希ちゃんの瞳の奥には、曇りガラスを通したような影がある。









 中庭で銀崎くんと別れた後、希ちゃんと澄野くんが階段を下りていくのを見た。
 どこか切迫した横顔をした希ちゃんは私の存在に気づいていないようで、それで私は、二人に声をかけそびれたのだ。
 希ちゃんは、もこちゃんのことを澄野くんに相談するつもりなのだろうか?
 だとしたら、彼女がもこちゃんに抱いている違和感をあれからずっと拭い去れないままでいるってことだ。食堂での希ちゃんを思い出す。いつもの笑顔が消えた、希ちゃんの目。
 階下に向かった二人の動向が気になって、階段の上から耳をそばだてた。希ちゃんと澄野くん、二人分の足音は、どこかの部屋の扉の奥に消えていく。多分、一階にある空き教室だろう。そんなことを考えてしまう自分に嫌気が差した。
 ――なにやってんだろ。
 不意に冷静になる。私が気にしたって、どうしようもないのに。
 だって、やっぱり私には希ちゃんが言うように、もこちゃんが「変」だとは思えないのだ。
 もこちゃんは、いつものもこちゃん。明るくて、元気でにこにこしていて、周りを気にかけている。まだ本調子じゃないだけで、数日もすればきっとトレーニングも再開する。模擬戦だって、いくらでも引き受ける。だって「いつ何時誰とでもリングに立って戦う姿を見せるのがレスラーよ!」っていうのが彼女の信条なんだから。
 昨日、三階の渡り廊下で私に笑いかけてくれたもこちゃんの顔。
 向日葵みたいに笑う彼女を思い出そうとしたけれど、ガラス張りの、吹き抜けになった中庭の天井から差し込んでいた光が、あの時のもこちゃんの表情を逆光にしていた。
 それを思い出した瞬間、ほんの少しだけ、そうとわからないくらいの寒気が身体の芯を通り抜けた気がしたのだ。
 窓から差し込んでいた光が薄い雲に覆われ、足下に静かな影が落ちた。








先輩。今日はいちごジャムゴーヤーハンバーグ定食っす! 手間だと思って先にジャムをハンバーグに塗りたくっといたんで、有り難く食ってください」

「わ~…………ありがとう…………」



 六十五日目の朝の食堂。気まぐれで提供される今馬くんの創作料理を受け取った直後、真ん中にある長テーブルから沸き上がるよう声が響いた。



「ブッブー! 正解はチキンウィッグアームロック! キムラロックなんかが有名ね!」

「だー! 外したか!」

「でもいい線いってたわよ、丸子君。ジャーマンスープレックスホールドも、彼の得意技の一つだもの」



 食堂の中心では、もこちゃんによる「古今東西プロレスウルトラクイズ大会」が開催されていたのだ。私がそれを遠巻きに見ていたのは、単純に、プロレスのことがちっともわからなかったから。もしかしたら無意識に、もこちゃんのことを観察しようと思っていたのかもしれないけれど。
 彼女を中心に出来た輪は、学校の休み時間みたいに明るい。「よーし、第二問目、いくわよー!」と腕を振り上げるもこちゃんの陰りのない笑顔は花が咲いたみたいで、その瞳は光を受けて宝石みたいに輝いていて――だから私は安心する。やっぱりいつものもこちゃんだ、って。つい小さく息を吐く。
 丸子くんや厄師寺くん、くららちゃん、狂死香ちゃん――盛り上がる面々の中には過子ちゃんもいて、私はつい今馬くんに、「過子ちゃんももこちゃんにすっかり懐いてるね」って言った。自動調理マシーンが目の前にあるカウンター席に座った私の隣、テーブル部分に軽く座った今馬くんは、「ああ……」って、なんてことないように、小さく首を傾げる。



「ま、いいんじゃないすか。別に過子が誰と付き合おうと、もうとやかく言う気はないんで。喪白先輩なら――まあしっかりしてますし、問題ないでしょ。彼女、先輩みたいに頼りなくないんで」

「えー、すごい、成長したねえ、今馬くん」

「はは……。先輩ってやっぱうざいっすね」

「えっ! なんで!」



 椅子から立ち上がった今馬くんは、そのまま過子ちゃんの隣に向かう。もこちゃんの出した「ヒールユニット時代の喪白もこのフィニッシュホールドはなんでしょうか!」という問題に、「ヒールと言えば凶器攻撃っす! ということは、チェンソーで首切断っすね!」と答えるものだから、銀崎くんに「それ、殺人事件です……」と怯えた声を出されていた。銀崎くんがいつも通りに振舞っているのを見て、少しほっとした。
 盛り上がるもこちゃん達のやりとりについ笑みを零しつつ、今馬くんが持ってきてくれたハンバーグを小さく切り分ける。満遍なく塗られたいちごジャムはフォークの銀色にぺたりと張りついて、食堂の灯りに生ぬるい光を返している。
 平穏だ、って思う。捕虜さんのこととか気になることはあっても、おかしいことなんか、ここでは一つも起きていない、って。
 ハンバーグに混じるには少し違和感のあるフルーティな甘い香りに思わず息を止めたとき、希ちゃんが調理マシーンの前にやって来た。ほとんど反射で「希ちゃん、おはよう」って声をかけた私に、希ちゃんはその瞬間初めて気がついたらしい。びっくりした顔で見つめられて、それから、「あ、おはよう、ちゃん」って、笑みを貼り付けられた。私にはそれが、どうしようもなく、取り繕ったもののように見えていた。








「……ところでさ、もこさんの体調はどう?」



 盛り上がりに盛り上がったもこちゃんのクイズ大会が一区切りついた時、彼女の体調を尋ねたのは蒼月くんだ。以前同様、「コンディションが良くなってきたなら模擬戦しようぜ」と声をあげたのは厄師寺くんで、だけどもこちゃんは彼の言葉に「トランキーロ、あっせんないの!」ってウインクしながら首を振る。
 曰く、筋力はだいぶ戻ってきたものの、復帰まではもうちょっと、ってところらしい。無理をしてもよくないし、できたら完全回復するまで休んでいてほしいところではあるけれど、と、そんなことを思いながら話を聞いていたその時だ。狂死香ちゃんが、「そういう時は肉を食すと良いぞ!」って言ったのは。
 食堂の端、水槽の方で一人、ご飯を食べていた希ちゃんが、ぱっと顔を上げたのを見た。



「肉を食せば、体調不良など一発で吹き飛ぶぞ!」



 希ちゃんのそれは、縋るような目だった。その後に吐き出されるであろうもこちゃんの言葉に、ほとんど何かを賭けているとでもいうかのような。
 もこちゃんは狂死香ちゃんの言葉に「うーん」って、曖昧に首を振る。「肉は、ちょっと控えてるのよね」、その時の希ちゃんの、丸くなった目。



「アタイ、最近体重を絞ってるから」

「そうなの? 前は、肉は完全食って言ってたじゃない」



 くららちゃんの口にしたそれに、もこちゃんは「まあ、今はちょっとね」と眉尻を下げて笑う。
 きっとそれが、希ちゃんには決定的だった。
 食器を下げるために立ち上がったもこちゃんの背を追いかけようとしたのだろう。希ちゃんが食べ終えた食器を手に、慌てた様子で席を立ったのを見た。椅子の軋んだ音が、ここまで届く。もこちゃんの背に彼女の白い手が触れる。食堂は既に喧噪に飲み込まれ始めているのに、二人の影は日常に埋もれることなくそこにある。
 私はそれを、どこかざらついたような気持ちで眺めていた。ジャムの甘みとゴーヤーの苦みが広がっていたはずの口の中は、いつの間にか、何の味もしなくなっていた。



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