次の日の朝も、希ちゃんはもこちゃんから少しだけ離れたところに座っていた。
 もしかしたら一晩経ったことで、もこちゃんへの違和感は本当に「気のせいだった」って風に思い直していたりしていないかなって思ったけど、その表情は変わらずにどこか思わしげなままだ。食は進んでいない様子で、お皿には小さなパンが一個とスープがあるだけだった。
 昨日、私は希ちゃんに線を引かれたのだろう。軽蔑が諦念か、って言われたら、間違いなく後者寄りの色をした線だ。だからもう一度声をかけたところで、希ちゃんはやっぱり「なんでもないよ」って言う。「大丈夫。全部わたしの気のせいなんだ」って、同じように繰り返す。
 ――間違えたのかな、って考える。
 視界の隅で、厄師寺くんがもこちゃんの座っていた席の前の椅子を引いたのを見た。床と脚の擦れる音に、意識が引っ張られる。



「あ? オメー、今日も飯そんなんでいいのかよ?」

「やだ、ちょっと男子~! 女子の食事をのぞき込むのはマナー違反よ! フェニックススプラッシュ決めちゃうわよ!」



 天真爛漫なムードメーカー。明るくて、にこにこしていて、楽しい話をたくさんしてくれる。もこちゃんが目を覚ましてから、学園の空気はびっくりするくらい透明に見える。
 希ちゃんに本心を打ち明けてもらえないのは、私が希ちゃんみたいにもこちゃんのことを「なにか変」とは思えていないせいだ。――じゃあ、昨日のもこちゃんの様子を話してみるのはどうだろう?
 昨日もこちゃんと話をしたけどいつも通りだったし、あんまり心配しなくて良いと思う。気になることはあると思うけど、やっぱりもこちゃんもまだ本調子じゃないだけなんじゃないかな。――なんて風に。
 でも、私の言葉に希ちゃんが納得するとは思えないのだ。
 自分が物凄く悩んでいるときにかけられる楽天的なアドバイスほど、ありがた迷惑なものはない。それに希ちゃんだってきっと、ただもこちゃんが心配なだけだ。ずっと眠り続けていたんだもん。だったら、私ができるのは二人を見守ることだけなんじゃないか。もこちゃんが本来の調子を取り戻してくれることを願うことだけなんじゃないか――。
 「…………アンタ、頭でも痛いの?」、向かいに座っていたくららちゃんに聞かれて、慌てて「え、だ、大丈夫!」って首を振った時だった。銀崎くんの興奮で上擦った「それでですね!」って声が、食堂に響き渡ったのは。



「そうしたら、彼女も繰り返すように、キレイって、ハッキリとそう言ったんですよ!」



 丁度、蒼月くんと澄野くんが食堂に入ってきたタイミングだった。
 張り上げられた銀崎くんの声はみんなの注意を引くには充分すぎて、穏やかな喧噪に包まれていた食堂が一瞬静まる。



「今日は銀崎がうるさいの? 毎日、代わる代わる誰かしらうるさいわね……」、

「…………なんだろうね?」



 呆れた様子でトマトマスクを顰めて言うくららちゃんと二人、川奈さんと話をしていたらしい銀崎くんに視線を向けた。
 前後の会話の流れまでは聞いていなかったけれど、最近の銀崎くんが話すことと言ったら「捕虜さん」についてだ。澄野くんもそう判断したんだろう。「銀崎、今話してたのって……」って声をかけた澄野くんに、銀崎くんは満面の笑みで頷いた。



「はい! 捕虜さんの話です! 今朝、僕の言葉を真似して喋ったんですよ!」



 真似?
 さっきまでもこちゃんと希ちゃんのことで思い悩んでいた頭が、一気に切り替わるのを感じる。



「僕、感動しちゃいました……毎朝いつも同じ言葉をかけ続けた甲斐がありました……」



 嬉しそうに続ける銀崎くんは、ここにはいない「捕虜さん」を慈しむように目を細めていた。
 無償の愛を注ぐ聖職者みたいに、彼はどこまでも美しいまま。








 中庭に足を運ぶのは、「捕虜さん」をみんなで檻に入れたあの夜以来初めてだ。
 むっとするほどの草いきれが広がる中庭は、建物の中にあるとは到底思えない。植物園みたいなものなんだろうな、って花壇に植えられた、東京団地でもなかなか見ないような草花を見ながら考える。
 でも、花ばかり眺めてもいられなかった。
 檻の前で項垂れている銀崎くんと話をするために、ここに来たんだから。



「銀崎くん」



 気配を消して近付いたつもりはなかったけれど、私の存在に先に気づいたのは、檻の中の「捕虜さん」だった。
 どうしたらいいかわからなくて、視線を感じながらも、彼女の方には意識を向けないよう銀崎くんだけを注視する。負のオーラを全身から放って小さくなっている彼の視界に入るよう、落とされた視線の先で手のひらを軽く振った。銀崎くんはそれで初めて私の存在に気がついたように、真っ黒な瞳をこちらに向ける。
 明らかに落ち込んだ力のない目は、光がない。



さん……」



 いつにも増して弱々しい声だ。普段の彼ならば続けて「ダメですよこんなクソゴミ虫と同じ空間にいたら! ウザキモ弱々菌がさんに感染しちゃいます!」くらい言い放ちそうなものだけど、今日の銀崎くんはそんなことを言う余裕もないらしい。
 檻の傍にあるベンチには、恐らく「捕虜さん」が食べた後らしい食器が重なっていた。
 朝、彼女の件で重くなってしまった食堂の空気から逃げるように「食器を片付けに行います」と出て行った彼は、結局ここで動けずにいるのだ。



「ここ、やっぱりきれいだね」



 なんてことないように言いながら、彼と隣り合う形で立つ。地面の上に歪んだ影が二つ、行き場を失ったように並んで落ちていた。彼は私の言葉に黙したまま、「捕虜さん」も入れたら三人もいるはずの中庭は、噴水から伸びる水路を流れるせせらぎの音しか響かない。
 言葉を探して、探して、探して、それで、それが本当に適切なものなのかどうかは自信がないままに「あの……大変だったね、さっき」って口にしたら、破られた沈黙の先で、銀崎くんの目が静かに瞬かれた。



「………………たい、へん、ですか」



 私がどういう考えでもってここに来たのかを、考えあぐねているかのような表情だった。








「でも、確かに驚きだな。侵校生がボクらの言葉まで喋れるなんて」



 「捕虜さん」が自分の言葉を真似して喋ったのだと銀崎くんが私達に伝えた直後、そんな風に口にしたのは蒼月くんだった。
 蒼月くん曰く、同じ音を発音できるってことは頭蓋骨の形状や喉の器官も似ているってことらしい。図書室で彼に勧められた本にも、確かそんなことが書いてあったはずだ。けれど、蒼月くんが続けようとした言葉はくららちゃんによって遮られた。



「……またあの連中とアタシ達が似てるって話? もういいわよ。うんざりだわ……」

「似てようが似てまいが、所詮拙者らに叩き斬られる存在に過ぎぬ」



 くららちゃんに同意する形で口にした狂死香ちゃんも、侵校生は敵だって、もう割り切っているんだろう。たとえその正体がなんであっても、自分達が武器を置くことはないって、最初から決めている。二人のそういう揺らぎのなさを、私はちゃんと尊敬している。――私は、そういう風にはできていないみたいだったから。
 言葉を話したって言っても、たった一言だけ。それも銀崎くんの発した「キレイ」って言葉を繰り返しただけって言うなら、まともな会話ができるようになる前に期限の百日が過ぎてしまうだろう。情報を聞き出すために命乞いを受け入れたけれど、こんな状況ならいつまでも捕虜としておいておく意味はないんじゃないか。いっそ(これは面影くんの言葉だけど)解剖してしまうのも手なのでは。あるいは別の「使い方」を考えるべきでは――そう話し合うみんなを止めたのは、銀崎くんだった。



「使い方なんて言わないでください! 捕虜さんは物じゃないんです! 生きているんですよ!?」



 あの子はやっと心を開きかけているんです、やっと人間を信じ始めているんです。それなのに、酷いことをしないでください、優しくしてあげてください、って、怒りに戦慄きながらそう訴える彼の声は、だけどこの状況では真っ直ぐに受け止められないのだ。
 ――銀崎君が彼女に入れ込みすぎなのも、気になるし。
 この間面影くんが言った言葉が、その時脳裏を掠めた。
 彼は、こうなることも見据えていたのだろうか。思わず食堂の、隅っこにいる面影くんを見た。面影くんは顔色を少しも変えることなく、薄い笑みを貼り付けて、銀崎くんを見ている。
 このとき実際に彼の言葉から、銀崎くんが「捕虜さん」に恋愛感情を抱いてしまっているんじゃないかって思った人は多いみたいだった。「すっかり情が湧いちまってるじゃねえか」って、呆れたように厄師寺くんが言った。「あやつは敵でござるぞ!? 敵に恋慕の情を抱くなど、あってはならぬ下劣な行為でござる!」って狂死香ちゃんが言った。銀崎くんがどれだけそれを否定しても、だけど、濁った空気は払拭されなかったのだ。
 さっきまであんなに嬉しそうに「捕虜さん」の話をしていたはずの銀崎くんは項垂れて、それで、「捕虜さんの食器を片付けてきます」ってぼそぼそと呟くと、そのまま食堂を出て行ってしまった。
 私はそれを止めることもできず、ただ、見ていただけだった。








「あのね、銀崎くんが出て行った後、捕虜……さんのことは、今のままでいいんじゃないか、ってことになったよ。……希ちゃんが、この檻にいる限りは暴れ出す心配もないし、もしかしたら彼女にも事情があって捕虜になったのかもしれないし、って言ってくれて、それで……」

「…………さんも、彼女を『物』だって思っているんですか?」



 ほとんど遮られるように、そう尋ねられて、つい言葉に詰まった。
 足下の土を睨み付けるように、彼はじっと俯いたままでいる。
 私がどういう考えでもってここに来たのか、探ろうとしているのだろう。それは、仕方がない。だって私は食堂でも、傍観していただけだ。くららちゃん達のように、彼女を敵とひとまとめにした言い方もしていなければ、解剖の提案をした面影くんや捕虜としての「使い方」を考え直すべきだって主張した今馬くんの発言を肯定してもいない。黙って、様子を窺っていただけ。
 ――ずるかった、と思う。
 これまでだって、私は「彼女」を遠ざけていた。銀崎くんに全てを任せて、中庭に近付こうともしなかった。今だってそう、私は檻の方を見ることができない。彼女を直視できない。彼みたいに、声をかけることができない。
 理解ができないものは、怖かった。それでも、何も知ろうとしないまま、流れに任せるようにみんなに右ならえをするのも違うと思ったから、だから、私なりの方法で彼女のことを知ろうと思ったのだ。
 銀崎くんに尋ねられてから私が口を開くまで、それなりに長い沈黙があった。きっと、相手が銀崎くんじゃなかったら答えを急かされたり、機嫌を損ねられてもおかしくないくらいの沈黙だった。それでも、「あのね」って、口を開く。



「私、最近本を読んでて」



 彼女を「物」だと思うのか、っていう質問に対して、的外れな答えだっただろう。だけど銀崎くんは、不思議そうに目を瞬かせて、「本、ですか?」って、辛抱強く聞いてくれる。私はそれが、物凄く、嬉しい。



「うん。図書室にあったのを、蒼月くんが勧めてくれてね。全部はわからなくても、侵校生のこととかを考えるヒントになったりしないかなって」



 東京団地の言語について。
 部屋に置いてある本のタイトルを諳んじる。銀崎くんの瞳は、私を真っ直ぐ見つめている。
 『東京団地はたった一つの言語によって構成された文化圏だ。だが、かつての世界はそうではなかった。国境をまたげば言葉はたちまち通じなくなり、同じ国の中にさえ、別の言語を話す者達が存在していた――』
 感情があって、見た目もほぼ一緒で、知能もあって、言葉も話すし、我駆力で戦うなんて――以前蒼月くんが口にした言葉を思い出す。あのとき私は、私達と彼らは話す言葉が違うだけなんじゃないか、って思った。言語について何か分かれば、それが彼女のことを知るきっかけになるかもしれないって、そう考えたのだ。



「蒼月くんが、この部隊長を捕虜にしたときに言ってたでしょ? 侵校生は、外国語を話す、別の人種なんじゃないかって。あの時は、じゃあなんで同じ人間なのに地球を滅ぼそうとするんだろう、って話になって、それで、じゃあやっぱり違うんじゃないか……ってことになったよね。…………でも、私もね、自分で本を読んでみて、思ったの。やっぱり、彼女達が話しているのって外国語で――私達と同じ、人間なんじゃないかって。そう思うんだけど、でも……」



 でも、彼女のことはどうしたらいいのかわからないんだ、って、正直に言ったのだ。どうするのが正解なのか、わからない、って。
 そう続けたら、銀崎くんはやっと、ほんの少し、そうと分からないくらいに微かに頷いた。「はい」って、掠れる声で口にしてくれた。
 彼女は、きっと人間だ。少なくとも私はそう思っている。どうして地球を死なせようとしているのかはやっぱり全然わからないし、みんなの前でそう主張するだけの勇気とか説得力は、まだ持てないけれど。
 でも、そうだとするなら私達はこれまでずっと、人を殺してきたことになるのだ。第二防衛学園を襲った部隊長も、私達が最終防衛学園にやって来た日、くららちゃんが作った大砲で撃ち落とした部隊長も、私達を洗脳した部隊長も。ぞわりと怖気が走って、受け止めきれないそれをいなすように、短く息を吐く。
 私はこのとき、初めて、檻の中に目をやった。
 黒く長い髪をした、私達よりも少しだけ年上に見える、きれいな女性。その目はぼんやりと私達のやりとりを見つめているだけで、そこに敵意や怯えはない。中に入った生物の力を無効化する檻だと聞いている。人間だって思っても、近付く勇気までは持てなかった。彼女と戦った夜を、異形の姿を、覚えていたから。――でも、彼女から見た私達もそうだったのかもしれない。



「…………大丈夫です。近付いても、何もされたりしませんよ」



 不意に銀崎くんにそう言われて、少し悩んでから、恐る恐る、檻に近付いた。一歩分だけだったけれど。
 それでも、こうして見る彼女は、どうしたって私達と変わらない人間に見えたのだ。
 私を真っ直ぐ見つめる感情の読み取りにくい藤色の瞳が、光を吸い込んで淡い色彩を放っていた。
 それがあんまりにもきれいで、どうしてかちょっとだけ、泣けた。



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