私がトイレの個室に籠もっていたのは、何もお腹が痛かったからじゃない。
用を足しながら考え事をしているうちに、いつの間にか時間が過ぎ去っていたのだ。
自分がぼんやりとしていたことに気がついて、我に返る。この学園には自室以外にもそれぞれの階に男女別のトイレが二カ所ずつあって、誰かとトイレでかち合うことはあまりなかった。そのせいで、つい気を抜いてしまっていたのだろう。
ぼけっとしてたかも。
慌てて便器から立ち上がる。水を流す音が止まるのを待ってから個室の扉を開けたら、少し高い位置にある窓から場違いなくらい白々とした光が真っ直ぐ差し込んでいて、つい、その眩しさに目を細めた。
――正直、今朝は食事がなかなか喉を通らなかった。
食べていたのが今馬くんお手製の「いちごジャムゴーヤーハンバーグ定食」だったせいもあるのかもしれない。希ちゃんともこちゃんが別々に食堂を出て行った後も、一口一口が重く、完食に物凄く時間がかかってしまった。今もまだ、それが胃の底に残っているように重い。胸焼けがして、消化し切れていないお肉を戻してしまってもおかしくないくらいで――。
「肉は、ちょっと控えているのよね」
手を洗うために鏡の前に立ったとき、今朝の食堂でもこちゃんが言ったそれが、不意に蘇った。
鏡の中の私は、迷子になって途方に暮れた子供のような、頼りない目をしている。自分が何を見たらいいのか、ちゃんと分かっていない顔。痛々しく見えて、口角を無理に持ちあげた。感情が顔に出る自分が、どうしようもなく嫌だった。だからきっとさっきだって、食堂を出て行こうとする面影くんに「寝不足?」って聞かれてしまったのだ。返答に詰まった私に、彼がどう思ったのかは分からないけれど。
小さく息を吐いて、蛇口をひねる。透明な水が私の皮膚を伝って滑り落ちていくのをじっと眺める。そうしていると、第二防衛学園にいたときに記憶が引きずられていく気がした。光の散るもこちゃんの笑み。私をおぶってくれたときの彼女の体温。「大丈ブイよ、ちゃん!」と目を細めたもこちゃんの、私の皮膚の内側にまで届く、やわらかな声。
無意識に目を閉じたら、流れる水の音や感触が、やけに鮮明に感じられた。身体を通り抜ける五感が壁の向こうの世界を遠ざけてくれるようで、私だけが、切り離されたみたいだった。
――希ちゃんが、もこちゃんの言葉に違和感を覚えるのも分かる。
だって、侵校生に捕らわれる前のもこちゃんはどんな時でも、常にお肉を食べていたから。「肉は完全食よ! ちゃんももっと食べなきゃ! 身体を絞る時でも増やす時でも、いつ何時誰の肉でも食べるのよー!」って、かつて私に言っていたように。
それを覚えていたからこそ、狂死香ちゃんは彼女に肉を勧めたし、くららちゃんも「肉は控えている」と口にしたもこちゃんに首を傾げたのだろう。私だって、爪で引っかかれるくらいの感覚は覚えた。でも、それだけだ。
だって、そんなの良くある話じゃないだろうか? 人間なんだもん。たとえ「完全食」でも、好きな食べ物でも、食べたくない気分のときだってある。そうじゃなくたってもこちゃんは病み上がりで、模擬戦を断ってしまうくらいにはコンディションが整ってないのに。
そう、だから、まだ調子が戻っていないだけだ。
もこちゃんは、もうすぐ元気になる。前みたいにお肉をたくさん食べて、模擬戦だっていくらでもする。先頭に立って、私達を守ってくれる。あの時みたいに。
言い聞かせるようにそう思った時だった。
誰かの怒声が、トイレの壁の向こう側から聞こえてきたのは。
はっきりと苛立った、棘で縁取られた声。
「――しつこいんだよ!」
私はそれが、もこちゃんの声だと知っていた。
今の声は、もこちゃんのものだ。
身体を貫くような怒声。壁の奥、恐らく隣の教室から聞こえてくるそれが彼女の声だって脳では認識できているはずなのに、普段の彼女と繋がらない。だって、もこちゃんがこんな調子で怒っているところなんて、私は一度だって見たことがないのだ。
トイレに籠もっていた私は、隣の教室に誰かが入ってきたことに気がつかなかった。なされていた会話の中身なんて、尚更わからない。だけど箍が外れたもこちゃんの声は、今、確かに私の心音と水の流れる音の向こうで痛々しいくらいに響き渡っている。
食堂で、もこちゃんを呼び止めていた希ちゃんの姿が脳裏をよぎった。ううん、そうじゃなくても、きっと私はもこちゃんと一緒にいるのが誰かを、ちゃんと分かっていた。
――相手は、希ちゃんだ。
「何もねーって言ってんだろ、友達面して、しつこく聞いてくんじゃねえよ!」
耳に届く、普段のもこちゃんからは考えられない言葉の羅列に、血の気が引いて、呼吸が浅くなる。
冷たい水の感触が、手首から爪の先を流れていた。息の仕方が段々分からなくなって、聴覚だけが研ぎ澄まされる。蛇口を止めることができない。私の思考は、どんどん細くなっていく。
「勝手にアタイの事を知った気になって、ゴチャゴチャ決めつけやがって……」
鏡の填めこまれた、冷たいコンクリート壁の向こう。膜を張ったようにくぐもった、だけど怒りに震えるそれはさらに張り上げられる。
――目の前の人間を突き放して拒絶するような、感情にまみれた声。
「いい加減、うっとうしいんだよっ!!」
私はそれを、針みたいだと思った。
私に向けられたものでは、決してなかったのに。
私が冷静になったのは、それからどれくらい経った頃だったろう。
一分か、二分か。少なくとも、その間も隣の教室で何らかのやりとりがなされていたのは間違いなかった。語り口がトーンダウンしたせいか話している内容までは聞き取れなかったけれど、もこちゃんと、希ちゃんらしき人の声は音として耳に届いていたから。
それでも、細い糸で辛うじて繋がっていただけだった頭と身体が連動して、流しっぱなしだった水道を止められたのは、隣の教室の扉が開いた気配があったからだ。
行かなきゃ、って思った。
出て行ったのがどちらなのかも、私に何ができるのかも、何も分からなかったけれど。それでも身体が動いた。止められなかった。
鏡の中で私の髪が空を舞った。指先から落ちた水滴が、床に痕を作った。扉をほとんど身体で押し開けるようにして、廊下に出る。薄暗い、どこか静謐な気配を漂わせたその先に、彼女の後ろ姿がある。
大きな背中。プロレスのコスチュームから伸びる筋肉質な手足。緩く編まれた青いおさげ。
向日葵みたいな、女の子――。
「もこちゃん!」
昼間だというのに、窓が少ないせいでこの校舎は湿ったように仄暗かった。空気はひんやりとしていて、少し肌寒かった。等間隔に並んだ緑色の光を放つ蛍光灯が、一つ、切れていた。その真下で足を止めたもこちゃんは、まだ、私に振り向かない。
階段を上っていく、誰かの足音がした。それ以外は、酷く静かだった。食堂からも、ガレージからも、なんの物音もしなかった。ただ、教室の中から椅子を引く音が微かに響いただけ。その音に、私の胸まで軋んだ気がした。
「…………もこちゃん」
喘ぐような息ごと、もう一度、名前を呼ぶ。そうしなければ、今度こそ息が止まってしまいそうだったから。
希ちゃんと、何かあったんだ。もこちゃんがあんな風に取り乱して怒るような、何かが。だけど、どうしてそんなことになったのかわからない。希ちゃんはもこちゃんを心配していただけだ。彼女は不安だったのだ。私には理解できない不安だったけれど、希ちゃんはそれをきっと、もこちゃんに取り除いてほしかった。
だからこそ、もこちゃんが言った「しつこい」、「何もない」、「うっとうしい」って希ちゃんへの言葉がバラバラに私の中に落ちていて、上手く繋げられない。染みみたいに広がっていく。私はそれを掴めないまま。
だってもこちゃんは、私達の不安をいつもその手で拭ってくれたでしょう?
私達の間に横たわっていた沈黙を、だけど数拍の後、もこちゃんは破った。小さな呼吸音。筋肉の微かな動き。ぽたりと落ちた、私の指にたまっていた最後の水滴。
「――どうしたの? ちゃん」
私を振り向いたときの、その、細められた目。
もこちゃんは笑っていた。
口角も、頬も、睫毛の落とす影も、あんまりにも整っていたものだったから、私は一瞬息を飲んだのだ。
――私が今の二人のやりとりを聞いていたなんて、思っていないのかもしれない。
だからこうして、そっと線を引こうとしているのかも。そう思って口走った「あの、何か、あったの? 希ちゃんと、今」っていう言葉は、果たして正しかったのか。
「きこえ、ちゃって」
歪みの一つもない笑みを浮かべたまま、もこちゃんは「ええ?」って小さく首を傾げた。編まれた髪が、緩く彼女の肩を滑っていた。
「なんにもないわよ?」
もこちゃんの影は、もこちゃん自身の足下に、塊のように落ちている。
私はそれを見ていた。
もこちゃんの瞳の奥にある宝石のような光を見つけられなかったら――どうしたらいいか、多分、わからなかったから。