窓から差し込む午後の陽光が落ちてもなお、教室はどこか冷たい空気に満ちていた。さっきのもこちゃんの言葉が固まりきらず、混じって漂っているようだった。



「希ちゃん」



 一度唇を噛んでから、呼びかける。希ちゃんは教室の、窓側の席に腰を下ろしていた。扉を開けた瞬間こちらに顔を向けた希ちゃんは少し驚いた様子だったけれど、もこちゃんが戻って来たのではないと知って、がっかりしたようで――いや、どこかほっとしたようでもあった。



「……ちゃん」



 少し舌っ足らずに名前を呼ばれる。希ちゃんが机の上で緩く組んだ白く細い指が行き場をなくしたように空を引っ掻く。
 もこちゃんは、行ってしまった。何があったの、って私の問いかけに「なんにもないわよ?」と首を振った後、「アタイ、ちょっと疲れちゃったから部屋に戻るわね」って、完璧に整った笑顔を貼り付けて。彼女はもう決して私を振り向かなかった。何の躊躇も迷いもない足取りで、階段の方に歩いて行った。
 もこちゃんと希ちゃんとの間に何があったのかなんて、分からなかった。でも、それが知りたくて教室に入ったわけではなかったのだ。ただ、心配だった。あんな風に尖った言葉を向けられた希ちゃんが傷付いたりしていないか。
 沈黙を踏みつけてしまわないよう、一歩踏み出す。教室に落ちる淀みをそのまま受け止めるように、きちんと呼吸をして。



「……大丈夫?」



 希ちゃんの座る机の前に立って口にしたその言葉は、語尾が掠れた。
 希ちゃんは私を見上げる。悲しみが凝縮されて結晶になったような瞳の中に、彼女よりもよっぽど泣きそうな顔をした私が映っている。
 ――拒絶されたらどうしよう。
 けれど希ちゃんは、無意識に拳を握りしめていた私から目を逸らさなかった。真っ直ぐに、こちらを見上げていた。まるでそれが私への誠意だとでも思ってくれているみたいに。
 やがて、私達の間に落ちた沈黙をやわく撫でるように吐き出されたそれ。



「――もこちゃんを、怒らせちゃったんだ」



 希ちゃんは力なく笑った。
 窓ガラスから、ぬるい光が差し込んでいた。その光は希ちゃんの輪郭を淡く浮き上がらせていたのに、なんだか消え入りそうに見えた。窓の奥の、もう見慣れたはずの廃墟群。紫色の消えない炎は今も私達の守る学園をぐるりと取り囲んでいて、私はそれを、急に自分とは関係のない、遠くの世界のもののように思ってしまう。
 希ちゃんの組んだ指に力がこもる。色のない爪。



「…………わたし、友達失格だね」



 痛みに触れさせないよう口走られたそれは、まるで、懺悔のようだった。








 屋上へと続く階段を上りながら、希ちゃんはさっきの教室であったことを、私に話して聞かせてくれた。
 「肉は完全食よ!」と普段から言っていたはずなのに目が覚めてからのもこちゃんがお肉を控えていることとか、まだ本調子じゃないと模擬戦を避けていること。もこちゃんらしくないのがどうしても心配で、「何かあったなら教えてほしい」って踏み込みすぎてしまった。もこちゃんの気持ちを考えていなかった。もこちゃんにだって話せない事情があったのかもしれないのに、って。私はそれを、黙って聞いていた。口を挟んだら、希ちゃんの中の、あるいは私の中の柔らかい形をした部分が決壊してしまいそうで、怖かった。



「……だから、わたしが悪いんだ」



 力なく笑う希ちゃんの、色素の薄い髪が、光を吸って揺れていた。
 いつもだったらそこここに誰かの気配が感じられる校舎は、昼間だってことが信じられないくらいひっそりと静かだ。私達二人分の足音だけが、世界から切り離されたみたいに反響している。その中で、緩く握った手を開いて、閉じる。さっき手を洗ったときの水滴がまだ残っているのか、あるいは汗なのか、私の手のひらは、微かに湿っている。
 ――希ちゃんは、悪くないよ。
 浮かんだ言葉は、だけど口からは零れなかった。希ちゃんはそういう言葉を必要としているように思えなかったし、こうして事情を聞いた後でも、私にはやっぱりわからなかったから。
 希ちゃんのかけた言葉に、どうしてもこちゃんがあそこまで怒るのかが。
 もこちゃんが口にするには、あまりにも鋭い言葉達だった。私は、もこちゃんはああいう怒り方と対極にいる人だと思っていた。感情のまま、人を傷つけたりするような人じゃないって。もこちゃんは怒っていても、言葉を選ぶ人だって。第二防衛学園で私達ともこちゃんの過ごした十日間は、でも、本質的に理解し合うには短すぎたのかもしれない。
 でも、本当に?



「――ちゃんも、びっくりさせちゃってごめんね」



 そう口にされて、思わず顔を上げた。希ちゃんの、庇の影にいるような力のない笑み。彼女の温度は、いつも泣けるくらいに優しい。
 もこちゃんと違って、希ちゃんは私にこうしてさっきのことを打ち明けてくれている。
 だけど、そこには細い線があるように思えた。私が一度、彼女に引かせた線だ。優しい希ちゃんは、私が希ちゃんともこちゃんの間で苦しまないように、それを一番に考えてくれている。だから、ここまで、っていう明確な区切りがある。私はそれを分かっているから、触らない。――触れない。
 私達の知っているもこちゃんからは考えられないようなあの罵声の違和感を、「わたしが悪いんだ」っていう希ちゃんの言葉で覆って、箱に片付ける。



「…………ううん。私は、平気だよ」



 希ちゃんの方が。
 言いかけた言葉は、喉の窪みに引っかかって落ちていく。
 気の利いた慰めができない歯痒さと、踏み込むことのできない意気地のなさ。
 希ちゃんの優しさに甘える私こそ、本当は、「友達失格」なんじゃないだろうか。
 屋上に近付くにつれて、差し込む光の濃度が濃くなっていく。私はその光が作る影の中、隣に希ちゃんの息づかいを感じているはずなのに、ただ一人で取り残されたみたいに感じている。








 もこちゃんは、私のヒーロー。
 いつだって私達を守ってくれた。
 希ちゃんと別れて自室に戻った私は、ベッドに横たわりながら、じっと息を潜めている。光を取り入れるために開けたロールカーテンの向こうは、もこちゃんの部屋だ。壁が薄い分、生活音やくしゃみや会話なんかは、それなりに漏れてしまう。だけどそうして私が身じろぎをせずにいても、息を詰めていても、部屋の外からは何も聞こえない。
 静寂の中に、微かな耳鳴りだけがした。胸のざわめきが内臓を震わせて、どうしようもなかったから、小さく息を吐いた。
 耳の奥から蘇ってしまうのだ。希ちゃんに向けた「しつこいんだよ!」っていう怒声と、全ての感情を平らにしたような、私への、「なんでもないわよ?」っていう声が。ベッドに放り投げられた指の先に、無意識に力がこもった。耐えられなくて、お腹を守るように丸くなる。土の中で丸まった幼虫みたいに。
 もこちゃんがお肉を食べないこと。くららちゃんや厄師寺くんからの模擬戦の誘いを断ること。希ちゃんが言うように、変なのは分かっている。希ちゃんに怒鳴ったのも、勿論そう。でも、もこちゃんは疲れているだけじゃないかな。眠り続けたせいで。そこに踏み込まれたから、つい、声を荒げちゃったんじゃ?
 堂々巡りの思考の中で、不意に面影くんの存在が脳裏を掠めた。
 ――面影くんに話したら、彼はなんて言うだろう。
 想像したけれど、何も浮かばなかった。面影くんがどんな言葉を選ぶのか。だけど、浮かばないんじゃなくて、本当は考えたくなかったのかもしれない。
 私が自分の中のとりとめもない思考を整理して彼の前に並べたとき、私はきっと、一つの答えに辿り着くだろう。彼はそれを否定しない。
 それが私には、どうしても怖かったのだ。きっと。



「……やだなぁ」



 顔を両腕で覆いながら無意識に呟いた言葉は、私の周囲を空回るように埋めていく。
 日が、少しずつ翳っていく。窓から差し込む四角形は、私から徐々に遠ざかる。
 夜になろうとしていた。
 それは私が、夢の底から覚めることになる夜だった。


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