遠くで何かが割れて、落下したような音がした。
 開けっぱなしだったロールカーテンの向こうから微かな月明かりが差し込んでいて、私は自分が眠ってしまっていたのだと知る。四角く切り取られた窓の向こうを、小さな星々がいくつも瞬いていた。雲が空の半分を覆っていて、輪郭の部分が薄く空に溶けるように伸びていた。
 部屋の中は真っ暗だった。
 夢から無理矢理引きずり出されたような気だるさに、頭が上手く回らない。



「夜…………」



 それでもどうにか起き上がって、さっきの物音の正体も判然としないままにはっきりと焦点を結ばない思考に像を作ろうとしたときだ。外で得体の知れない、獣の咆哮のような音が空気を震わせた気がしたのは。
 瞬間、ぼやけていた視界が突然クリアになる。私の思考が現実にぴったりはまって、脳が覚醒する。
 ――なんの音?
 胸がざわざわして、薄手の毛布を足に絡ませたまま、弾かれるようにベッドから下りた。
 そういえば、さっきも変な音で起こされたんじゃなかっただろうか? 今の咆哮は、あれに関係している?
 時計の針は暗闇に紛れて見えなかった。それでも就寝時刻のアナウンス――二十三時に鳴るあれだ――は、とっくに流れ終わった後らしいということは、深遠な夜の気配の濃さでわかった。
 まとわりつく毛布の煩わしさにそれを蹴飛ばす。私から剥がれた皮膚の一部みたいに、毛布は床の上でみっともなく蹲っていたけれど、構っていられない。
 手の震えを抑えて扉を開ける。
 音は、なかった。
 冷たい空気が髪をさらった。屋上に並ぶコンテナハウスはどれも灯りがついていなくて、夜の中にじっと佇んでいる。開けた通路の先に立つフェンスも、その奥で燃えさかる消えない炎も、いつも通りだ。
 なのに何か、とてつもなく嫌な予感がした。
 説明がつく感覚ではない。足の裏から黒い物がゆっくりと這い上がってくるような、恐怖とも嫌悪ともつかない何かだ。校庭の、あの紫の炎よりこちら側に、間違いなく何かがいるっていう確信だけがある。そのせいで、踏み出しかけた足が怖じ気づいて動かない。
 何かって、でも、なんだろう。侵校生が侵入しているとでも言うのだろうか? だけど敵の攻撃を報せるアナウンスは鳴っていないはずだ。たとえ深く眠っていたのだとしても、東京団地でも散々聞かされたあの音に身体は反応するようにできていたし、そうじゃなかったとしても、何かあれば誰かが私を起こしに来たはずだった。
 フェンスの方まで行って、下を覗き見れば答えは出る。
 分かっていたのに動けなかった。「そこ」に何があるのか、確かめるのが怖かった。
 震える息を吐き出したその瞬間、だけど、視界全体がちかりと点滅した。



「…………え」



 校舎の周囲を半透明の膜が組み上がるように覆い、外界とこちらとを遮断していくのを、私は息をするのも忘れて見つめている。ささやかな月の光を受けて、一つ一つの膜が星のように一瞬の煌めきを見せていた。バリアの完成は、あっという間だった。それはほんの数秒で、完璧に校舎全体を包み込んでいた。
 ――防衛戦モードに入ったんだ。
 つまり、誰かが作戦室で我駆力刀を使ったということだ。
 誰が?
 上手く動かない足で、屋上を駆ける。丸子くんの部屋の真横を駆け抜けて、大きく一歩を踏みしめる。地面の隆起に足を取られて、半分転びそうになりながらもフェンスを掴んだ。がしゃんと揺れる音がした。夜の冷たい空気が喉に張り付いていた。校庭を見下ろした瞬間喉が震えたのは、そのせいだと思いたかった。



「――さん!」



 同じように異常を察して部屋から出て来たらしい蒼月くんに名前を呼ばれても、私は振り向くことができない。
 ひんやりとした夜風が私の足首を撫でる。フェンスを握りしめたまま、私は遙か下、校庭の中央に立つ三人の人影を見ている。
 学生鎧姿の澄野くんと希ちゃんが、もこちゃんらしき何かと対峙しているのを、ただ、見ている。








 何が起きているのかは、屋上からでははっきりと分からなかった。
 それでも、澄野くんが武器を手にしているのは間違いない。彼がそれを向けた相手が誰なのか、目をこらさなくても、それは、わかる。
 呼吸が浅くなった分、酸素が上手く頭に回らない。緩やかな吐き気を覚えながら、私は現実感のなさに足下がぐらつくような錯覚を覚えている。無意識にフェンスを握りしめた指に力を込める。震えが身体から伝って、微かな音を立てている。



さん!」



 強い、呼びかけだった。
 私を現実に引き戻すような。
 それで我に返って、振り向く。蒼月くんの眼鏡の奥の双眸は、私を真っ直ぐ捉えていた。



「……兎に角、ボク達も行こう。みんなを起こすのを、手伝ってもらえるかな?」



 冷静であるように努めたその声は、けれど私の頬を張るみたいに芯があった。こんなところで立ち止まっている場合じゃない、そう言われた気がして、緩く唇を噛む。「――うん」、小さく頷いて、私はフェンスからそっと手を離した。
 ――面影くんの姿が彼の部屋にないことに気がついたのは、その後のことだった。








 夜の階段を駆け下りる私の足音が反響している。耳につく心音を踏み潰すように、下から三段分をまとめて飛び降りた。あの日と違って、私は一人だった。
 アナウンスはなかったけれど、恐らくこれから戦いになること。既に澄野くんと希ちゃんが校庭にいること。それから。――そういう、寝ぼけ眼のみんなへの説明は、蒼月くんに任せた。私は唯一姿の見えない面影くんを探して、ただ、校舎の中を走っていた。
 面影くんの居場所は、わかる。きっと、生物薬品室だ。「ボクが行こうか?」と蒼月くんが言ってくれたのを断った。いくら足音を響かせても、心音はすぐ隣にあるみたいだった。いつもの廊下が急に暗く、ぐっと圧迫めいて感じられていた。いつもは切れないはずの息が、口の端から訴えるように漏れていた。
 面影くん。
 心の中で、彼の名前を呼びながら走っている。耳が籠もって、上手く息ができない。そういえばここ最近の私は、ずっとそうだった。酸素が足りていないような。手足とか脳にまで行き渡っていないような。
 ――見ないふりをしてきた罰なのだろうか。
 生物薬品室の扉に手をかけて押し開けたとき、私はそこでようやく息を吐く。薬の、甘ったるい匂いが鼻腔をついた。私には、それが懐かしくすら思えた。



「……おや?」



 廊下よりももっと灯りの少ない生物薬品室の暗がりの中。
 闇に滲むようにその輪郭を溶かした面影くんは、ビーカーを片手に「……どうしたの? ちゃん」、って、私の名前を呼んだ。








 ――もこちゃんが。
 そう伝えただけで、面影くんは何か察したところがあったらしかった。
 彼はほとんど口を開かなかったし、私もそうだった。上手く言葉にできる気がしなかった。生物薬品室のすぐ近くの階段を上って、三階の作戦室へと向かう。廊下の片隅に落ちた墨のように濃い闇が、私達の足を絡め取ろうとしている。頭の端っこのあたりがちりちりと引きつるみたいに痛んで、もこちゃんの笑顔が沈んでいく。
 作戦室に足を踏み入れた私と面影くんに、くららちゃんと狂死香ちゃんが、我駆力刀を差し出してくれた。くららちゃんはマスクで微細な表情がわからなかったし、狂死香ちゃんは何がなんだかわからないとでも言いたげな顔をしていた。――私は、どうだったのだろう。わからないのだ。頭が上手くまわっていなくて。
 誰も、何も言わなかった。我駆力刀を振り下ろそうとする過子ちゃんを止める今馬くんの声が聞こえてきた。川奈さんが緊張で嗚咽を漏らしているのも。作戦室のモニターから伸びる青い光は私達を水槽に閉じ込めているようにも見えた。
 円になった私達を結ぶ糸は一度切れた。
 もう一度結べたと思っていた。でも、結んだのは空虚だったのかもしれない。糸がほつれて解けていたのを、見ないふりをしていただけだったのかもしれない。冷たい我駆力刀に掘られた名前を、指の腹で撫でる。もこちゃん、と、今でも縋るように思っている。
 だけど、その時私の指の上に重なる温度があった。
 視線を落とす。慈しむように重ねられた、骨張った手。整えられた爪先は長くて、だけどその分、慎重な手つきだった。面影くん。口にしかけたとき、彼は言った。



「深く息をして」



 その音の、なんて優しかったことか。
 ざわつく作戦室の片隅で、彼の温度は一定だった。ささくれだった私を包み込むように、なだらかな声だった。



「目を閉じて。……肩の力を抜いて」



 言われた通り目を瞑った。さっきの光景は網膜の裏に焼き付いていて、鮮明な像になる。
 何が起きたのか、ちゃんとは分からなかった。希ちゃんを庇うように立ち塞がった澄野くんがもこちゃんに、武器を向けていた。「しつこいんだよ!」、もこちゃんの引き連れたような声。力なく笑った希ちゃんの横顔。光の塵たち。めまぐるしく蘇る。一緒に食べたカレー。おんぶしてくれたこと。向日葵のような笑顔と、泣けるくらいやさしい声。
 手に力が入りかけたとき、私の指先に触れていた面影くんが、「大丈夫」って言った。
 大丈夫、って。
 私の裾を引っ張るくらいの優しさで。



「私達がいるから」



 糸を持ってくれる人。
 目を開けたら、面影くんがいた。くららちゃんと、狂死香ちゃんが隣にいてくれた。もう片方の手を、繋いでくれた。希ちゃんも、きっと同じ気持ちでいてくれるはず。
 だけど、じゃあ、もこちゃんは?
 わからなかった。何が正しいのか。私のヒーロー。あの子がいたから戦えた。あの子がいたから。
 あの子がいたから生きてるのに。
 何も整理がつかないまま、小さく頷く。だけど胸の中に日だまりみたいなぬくもりが落ちていたのは、確かだった。








 学生鎧を纏うため、お腹に刃を突き立てたとき、しまっていた作戦室の扉が再び開いた気がした。
 その時入ってきた人が誰だったのか、私は、ちゃんと確かめはしなかった。


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