わず腕で顔を守る。耳を劈く低い風音に目を閉じた。でも、それもほんの数秒のことだ。
 止んだ風に手首の間から周囲を窺ったとき、地面に音を立てて落ちた黒い液体から、這い出るように何かが生まれるのを見た。
 黒い液体を滴らせたそれは、私達が何度も戦ってきた侵校生だ。でも、それだけじゃない。もっと精巧な、人間のそれ。頭から肩、腕、腰、足――まるで水たまりから浮き上がるみたいに、学生鎧を纏ったそれらは現れた。薄く微笑むもこちゃんの周囲を守るように。
 生気のない、黒い身体だった。表情はなく、それらは微かに俯いていた。私達と同じ数だけいる、泥の人形。「――なんで」って、やっとの思いで吐き出したそれは空気に混じりきらずにいつまでも耳に残った。足下の石が、踵に触れて転がった。
 そこにいたのは間違いなく、私達のコピーだったのだ。



「なっ……!?」

「僕達の……コピーまで?」



 ――ほんとに、全然飲み込めない。何が起きているのか。どうしたらいいのか。
 もこちゃんは偽物。
 もこちゃんが目を覚ましたときの、彼女の手のひらの温度も。泣きじゃくる希ちゃんを抱きとめた腕も。朝の食堂での会話も、二人で歩いた渡り廊下も、NIGOUへの涙も、全部。
 全部嘘?
 心臓がうるさいくらいに音を立てていて、私はそれに飲み込まれてしまいそうだった。それでも、「…………やるしかないよね」って、希ちゃんが言ったから。
 覚悟の決まった目で、もこちゃんを見つめていたから。



「大丈夫なの? 希……」

「大丈夫……じゃないかな。気持ちの整理も全然ついてないけど……」



 そんなこと、言ってられないよね。
 自身に言い聞かせるように吐き出されたその声は、膜の向こう側にあるみたいにくぐもって曖昧だ。



「これは……人類みんなの希望を守るための戦いだもんね……」



 その時希ちゃんに差し出された、重たげなもこちゃんの腕。



「…………希チャン……そこ……どいテくれナイ?」



 お願いだから。親友からのお願いだから。そう言うもこちゃんに、希ちゃんが銃を構える。その銃口は、微かに震えていた。「希チャン」、希ちゃン、希ちゃん、希チャん――何重にも重なって聞こえるその声の中に、だけど、もこちゃんのものは確かにあったのだ。
 もこちゃんの皮膚に走る罅を見ていた。その隙間から、あの日々が溶け出してくるんじゃないかって思った。
 光の粒。最後の三段を飛び降りた。差し出された手。私を運んでくれた。金の産毛。私達を守る背。私のヒーロー。
 引きつる声で、希ちゃんが言う。



「……わたしは戦うよ! みんなと一緒に、大切なものを守るために戦う!」



 その覚悟を前にしてもなお、私はまだ、迷い続けている。


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